EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

浅草

2011年06月18日 | 浅草 大提灯
6月11日千葉県鎌ヶ谷市の道野辺八幡神社を訪問し、午後上野に戻りホテルに使わないカメラを置き浅草に行った。
目的は、浅草寺本堂が平成の大修復完成見学と、浅草雷門・宝蔵門・本堂の大提灯を撮るためである。
大提灯に書かれている文字は、江戸文字匠の大家「橘 右之吉」さんの揮毫で、粋な世界を演出する江戸文字を見に、そして撮りに行った。

私は、3年前に橘 右之吉さんの工房を訪れお茶をご馳走して頂いたし、毎年松山市のデパートで実技公開されていて、秋山兄弟生誕にもお越し頂いた。
江戸文字書家の大家でありながら気さくで、礼儀正しいお人柄で近寄りやすい芸術家である。
橘 右之吉さんに造ってもらった柘植の板に漆でコールサインを書いて頂き愛用している。

橘さん曰く、ローマ字の江戸文字を書くことがあまり無いので良く覚えてます・・との由、ローマ字は「JR5EEK」で、私のアマチュア無線局のコールサインである。
今年も松山市でお逢いしたいものである。

画像は、松山三越で江戸文字匠の技を披露しているところをお願いして写真を撮らせて頂いた。江戸文字書家・橘 右之吉さんです。

橘 右之吉(たちばな うのきち、本名:吉田秀男、昭和25年1月23日 - )は橘流寄席文字・江戸文字書家。寄席文字橘会理事。若手真打噺家との雑俳の会「つ花連」や、投扇興「綾香連」にも属する。
橘流寄席文字家元・橘右近に師事し、昭和44年年に正式な一門継承者として認められ「橘右之吉」の筆名を認可される。神社や寺などで見かけるミニ千社札は右之吉が考案したものである。(出典:(株)文字プロ、裏側に「文字プロ」のロゴがないものは橘さんの作品ではない」また、近年は橘さんが考案し、柘植の板に漆で文字を書いた「消し札」と呼ばれる携帯ストラップが人気を得ている。・・と紹介がある。・・私も愛用している。


東京の名所「浅草」雷門の前は何時も大勢の人で大賑やか、私が訪れたのは6月11日外国人がスクランブル交差点真ん中でこのアングルで盛んに撮っていた。


大賑やかな雷門前、ここで待ち合わせをする人たちも多いとか??


江戸文字匠の大家「橘 右之吉さん」が揮毫した・・雷門
直径3.6m、高さ4.5m、重さ750kg、松下電器(現パナソニック)の創業者松下幸之助が1960年に大提灯を寄進したそうです。


平成の大修復が完成、往時の姿を披露・・何年振りかでお参りをした。


本堂正面に掲示されている大提灯・・「志ん橋」、江戸文字の大家「橘 右之吉さん」が揮毫、この大提灯は東京新橋組合の有志が奉納したもので、提灯にはその東京新橋組合にちなんで、「志ん橋」と大きく書かれている。
昨年12月本堂の大提灯が10年ぶりに新調されたそうだ。
提灯は、京都の「高橋提灯」が製作し、鳥取県の手すき和紙、京都・丹波産の竹が使われていて、直径3.5メートル、高さ4.5メートル、重さ約600キロ。
 

浅草宝蔵門・・ここも真新しい・・何時修復したのだろう


浅草宝蔵門にも橘さん揮毫の提灯がある。
提灯は高さ約3.7メートル、幅約2.7メートル、重さ約400キロ。製作費は約400万円といい、中央区の日本橋小舟町の有志が町内の個人や商店、企業約190件の寄付を集め実現した。約340年前、同町の魚河岸商人の信徒らが提灯を奉納したのがきっかけで同町で受け継がれている。江戸開府400年を期に新調奉納された。


浅草宝蔵門の提灯の下に龍の彫刻が施してある。


松山市のデパートで江戸文字匠の技を披露する「橘 右之吉」さん。


松山市のデパートで江戸文字匠の技を披露する「橘 右之吉」さん・・お願いして手を休めて頂き一枚撮らせて頂いた。


人気の「消し札」


雷門前からもこのような形で東京スカイツリーが見える。
6月11日は曇天、快晴であれば青空をバックに綺麗に撮れるだろうが。・・残念
この後は、東京スカイツリー散策に行ったが、すぐ近くに見えるので徒歩で行ったがかなり歩いた。・・高いから近くに見えたので・・ハィ

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ああ上野駅

2011年06月17日 | ああ上野駅
ああ上野駅

6月11日午後千葉県鎌ヶ谷市の道野辺八幡神社を訪問し上野に戻った。
上野駅は超久しぶりである。所用で秋田市に行く時、東北新幹線乗車の為上野駅に来たとき依頼、当時の東北新幹線は上野発であった。エスカレーターで地下深く降りた覚えがある。30年も前の事である。
鎌ヶ谷市から上野駅に戻り構内を散策、構内で寝起きをしている風な吾人が数人居た。

上野駅といえば・・これだ
一、どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ
上野は おいらの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった
二、就職列車に 揺られて着いた 遠いあの夜を 思い出す
上野は おいらの 心の駅だ 配達帰りの 自転車を
止めて聞いてる 国なまり
三、ホームの時計を 見つめていたら 母の笑顔に なってきた
上野は おいらの 心の駅だ お店の仕事は 辛いけど
胸にゃでっかい 夢がある

当時ほぼ無名の若手歌手だった井沢八郎が歌った。本人も歌手を志して青森県から単身上京した井沢自身の人生も重なり空前の大ヒット。
昭和55年カラオケ専用装置が置かれ歌集のトップに掲載されたのが「ああ上野駅」であった。最近は「ああ・・」の付く曲が多くなりああ上野駅は後に掲載されている。
昭和35年代(1960年代)に集団就職列車に乗って上京した若者の応援歌「ああ上野駅」の歌碑が平成15年7月6日建てられた。場所はもちろんJR上野駅前、多くの県人が歌碑の前で目頭を熱くするという。

私が写真を撮っている時も年配の人が感慨深そう、懐かしそうに銅像を眺めていた。
昭和29年4月5日、中学を卒業したばかりの少年少女622人を乗せた、8両編成の就職専用列車が青森駅から上野駅に向けて出発した。集団就職列車の第一号であった。

戦後日本の繁栄を支えた人達だご苦労様でした!!

3,11・未曾有の東日本大地震、そして長野県北部、必ず早期復興、皆で頑張ろう日本!!


30年以上振りに見た上野駅正面玄関。


上野駅構内・・鉄骨剥き出しの・・


上野駅正面からは東京スカイツリーが見える・・流石634m。


私が泊まったホテル、駅から徒歩3分最高に利便性がよいが深夜車の騒音、サイレンに悩まされ熟睡出来なかった。・・これが気にならず眠れる人は最高の立地条件・・ホテルも真新しく綺麗・・隣が東京メトロ本社ビル。


上野駅広小路口にある「ああ上野駅」の歌碑。


下に「ああ上野駅」の歌詞が置かれている。


上野駅広小路口にある「ああ上野駅」の歌詞。
上野駅は、東京駅や新宿駅と違った故郷を感じさせ哀愁を漂わせる駅・・そのように感じた。
カラオケでよく歌ったな・・・・・


歌碑の一番下に設置されている「ああ上野駅」の歌詞の由来。
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千葉県鎌ヶ谷市 道野辺八幡神社に眠る・秋山好古揮毫石碑

2011年06月16日 | 鎌ヶ谷市道野辺八幡神社に眠る・秋山好古揮

鎌ヶ谷市 道野辺八幡神社に眠る・秋山好古揮毫石碑

6月8日から新潟市を訪れ(神田勝郎氏が発行した書籍:秋山好古と新潟の人びとの出版お祝い)10日に魚沼市に新たに発見された好古揮毫石碑「戦役記念」の取材を終えた後11日千葉県鎌ヶ谷市の道野辺八幡神社を訪問した。

千葉県鎌ヶ谷市は、今は全国区になる有名な自治体となっている。
それは、今期早稲田大学卒して、北海道日本ハムファイターズに入団した「斉藤佑樹投手」が練習をする二軍球場があり、住民登録も鎌ヶ谷市に登録して一時期は毎日詳細にTV報道され有名となった。

道野辺神社は球場の直ぐ近くにある由緒ある社である。
この神社にある事情で、秋山好古が揮毫した石碑が18年間眠っているのである。
道野辺八幡神社を訪れたのは、早く石碑を再建立して頂きたく宮司さんにお願いに伺った。
宮司さんのお名前は「北山秀彦」さん、といわれる。
なぜこの社に好古揮毫の石碑が運ばれて来たかの経緯を伺った。

千葉県習志野市の大規模農家の息子さんが日露戦争に騎兵隊として従軍し、戦死され、父親は後世にその戦役を何らかの形で残しておこうと考え、上官であった秋山好古に書をお願いした。好古は本来教育者であり非常に部下思いの優しい心の持ち主で、大阪師範学校を卒業後名古屋師範学校付属小学校の教員をしていたが、伊予松山出身の和久教務官の強い勧めで(強引に・無理やり)軍人にさせられた。
好古の人生の中で軍人生活が長かった。軍服という「甲冑」を着ていた時期が長かっただけで、身体の中身は教育者であった。

揮毫依頼を受けた兵士の名前は「織戸清太郎」で明治38年4月28日戦争地「二道家子」で名誉の戦死をしたのである。
織戸清太郎騎兵隊員の当時の階級は、騎兵14連隊 騎兵伍長で、心身強靭・勇敢で優秀な騎兵隊員であったため好古は、凄い漢詩で揮毫し家族の願いを叶え書き贈った。

※ 好古が揮毫した漢詩は
「征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞勒功 永抑其武」
意味、読みは、註3を参照して下さい。

揮毫当時の秋山好古の階級は、陸軍少将 正五位勲二等であった。
好古は、織戸騎兵伍長の勇士を讃え最高の意を漢詩で表現し書き上げた。
揮毫は、当初石碑にする予定でなかったが、後に家族の思いが募り石碑として屋敷に建立したそうだ。

18年前織戸家はある事情で石碑を撤去し道野辺八幡神社に預けた。
それは、碑文の意味がわからなくての事だろう??
八木宮司は、石碑再建立をすべき石工さんに石碑に穴を開け鉄柱を入れ込む工法を相談するも石質がもろく適用できず、思案していたところステンレス製の枠を造りそれに入れ込む工法で再建立する事を考案、近い内に必ず再建立いたします・・とお約束を頂いた。

除幕式には連絡しますとも言って頂いた。・・・その時に取材に伺う。・・そして石碑の傍に説明版を設置して後世に伝えていきたいと宮司は付け加えた。

なお、石碑は長さが約1,8mで厚さは薄く三分割されて境内に眠っていて碑文は下にしているため見えない。
出来るだけ早く日の目の当たる場所に再建立して頂きたい。
出来ればNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲・第三部」が12月から放映される、それまでにお願いしたいものだ。
なお石は、宮城県仙台市産で石質は非常に柔らかいそうだ。

註1:現在好古揮毫の石碑は全国に48基発見されているが、道野辺八幡神社の石碑は、2番目に古い石碑で個人的に揮毫した石碑は2基目である。

註2:この石碑の発見は、千葉県八千代市がある調査をしていた時偶然に発見したそうで、碑文の読み、意味、建立発見と経緯は、八千代市立郷土博物館 主任学芸員 佐藤氏から提供して頂いた。

註3:征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞勒功 永抑其武
   読み:せいばたてがみをふるい、ふかくけんどにいる。
      いっしはこうもうたり、みづからだんうををかす
      ていびんにこうをろくし、ながくそのぶをあおぐ。
   意味:軍馬はたてがみを振るわせて、敵のふところ深く進撃する。
      自分の命を鳥の羽よりも軽んじて、自ら弾雨の中を突き進んでいく。
      この石碑にこの功績を刻み、永遠にその武勲を仰ぐ。

道野辺八幡神社入口で、急な階段を上ると参道があり社拝殿まで長く舗装された道がある。


長い参道を入ると・・


立派な拝殿が現れる・・立派である・・拝殿前広場は石畳である。


神社の由緒は、画像をご覧下さい。


神社の駐車場で、この奥に好古揮毫の石碑が三分割されて18年間眠っている。
早く日の目の当たる場所に出してやりたい。


18年前に習志野市の織戸家から解体業者が三分割された石碑を運び込んだ。


画像の通り石碑は薄く再建立の造作は難しい。
石は、宮城県仙台市産だそうで、非常に柔らかい石質がゆえに造作が難しい。


伺ったのは6月11日、JR上野駅前の新しいホテルに宿を取ったが、交通の利便性は最高だが、首都高速、下に一般道が走り深夜の救急車、消防車、パトカーのサイレンの音で度々目が覚め熟睡出来なく、新潟からの長旅の疲れが一気に出た。
夜が明けるのを待って、JR上野駅から常盤線でJR柏駅経由、東武野田線船橋行きに乗車、鎌ヶ谷駅で下車して徒歩で道野辺八幡神社を訪れた。
この日は朝から雨で石碑撮影時には小雨となり巧く撮れた。
画像の通り石碑は、碑文の風化を防ぐ為下向きにしてあり見えなかった。
再建立時にはじっくりと拝見したい・・その時を楽しみにして神社を後にした。
北山宮司さんに昼食をご馳走して頂きました。
有難うございました。












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新たに発見・秋山好古揮毫石碑「戦役記念」新潟県魚沼市で

2011年06月15日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で
新たに発見・秋山好古揮毫石碑「戦役記念」新潟県魚沼市で

新潟県で2番目となる秋山好古揮毫石碑「戦役記念」が発見された。
全国で48基目で4番目に古い石碑、揮毫時の好古の階級は、陸軍中将である。
場所は、新潟県魚沼市堀之内竜光 天満宮神社境内に建立されていた。

今年5月5日新潟県柏崎市在住の柴野さんから、新潟県魚沼市堀之内竜光にある天満宮神社境内に好古揮毫の石碑が存在すると写真を添えて書簡が秋山邸に届いた。
奇しくも私が好古揮毫の石碑を専任で調査を開始した切っ掛けが平成17年5月5日に起きた大きな出来事から6年目の事である。・・私と好古さん揮毫石碑とは不思議なご縁がある。

さて、柴野さんが見られた石碑は平成16年9月11日で、この時に撮影された写真、同年10月23日中越大地震が発生した。もしかすると石碑は倒壊していると思うので調査確認して下さいと付記されていた。5月5日早速、新潟市の北方文化博物館佐藤統括室長さんと、前横越コミュニティ協議会会長・神田さんに調査をお願いした。現存であれば早急に写真取材に伺いますと付け加えた。

神田さんは5月7日魚沼市に急行し調査の結果、中越大地震で石碑は倒壊したが3年前に再建立され立派に復元されていると連絡があった。
現地取材は6月10日に決定した。

8日は北方文化博物館で交流会、9日は新潟市内の文化施設を佐藤さんと神田さんに案内見学させて頂いた。
10日は新潟の旅最後で、日程最大目的の魚沼市である。
午前8時に私の宿舎に神田さんが迎えに来て頂き新潟中央IC、北陸自動車道で長岡JCT経由して関越自動車道堀之内ICで降り魚沼市堀之内竜光の天満宮神社に向かい9時10分に現地に到着した。

この日は天候もよく現地は薄日が降り注いでいた。
秋山好古揮毫石碑取材は、今回で47基目何時もながらいい天候の下写真撮影が出来る。何時も好古さんが「わしが書いた石碑調査ご苦労、せめて天候だけは雨の降らないようしてやるよ」・・好古さんのご加護・・ありがとう好古さん。
現地に付いて驚いた。

地元郷土歴史研究家(元民生児童委員)の下村さんが魚沼市役所に、愛媛県松山市の秋山兄弟生誕地から取材に来ることを事前に連絡して頂いたのだろう??私と神田さんの取材のために、魚沼市役所市長公室秘書広報吏員さん、同情報システム室魚沼ケーブルテレビの方、財団法人魚沼市地域づくり振興公社の職員さん、新潟日報編集局報道部記者の方々が迎えて頂きそして取材を受けた。

また、地元自治会長さん、老人倶楽部会長さん、ご婦人達も来て頂き神社本殿でお茶のお接待を頂、大歓迎の出迎えを受けた。
皆さんの要望で神田さんと私とで秋山好古に関するミニ講演会を開いた。

最後に私から魚沼市役所の吏員さんにお願いをした・・石碑はこれからも大切に保存して下さいとお願いをしましたら、石碑建立の由来等々説明版を設置して後世に伝えていきますと嬉しい言葉を頂いた。

今まで好古揮毫石碑取材をして来たが、こんなに盛大な歓迎を受けたのは初めてであり感激した。・・好古さんも喜んでいると思う。

これで8日からの新潟の旅は終わった。天候もいい下で。
お世話になりました新潟市&魚沼市の皆様に心から御礼を申し上げます。
本当に有難うございました。

特に北方文化博物館佐藤統括室長様には、新潟訪問に際し事前連絡を初めいろいろとお手配頂き8日・9日2日間新潟市内文化施設ご案内感謝いたしております。
そして神田様には新潟訪問3日間私に付き添って頂き、魚沼市のご案内そして帰りのJR浦佐駅までのお見送り有難うございました。

11日には、千葉県鎌ヶ谷市道野辺八幡神社に眠っている好古揮毫石碑を尋ねます。

註1:秋山好古揮毫石碑は魚沼市の石碑で48基となり(千葉県鎌ヶ谷市道野辺八幡神社にある石碑は三分割に折れて眠っているので実質の建立石碑は47基)魚沼市の石碑「戦役記念」の碑文は初めてである。

この地区から日露戦争に出兵従軍された方は26名で、残念に3名の方が戦死され、23名の皆さんは無事生還された。23名の皆さん達が記念に「碑文 戦役記念」を建立、揮毫を秋山好古さんに依頼した。
好古さんは揮毫しながら「よくぞ元気で生還された・・わしはうれしいぞな」と熱いものが胸に湧いてきながら「戦役記念」を書き上げたと思う。
石碑裏面に23名の名前が刻印されていて、石碑横側に大正3年8月有志建之と刻まれていた。

註2:戦役記念碑の建立地少し上に、陸軍大将鈴木荘六揮毫の「忠魂碑」が昭和28年9月建立されていた。忠魂碑は、この地から日清・日露・太平洋戦線で従軍し戦死された方々の英霊をお祀りした石碑で、裏面に戦死されたお名前が刻印されており、上記に記載した26名のうち3名が戦死と書きましたが、3名の方のお名前も忠魂碑の裏面に記載してあった。


大正3年8月日露戦争に魚沼市堀之内竜光地区から従軍され無事生還された23名の元兵士有志の方々が戦役記念として大正3年8月秋山好古に揮毫依頼して建立した石碑、平成16年10月23日発生の中越大地震で倒れ3年前の平成20年に以前建立していた場所より本殿よりに再建立したとの由。


石碑裏面で生還された方々の名前が記載されている。
まだお名前が判読出来るので今のうちに記録資料として書留とおく必要ありです。説明版を設置さられとの事ですので、お名前も説明版に記載して頂ければいいと思います。


石碑左側に建立年月日が刻印。


天満天神社の社号碑で境内にある鳥居の社号額は天満宮とある。どちらが正式な社名だろうか??
平成16年10月23日発生の中越大地震は山古志村に次いで被害の大きい地区で神社境内にあった鳥居、石碑等々は全部倒壊し、社殿も傾き3年前にやっと復元修復されたそうだ。


復元された鳥居・・鳥居の社号額は、天満宮と記載されている。


復元された鳥居で鳥居には「中越大震災復興再建 平成17年10月吉日 氏子中」と刻印されている。


天満神社入口に建立されている「中越地震復興記念塔・激震・平成20年8月建立」と記載、この時に好古揮毫石碑も再建立された。


中越地震復興記念塔に掲揚されている記念の幟。


新潟日報編集局報道部記者の取材を受ける神田氏右と左の方は老人倶楽部会長さん・・真ん中の人物は新潟日報編集局報道部記者。
神田さんは6月8日付けで出版された「秋山好古と新潟の人びと」の著者で近々「新潟好古会」を設立される予定である。その時には、新潟好古会魚沼支部を作って頂きたい。


魚沼市情報システム室魚沼ケーブルテレビの取材を受ける神田氏。


集って頂いた地元の方々で、本来の秋山好古揮毫石碑建立地は左後方に見える石碑類がある地点にあったが、震災復興道路建設の為に現時地に再建立した・・右に見える石段左の石碑が好古揮毫の石碑。


取材を記念して集合写真、この中に愛媛県松山市出身のご夫婦が歓迎に来て頂いた・・私が来る事を聞き。


昭和28年9月建立された忠魂碑、この地から日清・日露・太平洋戦線で従軍し戦死された方々の英霊をお祀りした石碑で、裏面に戦死されたお名前が刻印記載されており、前記に記載した26名のうち3名が戦死と書きましたが、3名の方のお名前も忠魂碑の裏面に記載してあった。

註:鈴木荘六は、越後国蒲原郡三条町二ノ町(現新潟県三条市)に鈴木高次の三男として生まれた。元治2年2月19日(1865年)- 昭和15年(1940年)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。第4代帝国在郷軍人会長。
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新潟県・「新潟市の旅・秋山好古と新潟の人びと」 3

2011年06月14日 | 新潟市の旅「秋山好古と新潟の人びと 3
6月8日、北方文化博物館宿泊施設「大呂庵」に泊り翌9日早朝博物館周辺を散策後、沢海藩城跡を北方文化博物館、佐藤統括室長さんの案内で見学「現在は阿賀野川河川敷公園」して神田氏宅を訪問、記念の写真を撮り、新潟市街地に移動、好古の副官を務め、昭和11年松山市道後公園に建立された好古騎馬像のモデルとなった山内保次が生活した北方文

化博物館新潟分館を見学、伊藤分館長さんの案内で一般公開してない離れを見聞(ここで山内保次が生活)、立派な造りで、昭和39年(1964年)6月16日13時1分に発生した新潟大地震に耐えびくともしなかったそうで、昔の大工さんはいい仕事してますねと・・皆で褒め称えた。

その後、合津八一記念館、旧斉藤家、護国神社、日本海海岸等々見学した。
どの施設を伺っても新潟市の皆さんは心穏やかで温かい気持ちで持て成しを受けた。

昼食後、新潟市一番の高層ビル「NEXT21(ネクストにじゅういち)は、新潟市中央区にある高層ビル。萬代橋や朱鷺メッセなどと並び、新潟市のランドマーク的存在となっている。最上階から越後平野を暫し眺めながら改めて広大さに驚き、四国四県で取れる米がこの平野だけで収穫出来そうな感じがした。

ここNEXT21は、新潟市役所があった場所で建物は地上21階、地下3階建てで高さは125mあり、1990年代の新潟市では一番の高さを誇っていたが、2003年に竣工した万代島ビル(朱鷺メッセ)に抜かれ市内では2番目の高さである。1階と2階とを結ぶエスカレーターは螺旋状になっているほか、エレベーターの内部がガラス張りのシースルーエレベータになっている。

夕食は、神田氏の招待で新潟名物をご馳走になり、二次会では「新潟ブルース」と「この街で」を歌い楽しい一時を過ごさせて頂いた。・・二次会の席(オーナー)がなんと土佐(高知県)出身の美人で・・すっかり越後人になっていた。


北方文化博物館新潟分館正面玄関


北方文化博物館新潟分館中庭


秋山好古の副官を務めた「山内保次」が暫く生活をした離れ・・普段は一般公開してない貴重な文化財・・内部はもとより軒下の垂木にいたるまで手の込んだ造作であった・・
昭和39年(1964年)6月16日13時1分に発生した新潟大地震に耐えびくともしなかったそうで、昔の大工さんはいい仕事してますねと・・皆で褒め称えた。


秋山好古の副官を務めた「山内保次」が暫く生活をした離れ・・普段は一般公開してない貴重な文化財・・座敷、床の間を背にして記念に一枚撮りました・・


山内保次は馬の絵を描くのが得意中の得意で、あっと言う間に書き上げたそうで、これも未公開のものを見せていただき、許可を得て写真を撮らせて頂きました


NEXT21でここからの越後平野眺望は圧巻でした・・手前の河川は信濃川


新潟県護国神社境内に建立されていた伊予大洲藩船殉難者慰霊之碑(大洲史談会参拝記念・平成12年3月13日)
後ろに沢山あるのは戊辰戦争で殉職した各藩士達の墓石で、数年前心無き者によりなぎ倒されたそうです


新潟県護国神社境内と本殿で広大な敷地の社があり、参道に沢山のいろいろな記念の石碑が建立してあった


新潟市の日本海海岸でこの日は曇りで佐渡島がほんの一瞬で見る事が出来た
この海岸で北朝鮮による拉致被害にあった「横田めぐみさん」この海岸から拉致されたのでしょうか・・元気で早く日本に帰還できる事を祈った
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