
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 6 松平定直(第4代藩主)
松平定行の血統を継ぐ藩主は、第3代定長で絶える。
第3代将軍徳川家光は、四国及び瀬戸内海沿岸の外様の監視と抑止の為に伊予松山に松平定行を、弟の定房を今治藩主に配し、定行を支援させた。
延宝2年(1674)第4代伊予松山藩主、松平定直は今治藩第2代藩主松平定時の長男である。
定直の治世は、延宝から江戸文化の隆盛期の元禄時代を経て、享保の初期まで47年の長い期間に渡り藩を支えた。
業績を列挙してみると・・
1、農民の田租税の検見法を改め農民の負担を軽減した。
2、藩の教育の普及を図った。
3、赤穂浪士の松山藩預かり。心からの持て成しをした。
他多くの業績を残し藩の基盤を創った。
万治3年(1660)誕生。延宝2年(1674)、松山藩主・松平定長の養嗣子となり同年、松山藩藩主となり支えてきたが享保5年(1720)、江戸松山藩邸三田中屋敷にて逝去。享年61歳 従四位 隠岐守
画像は、松山城紫竹門西塀で、紫竹門の西に延長し、西端は本丸を構築する石垣に臨んで終わるが元はその先の本丸渡塀に接続していた。造りは搦手門に対する構えである。
建築時期は、嘉永期、第12代藩主松平勝善(定穀さだよし)時代の再建。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
松平定行の血統を継ぐ藩主は、第3代定長で絶える。
第3代将軍徳川家光は、四国及び瀬戸内海沿岸の外様の監視と抑止の為に伊予松山に松平定行を、弟の定房を今治藩主に配し、定行を支援させた。
延宝2年(1674)第4代伊予松山藩主、松平定直は今治藩第2代藩主松平定時の長男である。
定直の治世は、延宝から江戸文化の隆盛期の元禄時代を経て、享保の初期まで47年の長い期間に渡り藩を支えた。
業績を列挙してみると・・
1、農民の田租税の検見法を改め農民の負担を軽減した。
2、藩の教育の普及を図った。
3、赤穂浪士の松山藩預かり。心からの持て成しをした。
他多くの業績を残し藩の基盤を創った。
万治3年(1660)誕生。延宝2年(1674)、松山藩主・松平定長の養嗣子となり同年、松山藩藩主となり支えてきたが享保5年(1720)、江戸松山藩邸三田中屋敷にて逝去。享年61歳 従四位 隠岐守
画像は、松山城紫竹門西塀で、紫竹門の西に延長し、西端は本丸を構築する石垣に臨んで終わるが元はその先の本丸渡塀に接続していた。造りは搦手門に対する構えである。
建築時期は、嘉永期、第12代藩主松平勝善(定穀さだよし)時代の再建。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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