「磐余(いわれ)」とは、奈良県桜井市南部の古地名で、5~6世紀ごろの大和国家の政治の中心地です。この後に、歴史の舞台は「飛鳥」へと移っていきます。
今回は、2回にわたって古代史話の舞台となった「磐余(いわれ)」について紹介したいと思います。
「磐余(いわれ)」は、5~6世紀頃の要地です。現在の桜井市南西部の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての地域に、「磐余池」があったと言われているようです。この地域には、池之内や池尻といった字名が現存しているところから、古くには確かに潅漑用の巨大な池が存在したことを伺わせます。
履中天皇が灌漑用の溜め池を作らせたのが、「磐余池」です。『日本書紀』には、履中天皇2年11月条に「磐余池を作る」とあります。
履中天皇の宮「磐余稚桜宮」がこのあたりで営まれ、この池で船をうかべて遊宴されたことが、日本書紀に記述があります。
履中天皇が「磐余池」に船を浮かべて宴遊されたとき、天皇のお盃の中に桜の花が散って入った。天皇は不思議なことだと思われて物部長真胆連(もののべのながのまいのむらじ)に「この花は今咲くべき時節でもないのにおちてきた。どこからだろうかさがしてこい」と仰せになった。物部長真胆連は桜の花を見つけ出して献上すると、天皇は珍しい事とお喜びになり、宮の名を「磐余稚桜宮」とおつけになった。それがこの神社の名の由来だそうです。
この「磐余池」のほとりに、履中,清寧,継体,用明天皇らの皇居のあったと伝承されています。
5世紀前半の第17代履中天皇の「磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)」は、桜井市池之内の丘に鎮座する神社です。この場所ではないかと伝承されているようです。
5世紀末の第22代清寧天皇の「磐余甕栗宮(いわれのみかぐりのみや)」は、橿原市東池尻町にある御厨子神社がある所と伝承されているようです。
6世紀前半の第26代継体天皇の「磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)」は、桜井市池之内の「磐余稚桜宮」の近郊であろうと伝承されているようです。
6世紀後半の第31代用明天皇の「磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)」は、吉備池の北に位置する春日神社にあったと伝承されているようです。
5世紀から6世紀にかけて、四人の天皇が「磐余」の地に宮居を置いたと言われています。「磐余」は古代の王城の地だったのですが、いずれの宮跡も特定されいないようです。
古代史話の舞台となった「磐余(いわれ)」の散策は、古代に思いをはせながらとても興味深く歴史散策が出来ました!
次回は、「ももづたふ磐余池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と歌った、大津皇子の邸宅があったと伝承されている所等を紹介したいと思います。
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