泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

古代史の謎 「物部氏終焉の地」

2014年12月09日 16時27分03秒 | 歴史

「仏教」は百済の聖明王から、欽明天皇に対して伝えられました。仏教伝来の時期については、552年説(日本書紀)と538年説(上宮聖徳法王説)(元興寺縁起)があります。

この仏教をめぐって、新興豪族の「蘇我氏」と在来豪族の「物部氏」が対立しました。この仏教を巡る対立は、「蘇我稲目」と「物部尾輿」から、息子の「蘇我馬子」と「物部守屋」の代になっても続きました。

そしていよいよ、仏教の礼拝を巡って「蘇我馬子」と対立した「物部守屋」が、587年に河内国の渋川(大阪府八尾市)において、「丁未(ていび)の乱」を起こして、滅ぼされました。

「日本書紀」には、この戦闘で当時16歳だった「うまやどの皇子(聖徳太子)」も参戦したと記されています。馬子軍側が苦戦を強いられた時、「うまやどの皇子(聖徳太子)」が四天王像を刻み、守屋を倒すことができたら「寺と塔」を建てようと請願しました。馬子も同様に請願をしました。戦勝祈願のかいあって守屋は、「とみのおびといちい」という人の矢に倒れました。請願通り、「うまやどの皇子(聖徳太子)」は難波(大阪)に「四天王寺」を、馬子は飛鳥(奈良)に「法興寺(飛鳥寺)」を建てました。

こうして、半世紀に及んだ「蘇我氏」対「物部氏」の対立は、終止符が打たれました。

今回は、古代史における「丁未(ていび)の乱」(物部氏終焉)の地、河内国の渋川(大阪府八尾市)を撮ってきました。

河内国の渋川(大阪府八尾市)には、「うまやどの皇子(聖徳太子)」が自ら戦勝を祈願し、不利な戦況をくつがえして、物部軍から勝利をおさめた戦場跡とされる「大聖勝軍寺」、守屋を討ち取った「とみのおびといちい」が、首を洗って皇子に奉じたと伝承される「守屋池」(2か所)、「とみのおびといちい」の放った矢等を埋めたとされる所、守屋の「お墓」とされる所、「物部氏」にかかわる神社等、数々の史跡が残っています。古代に思いをはせながら、色々な所を巡りました。とても充実した一日でした!

                      

 

 

 

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