例えば些細な事から相手の気持ちがわからなくなる事なんざよくありますわな。
それはつまり信頼関係とかじゃないんですよね。
元々その人間の100%を理解しようとしても無理な訳ですよ。
それは親だろうが兄弟だろうが同じ事。
それが他人なら尚の事。
たとえ同じ方向を向いていても自分の気持ちとドンピシャ合う人はそうそういない訳で、それはなぜかというと、絶対人間は心に秘めたものを持っていて、きっとそれば自分が最後の最後に頼りにするものなんだと思います。
だから、その聖域には親兄弟だろうと踏み込まれたくない部分はあるんだと思います。
そしてその聖域にこそ人の本当の本質があるんだと思います。
そして本当に周りに味方と思える存在がなくなったと感じた時、その聖域に人は助けを求めるものだと思います。
その行為を人は「鬱」と呼ぶのかもしれません。
自分を本当に最後まで理解できているのは自分だけなんだろうなと。
今、自分の中では物凄い葛藤があります。
聖域に踏み込もうとしている自分と踏みとどまろうとしている自分。
何も動かない現状や変わらない風景に心は沈んでいきます。
あー、ちょっと疲れてます。
ただ、この本質は誰も理解すないだろうし、もう期待もしていません。
結局は自分しか自分を守れないという事なんでしょうから・・・
それはつまり信頼関係とかじゃないんですよね。
元々その人間の100%を理解しようとしても無理な訳ですよ。
それは親だろうが兄弟だろうが同じ事。
それが他人なら尚の事。
たとえ同じ方向を向いていても自分の気持ちとドンピシャ合う人はそうそういない訳で、それはなぜかというと、絶対人間は心に秘めたものを持っていて、きっとそれば自分が最後の最後に頼りにするものなんだと思います。
だから、その聖域には親兄弟だろうと踏み込まれたくない部分はあるんだと思います。
そしてその聖域にこそ人の本当の本質があるんだと思います。
そして本当に周りに味方と思える存在がなくなったと感じた時、その聖域に人は助けを求めるものだと思います。
その行為を人は「鬱」と呼ぶのかもしれません。
自分を本当に最後まで理解できているのは自分だけなんだろうなと。
今、自分の中では物凄い葛藤があります。
聖域に踏み込もうとしている自分と踏みとどまろうとしている自分。
何も動かない現状や変わらない風景に心は沈んでいきます。
あー、ちょっと疲れてます。
ただ、この本質は誰も理解すないだろうし、もう期待もしていません。
結局は自分しか自分を守れないという事なんでしょうから・・・