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秋山好古生誕160年祭開催

2019年01月07日 | 伊予松山歴史散策

安政6年1月7日、伊予松山藩士の家系に生まれた秋山好古、今年で生誕160年になる。
この時代は、激動の時で開国か鎖国かで大変な時期、好古が生まれた翌年3月3日、大老井伊直弼が桜田門の前、豊後杵築藩松平家上屋敷前で暗殺された。
豊後杵築藩松平家上屋敷跡は現在警視庁舎となっている。(豊後杵築藩松平家、譜代大名・3万2千石)

それから戊辰戦争が始まり、伊予松山は朝敵とされ新政府に制裁金15万両を課せられその調達に苦慮した。
そんな中、現在の松山市歩行町二丁目3番地6に伊予松山藩15万石、藩士徒歩目付けの父、秋山久敬、母・貞の三男として誕生、幼名信三郎、元服して好古となった。正式には、秋山信三郎好古である。

好古の命名は、父久敬が論語の、子(し)日(のたま)わく、述(の)べて作(つく)らず、信(しん)じて古(いにしえ)を好(この)む。竊(ひそ)に我(わ)が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。により父久敬が命名した。
親しい人々は愛称で、信さんと呼んでいた。
16歳のとき、福沢諭吉の「学問のすすめ」を読み、共感し青少年の教育推進に教育者を目指し大阪師範学校(現、大阪教育大学)に学び卒業後、名古屋師範学校付属小学校に赴任した。 

しかし同校にいた伊予松山の先輩、和久正辰教務官と名古屋鎮台山本忠彰武官の強い勧めで軍人を目指す事になり、教員を辞任し、陸軍士官学校に入学、時あたかも大激震の西南戦争が勃発した明治10年であった。
卒業後日本の騎兵隊を創設、日本騎兵の父と言われた。 

その後、近衛師団長、教育総監を歴任、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。
未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。
大元帥は元帥を辞退した秋山好古大将に、特旨として官位従二位を与え好古は、官位従二位を拝命し、大正13年郷里の伊豫松山から強い要望に答え北豫中学校長(現、愛媛県立松山北高校)として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し、故郷の青少年の教育に尽くし同年3月北豫中学校長を辞任、11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。 

西郷隆盛を表した言葉に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末(しまつ)に困るもの也」と言う言葉があるが、秋山好古も「名誉、名声もいらない、元帥もいらぬと言うような無心の人は、使命感で動く」西郷隆盛は靖国神社には祭神されていませんが、秋山好古も靖国神社には祭神されていない。
秋山好古の信条、「簡単、明瞭、質素、倹約、そして人は心穏やかで豊かであり、元気な間は、働くべき、仕事はその気で探せば幾らでもある。」

座右の銘は「独立自尊」であった。
好古は、父の教え守り、勉強すれば貧しい人間にはならない、そして大きくなった暁には、私利私欲を捨て、世の為・人の為・故郷の為に役に立つ人間になりなさい。・・母の教え貫き72歳を全うした。元帥を辞退したのも、母の教えの一つ「私利私欲を捨てて」が何時も脳裏に有ったのではないかと私は思う!!

秋山好古生誕160年祭は、中村時広愛媛県知事、野志克人松山市長をお迎えして第1部・第2部・第3部に分けて開催された。

秋山好古生誕160年祭第1部開催にあたり挨拶をする、公益財団法人常磐同郷会、山崎 薫理事長。(財団法人常磐同郷会は、秋山兄弟生誕地の管理運営母体)
山崎理事長の横に飾ってある秋山好古のカラー肖像画は、千葉県習志野市、習志野騎兵連隊史跡保存会代表、三橋正文さんから寄贈していただいた全国に二つしかない貴重な肖像画を舞台に掲示し式典を開催した。その一つは、千葉県習志野市、習志野騎兵連隊史跡保存会にある。

なお今年は、節目の160年祭とあって、好古が幼少時に学んだ藩校「明教館・現在の愛媛県立松山東高等学校」好古が校長を務めた「北豫中学校・現在の愛媛県立松山北高等学校」両校の校長先生も秋山好古生誕160年祭に臨席していただいた。

秋山好古生誕160年祭で挨拶をされる、中村時広愛媛県知事さん。
多忙なスケジュールの中時間をつくりお越し下さり毎年秋山好古生誕を開催され秋山好古を顕彰される皆様を誇りに思います。・・と述べられた。中村時広愛媛県知事さんが松山市長時代に、小説坂の上の雲を基軸とした街づくりをしてきた仕掛け人です。秋山兄弟生誕地には大変理解のある知事さんであります。

秋山好古生誕160年祭で挨拶をされる、野志克人松山市長さん。
中村時広愛媛県知事さんが松山市長時代に、小説坂の上の雲を基軸とした街づくりを行い、現在は野志克人松山市長さんが引き継ぎ活動されています。

秋山好古生誕160年祭で秋山家を代表してお礼のご挨拶をされる秋山好史さん。(秋山好古の孫)
毎年秋山宗家第10代秋山哲兒さんがお越しになりご挨拶されておりましたが体調を崩され今年は秋山好央さんが名代として来られました。お顔付、体付きは祖父秋山好古さんによく似ておられました。

秋山好古生誕160年祭開式前の左から中村時広愛媛県知事、野志克人松山市長、秋山好史氏、新田長彦氏(新田長次郎氏の曾孫・ニッタ(株)の名誉顧問)各氏。

秋山好古生誕160年祭第2部。
恒例の秋山兄弟生誕地武道場(合気道・柔道部)の稽古始を行っている。その鏡開きの式で秋山兄弟生誕地武道場合気道部、鈴木師範が気合い込めての鏡開きの式が行われた。

鏡開きの式後、秋山兄弟生誕地武道場(合気道・柔道部)の稽古始が行われた。

秋山好古生誕160年祭第2部終了後、野志克人松山市長を囲んで記念写真を撮った。

秋山好古生誕160年記念行事、第3部。
「人間秋山好古・受け継がれる想い」日・中・露、座談会開催要項。

秋山好古生誕160年祭第3部の開式。
日本・中国・ロシヤから見た座談会「人間秋山好古・受け継がれる想い」と題してパネラーは、秋山好史氏、邢 東風氏、シャクマトフ・ディミトリで司会進行は常盤同郷山崎理事長が行った。聴講者は150名で熱心に聴講していた。

秋山好古生誕160年祭、第3部生誕160年記念日中露座談会のパネラーの皆さん。
右から山崎常盤会理事長、秋山好央氏、愛媛大学法文学部教授・邢 東風氏(中国思想史・仏教史)、愛媛大学院理工学研究科教授・シャクマトフ・ディミトリ氏。

会場の武道場は冷暖房施設がなくストーブで暖を取り熱心に講話を参加者は聴いておられた。

秋山兄弟生誕地の前庭では大勢の方々が秋山好古生誕160年祭のお祝いに来られた。
恒例の記念の餅つきが行われ、搗き立てのお餅を美味しそうに食べていた。県外から観光に来られた方々はいい時に来ましたと喜んでいた。松山の方々はお国の為に働いた秋山兄弟を顕彰する姿が素晴らしいと語っていた。

秋山好古生誕160年祭、記念の餅を秋山好古騎馬像の前で餅をつきあげる。

つきあがったお餅を、秋山兄弟生誕地の女性研究員が手際よく仕上げる。

地元新聞「愛媛新聞」秋山好古生誕160年祭の記事。

前項に 安政6年1月7日、伊予松山藩士の家系に生まれた秋山好古、今年で生誕160年になる。
この時代は、激動の時で開国か鎖国かで大変な時期、好古が生まれた翌年3月3日、大老井伊直弼が桜田門の前、豊後杵築藩松平家上屋敷前で暗殺された。豊後杵築藩松平家上屋敷跡は現在警視庁舎となっている。(豊後杵築藩松平家、譜代大名・3万2千石)と付記しましたので桜田門を画像で辿ってみたいと思います。

画像は、映画の製作を実現させたのは「水戸藩開藩四百年記念『桜田門外ノ変』映画化支援の会」である。

 画像は、現在の皇居桜田門。

これからの皇居桜田門の画像は、平成17年1月25日、旧江戸城大手門前から右回りに皇居を一周した時の画像で、徳川御三卿、清水家、田安家跡(現日本武道館北当たり)も訪れた。
丁度千鳥ヶ淵当たりで昼食の時間帯になり食事をしようと食事処を探すもなく、英国大使館近くにあったレストランでカレーライスを食べた記憶が蘇った。

 

 映画のオープンセットの桜田門。
画像は、茨城県水戸市に作られた日本最大級の規模を誇る映画のオープンセットが茨城県に出現!「桜田門外ノ変」と呼ばれる歴史の大きな転換点での出来事で、この「桜田門外ノ変」が映画化され、茨城県水戸市に国内最大級のオープンロケセットが建設された。

私が伺ったのは東日本大震災のあった平成23年8月28日に行き撮った画像です。
水戸藩藩校弘道館も地震被害で封鎖されており見学出来なかった。

警視庁舎方向から見た、現在の皇居桜田門。

映画のオープンセットの桜田門。

 井伊直弼が襲撃された現場に映画のオープンセットとして置かれてあった。
その現場は、豊後杵築藩松平家上屋敷前、現在警視庁舎となっている。(豊後杵築藩松平家、譜代大名・3万2千石)

井伊直弼の屋敷前から見た襲撃現場。(映画のオープンセット)

映画のオープンセット桜田門前から見た、豊後杵築藩松平家上屋敷と奥に井伊直弼の屋敷を見る。

現在の桜田門内側から見た警視庁舎。 

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