泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」(歴史編)

2019年04月14日 16時10分57秒 | 歴史

NHKのBSプレミアムで放送されている『こころ旅』、ご存知ですか?

「人生を変えた忘れられない風景」「大切な人との出会いの場所」「こころに刻まれた音や香りの情景」「ずっと残したいふるさとの景色」など、お手紙に書かれたエピソードをもとに、ひとりひとりの心に大切にしまってある「こころの風景」を訪ねる番組です。好きな番組で、よく見ています。

以前、明日香村の「岡本寺」が放映されましたので、ブログでこころの風景「飛鳥の岡本寺」を紹介させていただきました。(2016年10月12日)

今回は、テレビで放送されているわけではありませんが、私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」ということで、2回(歴史・自然編)に分けて紹介させていただきたいと思います。

「牛頸」と書いて、「うしくび」と呼びます。福岡県福岡市の南に隣接する大野城市の南に位置する地域に、「牛頸」地区と呼ばれる所があります。

大野城市は、福岡県福岡市の南に隣接し、古くから博多と大宰府を結ぶ交通の要所として繁栄した場所です。現在は、都市化していますが牛頸地区は豊富な自然と歴史に恵まれ、大野城市では唯一「里山」の景色が残っていて、夏季に入ると蛍(ゲンジボタル)が飛び交うことから、見物の人々の涼む姿で賑わう場ともなっています。

今は丁度桜が散りはじめ、田畑にはレンゲの花等を見ることができます。なんとなく、飛鳥の里山の風景に似たような所で、とても癒される場所です。私にとって、飛鳥と共に「心の故郷」です。今回は、「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」の歴史を紹介させていただきます。

珍しい地名である「牛頸(うしくび)」の名は、「筑前国続風土記」によれば、平野神社(地元では牛頸神社と呼んでいます)から見える西の山の形(牛が横たわっている姿)に由来すると記されています。また、6~8世紀にかけてこの地にやってきた渡来人の村の名に由来するという説もあるようです。

〇まず「大野城市」の名称について紹介しますと、665年に大野山(現在の四王寺山)に築いたわが国最古の朝鮮式山城「大野城」に由来します。
「大野城」がつくられた理由は、663年の朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで、わが国の遠征軍が敗れたためです。唐と新羅の攻撃に備えて「大宰府」を守るために、平野が最も狭くなった所を人工の土塁「水城」で防ぎました。「水城」は太宰府市との大野城市境に今も残り、長さ1.2キロメートル、基底部幅80メートル、高さ10メートルを誇ります。現在、整備されて水城の東門跡の所にある「水城館」で関係資料を手に入れることができます。また、あちらこちらに「小水城」が残っています。「水城」・「大野城」は佐賀県基山町を中心に広がる「基肄城」とともに日本を守るため連携して防衛にあたりました。

水城と同じ目的と構造で造られたものが、大野城市上大利(現在は旭ヶ丘)・春日市大土居(おおどい)・天神山(てんじんやま)、佐賀県基山町(JR基山駅のそば)に関屋土塁・とうれぎ土塁など知られていますが、規模が小さいのでこれらは特に「小水城(しょうみずき)」と呼ばれています。

牛頸地区傍の「上大利小水城」は、現在の規模は高さ約2メートル、最大幅15メートル、長さ約80メートルですが、造られた当時はまだ大きかったと思われます。今は埋まっていますが、前面(下大利側)には濠があったと思われます。これも立派な防衛施設です。現在は、整備され平成30年4月15日に「小水城ゆめあかり広場」としてオープンしました。大野城市の、貴重な歴史を感じることのできる広場となっています。

             

〇牛頸の地域は、「須恵器の窯跡」でとても有名です。6世紀中ごろから9世紀中ごろにかけて操業され、近畿を除けば西日本で最大規模の須恵器窯跡群です。大野城市の南部に位置する牛頸地区は、古墳時代後期から平安時代はじめまでの須恵器(すえき)という焼き物の窯(かま)が数多く見つかっていることで、全国的にも有名な「牛頸窯跡群〈うしくびかまあとぐん〉」です。現在は中学校が建っていますが、ここにも「ハセムシ窯跡」がありました。

窯は. 谷に面した丘陵の斜面に地下式窖窯を掘ったもので、たき口、燃焼部等の遺跡の一部は、現在公園(日の浦池公園)に保存されていて見学できます。まだ、未調査の窯跡が牛頸地区には数多く残っています。不動城跡には、未調査の窯跡があり煙道等を見ることができます。

         

      

〇「不動城」(牛頸城)は、牛頸地区の平野台団地の東にある標高93.3mの山に中世の城が築かれています。山は宅地造成によって大きく削られています。山頂部が主郭と思われるが南と西が大きく削られています。北西に伸びる尾根に堀切が二条あり、東側に竪堀として伸びているが西側は消滅しています。主郭から北東へ伸びた尾根の遺構は比較的良好で、曲輪と通路が延び西斜面に竪堀とそれに付随する土塁の付いた曲輪などが残ります。北東端は、堀切ではなく竪堀があります。

飛鳥にある中世の城郭を散策していたので、なんとなく曲輪などの跡が見てとることができました。

築城年代は定かではないですが、秋月氏の家臣「奈良原刑部少輔」によって築かれたと云われています。「奈良原兵庫亮」のときに、豊臣秀吉の九州征伐の軍勢と戦って討死したといわれています。また、筑紫氏の家臣幡崎兵庫と筑紫越前守が在番したとも云われています。現在は、公園になっています。

牛頸地区には、全国的にも有名な「牛頸窯跡群」が残っており、散策していると須恵器のかけら等を見ることができ、歴史が身近に感じられる素敵な所ですよ!

      

 

 

 

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