熊本城天守で、天守の構造は、連結式初期望楼型、5層6階地下1階。
昭和35年、熊本国体開催と築城350年を記念して外観復元として建てられた。
大河ドラマ「真田丸」はこれから大坂夏の陣に、堺雅人が演じる「真田信繁(幸村)」が颯爽と大坂城に入城、茶々(淀)を演じる、竹内結子、豊臣秀頼を演じる、中川大志と面談する場面が映し出された。
新井浩文演じる「加藤清正」が逝去していないのが残念である。
さて、大坂城から異なったブログが割り込みしましたが真田丸に関する城を辿る・・に帰ります。
豊臣秀吉から肥後国を与えられ、築城は丘陵地の茶臼山に決定、天正19年から建設を始めるが途中、文禄・慶長の役で中断、完成したのは慶長12年(1607)、此れを祝い隈本から熊本に改名したとある。
熊本城には数回伺っているが、最初に行ったのは、昭和37年開催された熊本博覧会の時であった。
昭和35年の熊本国体開催に合わせ熊本市は、一般からの寄付を募り1億8000万円の費用をかけ外観復元として大小の天守を復元し、大天守の内部は、熊本市立熊本博物館の分館とした。
城跡は、面積:98ヘクタールで、国指定特別史跡にされている。
最近は、築城400年を記念して本丸御殿が平成20年4月に完成したのを機会に4回目の訪問をした。
今年発生した熊本地震で大きな被害が出て居り、西南戦争(明治10年2月19日)以来の大事である。
熊本城は、石垣が素晴らしい、熊本城の石垣は、加藤清正が近江国から率いてきた石工集団、「穴太衆」よって作られた石垣の要塞である。・・とある資料に書かれている。
熊本城の石垣は、地面付近は勾配がゆるく上に行くにしたがって勾配がきつくなる独特なもので、「清(せい)正(しょう)流(りゆう)石(いし)組(ぐみ)」などと呼ばれ、それと熊本城がある茶臼山(標高50m)は、熔結凝灰岩で地盤がもろく軟弱なため、石垣の崩壊を防ぐ為に裾の角度を緩やかにし、石垣のすわりを良くする為いう理由もあるようです。
櫓などの建物は、明治6年に廃城令がだされ取り壊されたり、西南戦争で焼けてしまったりしているが、熊本城の石垣はほぼ当時のままの姿で残っている。
残念に、平成28年4月14日21時26分に発生した熊本地震で石垣や建造物が崩壊した。
中でも度々TVで放映された飯田丸5階櫓(平成17年再建)が、算木積み(隅石)の石垣で支えられている姿が痛々しい。
画像は、私が撮り貯めたものであります。
平成16年7月16日、に訪れた時の画像で、頬当御門が天守正面入口、門の形式は「冠木門形式」二人の侍が警護していた。
平成16年7月16日、訪れて時で、若い女性がガイドをしてくれました。
ガイドの希望者は、受付で署名をして時間が来ると連絡があり天守の入口まで案内がありました。
出発は、頬当御門から、30分間隔でした。
頬当御門を潜り暫く歩くと大天守が眼前に迫って来る。
天守台から天守を少し張出造にしてあり、敵が石垣から天守に寄付きにくくしてある。
若い女性のガイドさんが天守の石垣を見て下さい。・・上と下の石垣の色が違いますが何故ですか?と・・問われた。上部は、天守台よりも天守に張り出しを造ったため雨が当たらず、下部は雨に濡れるので色が違いますと答えると・・ご名答ですと言葉が返って来た。
天守と天守台の間には「忍び返し」という鉄串が施してある。
宇土櫓で、3層5階地下1階で、熊本城では大小天守を除いて最大の櫓である。高さ約19mある。
10万石の諸大名の天守よりも立派な櫓である。
大天守最上階から観た宇土櫓。
加藤清正と言えば・・石垣である。
城造りの名人は、加藤清正と藤堂高虎と言われており、清正は「清正流」と言われる石垣造り、高虎は層塔型天守を造った建物造りの名人とされている。
画像は、二様の石垣と説明があり、右の勾配のある石垣が清正時代、左の勾配が少ない石垣が細川時代に造られたと言われている。
城のよしあしは、建築(作事)よりも石垣(普請)にあったそうだ。
茶臼山(標高50m)は、熔結凝灰岩で地盤がもろく軟弱なため、石垣の崩壊を防ぐ為に裾の角度を緩やかにし、石垣のすわりを良くする為いう理由もあるようだと言われている。
日本一長い「長塀」で、長さ・熊本城の長塀(全長 約242m)重要文化財指定で、眺めながらゆっくりと散策するのは絶景である。特に春のサクラが開花する時期は最高だそうです。
日本一長い「長塀」の裏側で、支える控え柱も日本一。
結婚式の前撮りに出くわした。・・この時から12年の歳月が流れた。
幸せな家庭を築かれている事と思います。