前回は、5~6世紀ごろの奈良県桜井市南部の大和国家の政治の中心地、「磐余(いわれ)」を中心に紹介しました。
今回は、同時期(5世紀末から7世紀初頭にかけて)の古代の「市」である、奈良県桜井市金屋にある「海石榴市(つばいち)」を中心に紹介したいと思います。
「海石榴市(つばいち)」は、古代の東西南北の交通の要衝であり、また大和川(初瀬側)の河港もあり、磐余や飛鳥に都がおかれた時代に、中国や朝鮮半島の使節は大和川をさかのぼりこの地に上陸しました。
6世紀の半ばに百済の「聖明王(しょうみょうおう)」からの仏教が、伝来した最初の地でもありました。
「海柘榴市」が正史にいくたびも登場することになったのは、もちろんヤマト政権の王宮が何代にもわたって周辺に置かれたからです。
実在が確実視される最初の天皇である「崇神天皇」の磯城瑞籬宮(しきのみつかきのみや)は、まさに「海柘榴市」があった場所です。
この金屋の辺りは大阪から大和川を遡ってくる川船の終着地点でありました。さらに、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝でもありました。
そのためさまざまな物産が集まり、我が国最古の交易市場がこの地に成立しました。市はいつしか「海柘榴市」と呼ばれるようになったようです。
今回は、「海柘榴市」とは至近距離に宮を築いた、「垂仁・雄略・景行・欽明天皇」の宮跡と伝承されている場所も紹介したいと思います。
最後に、飛鳥時代の悲劇の皇子「大津皇子」の邸宅跡と言われている場所を紹介したいと思います。
「敏達天皇」の宮であったところで、奈良県桜井市戒重にある春日神社あたりが伝承されています。「敏達天皇」は欽明天皇の第二子で、仏教をめぐって物部と蘇我が争っていた時代です。
宮はこの後、「大津皇子」の邸宅となっており、皇子はここで死を賜ったと伝えられています。
その「大津皇子」が、死を賜るに際して詠んだ辞世の句が、「大津皇子、死を被(たまわ)りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首」という題詞とともに万葉集に遺されています。
「ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
自邸の近くにあった「磐余の池」の畔で、自由に飛べる鴨たちを見るにつけ、自らが囚われの身であることを嘆いたのでしょう。自らの死を悟って詠んだ、とても悲しい歌ですね。
「二上山」には、天武天皇の子で謀反の疑いをかけられ自害させられた、「大津皇子」の墓があると言われています。
古代に思いをはせながらの歴史散策、今回もとても興味深く散策することができました!
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