衆院選勝利なら、小泉首相の任期延長を=森前首相 (時事通信) - goo ニュース
「小泉首相は独裁者だ」というような厳しい非難の声が聞こえてくる。独裁者であるばかりか、サディストかという声もある。
小泉首相の今回の解散・総選挙のやり方に喝采の声を上げる国民は、少なくない。宿敵・小沢一郎民主党副代表も、「敵ながらよくやるよなあ」といった表情で、岡田民主党の劣勢を正直に認めているようである。しかし、負けてはいられないので、「正々堂々と正攻法でいく」と戦闘意欲満々である。
いまのところ、小泉首相の「猫だまし戦術」と「怪しげな幻術」の連発が功を奏して、国民・有権者の心をすっかり虜にしている感がある。
だが、勝負は、最後まで分からないのが、歴史が証明しているところであるから、油断は双方ともに禁物である。
郵政民営化賛成派を300選挙区のすべてに立候補させるというのは、国民・有権者の「賛否を問う」というのはよい。だからと言って、突然、「何故、こんな人が?」と疑問に思われるような人を次々に送り込むというのは、いかがなものか。
見栄えのする女性、高級官僚、飛び抜けた英才などというメリットを前面に打ち出して、「さあ、賛成派だから投票してくれ」という極めて居丈高な態度が鼻につき、人物はともかくとして、政治哲学も思想も、政治への志も、ましてや「郵政民営化以外の政策」も全然不明な候補者を支持してくれと言われても、国民・有権者は困るのではないか。いわゆるタレント候補とは違うとは言っても、大して変わりはない。小泉首相は、自分がミーハーだからといって、国民・有権者すべてを、ミーハー扱いするのは、失礼の極みだ。
こんなふうな候補者の立て方は、不遜であり、国民・有権者を馬鹿にするのも甚だしい。八百屋や魚屋でさえ、奇麗な野菜や果物、美味しそうな魚を並べる場合、多少の味見をさせてくれるものだ。いきなり、「食え」と言われて、俄に食指が動くはずはない。ここまでひどい候補者の出し方に対して、不快感を抱いている国民・有権者は、少なくないはずである。それどころか、「衆愚政治もここまで来たか」と愕然とせざるを得ない。
福沢諭吉翁は、「学問のススメ」のなかで、「愚民の上に苛き政府あり」と断じている。いまの小泉首相は、国民・有権者を愚民と侮り、奇妙奇天烈な、百鬼夜行しているような「化け物」たちを全国津々浦々に「刺客」として、送り込み、「上意打ち」しているようにしか見えない。はっきり言えば、やり過ぎであり、「もっとまともな候補者を出せ」と言いたい。
やり過ぎと言えば、徳川家康公の遺訓の一節が、思い出される。 「怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて、負けることを知らざれは、害その身に及ぶ」
「及ばざるは、過ぎたるより、優れり」
徳川家康公が、最も恐れ、最も尊敬した武田信玄公は、勝敗について、「7分をもって最善とせよ」と諭している。
孫子も、窮地に追い詰められた敵を深追いするなと教えている。窮鼠は猫を噛む。国民新党や新党日本、参議院の「造反組」が、窮鼠にならないとは限らないのである。
「小泉首相は独裁者だ」というような厳しい非難の声が聞こえてくる。独裁者であるばかりか、サディストかという声もある。
小泉首相の今回の解散・総選挙のやり方に喝采の声を上げる国民は、少なくない。宿敵・小沢一郎民主党副代表も、「敵ながらよくやるよなあ」といった表情で、岡田民主党の劣勢を正直に認めているようである。しかし、負けてはいられないので、「正々堂々と正攻法でいく」と戦闘意欲満々である。
いまのところ、小泉首相の「猫だまし戦術」と「怪しげな幻術」の連発が功を奏して、国民・有権者の心をすっかり虜にしている感がある。
だが、勝負は、最後まで分からないのが、歴史が証明しているところであるから、油断は双方ともに禁物である。
郵政民営化賛成派を300選挙区のすべてに立候補させるというのは、国民・有権者の「賛否を問う」というのはよい。だからと言って、突然、「何故、こんな人が?」と疑問に思われるような人を次々に送り込むというのは、いかがなものか。
見栄えのする女性、高級官僚、飛び抜けた英才などというメリットを前面に打ち出して、「さあ、賛成派だから投票してくれ」という極めて居丈高な態度が鼻につき、人物はともかくとして、政治哲学も思想も、政治への志も、ましてや「郵政民営化以外の政策」も全然不明な候補者を支持してくれと言われても、国民・有権者は困るのではないか。いわゆるタレント候補とは違うとは言っても、大して変わりはない。小泉首相は、自分がミーハーだからといって、国民・有権者すべてを、ミーハー扱いするのは、失礼の極みだ。
こんなふうな候補者の立て方は、不遜であり、国民・有権者を馬鹿にするのも甚だしい。八百屋や魚屋でさえ、奇麗な野菜や果物、美味しそうな魚を並べる場合、多少の味見をさせてくれるものだ。いきなり、「食え」と言われて、俄に食指が動くはずはない。ここまでひどい候補者の出し方に対して、不快感を抱いている国民・有権者は、少なくないはずである。それどころか、「衆愚政治もここまで来たか」と愕然とせざるを得ない。
福沢諭吉翁は、「学問のススメ」のなかで、「愚民の上に苛き政府あり」と断じている。いまの小泉首相は、国民・有権者を愚民と侮り、奇妙奇天烈な、百鬼夜行しているような「化け物」たちを全国津々浦々に「刺客」として、送り込み、「上意打ち」しているようにしか見えない。はっきり言えば、やり過ぎであり、「もっとまともな候補者を出せ」と言いたい。
やり過ぎと言えば、徳川家康公の遺訓の一節が、思い出される。 「怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて、負けることを知らざれは、害その身に及ぶ」
「及ばざるは、過ぎたるより、優れり」
徳川家康公が、最も恐れ、最も尊敬した武田信玄公は、勝敗について、「7分をもって最善とせよ」と諭している。
孫子も、窮地に追い詰められた敵を深追いするなと教えている。窮鼠は猫を噛む。国民新党や新党日本、参議院の「造反組」が、窮鼠にならないとは限らないのである。