EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山淳五郎眞之の生涯

2016年03月15日 | 伊予松山歴史散策


大正4年に撮影した写真を元にして丸山画伯がカラーに描き上げた肖像画。
平成22年、千葉県習志野市大久保、薬師寺・三橋秀紀住職からの寄贈。


秋山眞之中将時の写真で47歳の時である。
この写真を元にしてカラー肖像画にした。

本日天氣晴朗なれど浪高し
「敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直に出動之を撃滅せんとす。
本日天氣晴朗なれど浪高し」・・日本海海戦を追想する時、誰もが脳裏に蘇って来る名文であ
る。
これが時の聯合艦隊先任参謀として東郷平八郎長官の陣営にて作戦計画の機務に当たった秋山眞之であった。
「皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ」というZ旗の意味であるが、信号分の原作者は、やはり秋山ではないかといわれている。

眞之は、海軍兵学校時代、薩摩の郷中教育を参考にして創られた松山同郷会、青少年の文武両道の教育、今もその名残の一つが秋山兄弟生誕地にある武道場で青少年に合気道と柔道をとして心身の教育をしている。
眞之は若くして逝去し栄光を称えて、郷里の人達が銅像を建立、その時東郷平八郎は「智謀湧如」を揮毫した。
慶応4年3月20日:伊予松山藩15万石、徒歩目付の秋山久敬5男として誕生した。幼名、淳郎、元服して眞之、坂本龍馬が慶応3年11月15日、暗殺されるが、その翌年に生誕した。
今年148年祭を3月20日、秋山兄弟生誕地で開催される。

秋山眞之家系

父 平五郎久敬     文政 5年 3月 5日生~明治23年12月19日没 68歳
母   貞        文政10年11月14日生~明治38年 6月19日没 78歳

長女 種          嘉永2年12月12日生~嘉永5年12月12日没  3歳
長男 則久 (幼名 鹿太郎)嘉永6年 8月17日生~大正2年 2月 9日没 60歳
次男 正矣 (幼名 寛二郎)安政3年 1月19日生~大正6年10月18日没 61歳
3男 好古 (幼名 信三郎)安政6年 1月 7日生~昭和5年11月 4日没 71歳
4男 道一 (幼名 善四郎)文久元年10月30日生~明治36年3月 6日没 42歳
5男 眞之 (幼名 淳五郎)慶応4年 3月20日生~大正7年 2月 4日没 50歳

秋山眞之の官歴

明治16年、東京大学入学を目指し、正岡子規、清水則遠と3名で上京し、東京予備門学校に入学し勉学その時夏目漱石がいた。
眞之は東京大学進学を断念し海軍兵学校に入学した。

明治19年10月30日:18歳・海軍兵学校入学
明治20年 7月25日:19歳・学術優等を授與
明治22年 7月19日:21歳・学術優等に付き優等章を授與
明治23年 7月17日:22歳・海軍兵学校教程、首席で卒業・同日海軍少尉候補生を拝命
明治25年 5月23日:24歳・海軍少尉拝命・同年7月6日、正八位
明治29年10月24日:28歳・海軍大尉拝命
明治30年 6月26日:29歳・米国留学
明治31年 6月 2日:30歳・米西戦争視察
明治32年 2月 8日:31歳・米国北大西洋艦隊「ニューヨーク」号研学のため乗艦
明治33年 5月20日:32歳・米国から帰国
明治33年 8月21日:32歳・英国に駐在補海軍軍務局員として留学
明治34年10月 1日:33歳・海軍少佐拝命
明治35年 7月17日:34歳・海軍大学教官
明治37年 9月 1日:36歳・海軍中佐拝命
明治38年 6月14日:37歳・聯合艦隊先任参謀、旗艦三笠に乗船
明治41年 2月20日:40歳・戦艦三笠副長
明治41年12月10日:    戦艦音羽艦長・橋立艦長・伊吹艦長歴任
大正 元年12月 1日:44歳・海軍軍令部参謀
大正 2年12月 1日:45歳・海軍少将拝命
大正 3年 4月17日:46歳・海軍省軍務局長
大正 6年12月 1日:49歳・海軍中将拝命
大正 7年 2月 4日:50歳・従四位 特旨を以て位一級被進
大正 7年 2月 4日:小田原で逝去最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位 勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。
            小田原で逝去・・50歳の短い人生を駆け抜けた。
            辞世の句「不生不滅明けて烏の三羽かな」

明治16年、東京大学入学を目指し、正岡子規、清水則遠と3名で上京した。
辞世の句「不生不滅明けて烏の三羽かな」の三羽は、正岡子規、清水則遠と眞之ではないかと言われている。
東京予備門学校に入学しその時夏目漱石がいた。


昭和6年秋山眞之13年忌、日本海海戦25周年に当たり、奥平清貞の提唱により銅像建設の議が高まり、井上要他4名の諸氏が発起人となり、昭和6年8月1日、壮大なる除幕式が建立地である道後公園(湯築城跡)で挙行された。
東京の発起人代表として桜井眞清少将が祝辞を述べた。
桜井眞清は、昭和8年2月10日、刊行された、書籍・秋山眞之の発行者である。
彫刻は、藤川勇造の苦心の作である。


昭和6年8月1日、建立された秋山眞之の銅像の台座には「智謀如湧」がある。
揮毫者は、元帥伯爵東郷平八郎で、東郷が秋山眞之の為にとっておいた言葉であった。
智謀如湧の上には戦艦三笠の浮彫にした彫刻が施されている。
銅像は、金属供出で潰されたが、智謀如湧と戦艦三笠の浮彫にした彫刻は保管されていて、昭和38年に再び秋山眞之の銅像が石手寺に再建立された時に「智謀如湧と戦艦三笠の浮彫にした彫刻」は台座に埋め込まれた。ある事情で昭和43年9月、梅津寺の伊予鉄道管理の敷地に移転された。



秋山眞之の銅像が建立された後、昭和11年1月11日、秋山好古の銅像が建立された。
場所は、湯築城跡で現在の東屋当たり。
兄好古が眞之を見届ける様に建っていた。・・淳お前はよくやった・・と言って。
左後方の山は、伊予松山城。
秋山兄弟の銅像は、大東亜戦争の時金属供出として潰された。


秋山眞之の胸像で、大正13年、海軍大学校教官時代の教え子の一人、都留信人大佐が中心となり醵金をして当時、都留大佐はイタリア大使館勤務で、彫刻はイタリア人のマリォ・リナルディに頼み創られた。
胸像は大正14年9月30日横浜に到着、斉藤中将が軍令部長室で10月秋山眞之の遺族に贈呈した。未亡人は胸像を海軍大学校に寄贈、同校の新校舎に安置された。
先の大戦で連合軍による没収を恐れ一時期秋山家に返納されたが戦後海上自衛隊返納、現在は海上自衛隊幹部学校(目黒区)に安置されている。
平成17年5月12日、海上自衛隊の許可を受けて撮影した。


大正13年に創られた眞之の胸像を防衛省の許可を受けて此れを模して平成17年1月18日、常盤同郷が復元し秋山兄弟生誕地に建立した。
眞之の胸像台座左側に、彫刻家・マリォ・リナルディの銘が刻まれている。
平成17年1月18日、生家・兄弟の銅像作製の費用は全国の秋山好古・眞之の支援者の皆様からの醵金で完成した。


昭和38年に再建立された秋山眞之の銅像で昭和43年9月石手寺から梅津寺に移設された。
昭和6年に建立された銅像は双眼鏡を持っていたが、再建立された時は、書物を持っている。
手前の石は旅順港閉塞作戦に使われた福井丸に積まれていた石で、大分県竹田市にある「広瀬武雄神社」から贈られた「護国の石」。


秋山眞之の家族の人たち。
同期トップをきって順調に昇進したが最後に待命になったのは病気が重くなった為である。
眞之は、海軍軍人として海上勤務が長く、東京にあっても軍務局長のような激職勤務があり、孫文の革命活動支援に関係をもつなど各界方面に間口が広く、家庭を顧みる暇は殆どなかった。
家庭の事は妻にまかせっきりで子供の教育にもなかなか割けなかった。
眞之は、次々に生まれる子供に名前を付ける時ひとつの主義を持っていた。
 名は、簡単を第一として一字とし字は子供が小さい時から自分の名だけは書き覚え易いように、字画はできるだけ少ないものとした。
 しかもその上、字は左右同形の「シンメトリー」な文字とした。
 こうして名付けられた子供の名は、長男から順に「大(ひろし)固(かたし)中(ただし)少子(わかこ)全(やすし)宣子(たかこ)である。
長女の少子だけが左右同型の原則をはずれているがこれは大、中、につぐ小の字をきらって「少」としたことからだそうだ。


秋山眞之、季子夫人


伊予松山出身の名士たちで、真ん中の軍服姿の御仁が旧伊予松山藩主、久松家第16代久松定謨で、後列に秋山眞之も映っている。
秋山兄弟が映っている写真は珍しい。
この写真は、東京の久松家の屋敷で、久松家の法要の時ではないかと言われている。


大正7年2月4日、小田原で逝去した山下汽船、山下亀三郎氏小田原の別荘。
秋山眞之は、小田原に居た山県有朋に此れからの日本は山形さんが中心になり建国されて行かれる方だから、米国とだけは事を構えない日本を創って下さい。
でないと日本は駄目になってしまいますから・・とお願いに行っていた時、盲腸を患い腹膜炎を起こし亡くなった。
小田原には腹膜を治療する医者が居なかったと伝えられている。


昭和8年2月10日発行された「秋山眞之」のしおり。


昭和8年2月10日発行された「秋山眞之」の奥付。
著作兼発行者、桜井眞清は、眞之銅像除幕式の時に祝辞を述べた御仁で、幼少時は眞之の一の子分として徒歩の子供と、町屋の子供がよく喧嘩した仲間、花火を造り打ち上げ警察に追われた仲間の一人、幼少時から有能であった。
昭和11年11月1日、書籍・秋山好古が刊行されるが発行者は、桜井眞清である。


昭和62年東京の青山霊園から移設した秋山眞之の墓で、鎌倉霊園に今は家族と一緒に眠っている。


鎌倉霊園に在る秋山家の墓、尊敬した兄好古も単独の墓は要らぬとして逝去した。
眞之も兄にならって単独の墓は創らなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする