きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

分け登る麓の道は多けれど

2012年01月06日 | 羊、朝の一声


分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな

今朝のリビングライフのエッセイに、えんぢぇる師もよく引用するこの言葉の内容が紹介されていた。宗教とは、山の頂上におられる神に向かって麓から登る様々な道であり、いつかはみんな会うことができる。目標となる頂上(=「神」と呼ばれる存在)は一つだから。宗教に囚われる必要はない、ただ登り続けていればみんな目的地は同じだ、と考える多くの人々を満足させる言葉だ。

しかし、山の頂上に神はいらっしゃるのか?
  <<<冒頭の言葉尻を捉えると、頂上に月があるわけではない。(意地悪い言い方だけど)

頂上へは、誰もが同じように辿り着けるのか?
  <<<一生を修行に費やす宗教人も、何となく一生を送ったプー子も同じ?

目的達成(=頂上到達)すれば、それでよいのか?
  <<<手段、目的、動機、環境、生き方は関係しない?

エッセイにまとめられていたように、福音とは、「山頂におられるはずの神が、今この場所まで下りて来られた」こと、神様ご自身が「直接一人一人を訪ねてこられた」ことだ。救い(=人生の目的)というものは、人間の力では決して成しえないもの。だからこそ、それを与えてくださる方、SOMETHING GREAT(サムシング・グレイト、何か偉大なもの)を「神」と崇める。

私が信じる神様は、迷う私を探し出して会いに来て下さり、信じた証として聖霊をくださり、生きる目的を与えてくださった。私一人では、一生がんばったって到底得られることのできないものをくださった。その方は、高嶺の月のような見ているだけの方ではない。大上段に構えて人が来るのをを待つだけの方ではない。神様ご自身が一人一人を訪れ、「神の愛」を伝えるために働いておられる方だ。敬愛するえんぢぇる師の常套句の答えを、今日あなたが見つけることができますように。

聖書の中心は「愛」である。世の中にある様々な問題の原因を、あなたは「愛」の欠如によるものだと思うか、「修行」の欠如だと思われるか?その答えを、もうあなたは既にお持ちのはずである。


「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」(ヨハネ1:41)




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