EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊豫湯築城主河野氏と長生寺(広島県竹原市)

2012年05月04日 | 伊予松山歴史散策
天正13年(1585)秀吉の命を受けた小早川隆影・吉川元長により湯築城を開城して河野氏は滅亡し河野氏の伊予の支配は終わる。
最後の城主「河野通直」は小早川隆影のご加護で竹原に逃れ、天正15年(1587)7月、24歳で病死、通直には嫡男がいなかったので宗家河野氏は滅亡する。小早川隆影はこれを悼み「長生寺(ちょうせいじ)」を建立し菩提した。
 墓所:「長生寺」・広島県竹原市本町一丁目16番22号

天正13年(1585)豊臣秀吉が大阪城築城、同年豊臣秀吉の命により小早川隆影は、35万石の伊予守護職となる。
天正15年(1587)九州征伐のため小早川隆影は九州に移動(福岡県(筑前・名島(なじま))に転封、同年福嶋正則が湯築城入城するが直ぐ今治に移動其の後湯築城廃城となる。
福嶋正則、東予に11万3千2百石+蔵(くら)入地(いりち)(秀吉の直轄領)の大官分9万石、合わせて=20万3千2百石となる。
福嶋正則は其の後尾張清洲城に移り、関ヶ原の合戦後広島城主になるが、豊臣系の武将であるため幕府に警戒され、元和5年(1619)幕府に無届出改築したのを理由に長野県川中島4万石に減封され不遇のうち死んだ。

戸田勝隆、宇和郡・喜多郡を拝領、10万石+蔵(くら)入地(いりち)大官分10万石=20万石で配置された。
この頃検地が行われ近世的な土地制度が導入された。
文禄4年(1595)加藤嘉明10万石・藤堂高虎に13万5千900石・池田秀雄に7万石が新たな伊予の領主となり慶長の役で日本水軍の中心を担った。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦直後に徳川家康は、伊予を二分し、加藤嘉明と藤堂高虎にそれぞれ20万石を与えた。
 湯築城廃城が廃城となってから松山城築城まで15年間の空白がある。
  
慶長5年(1600)9月14日、旧村上水軍勢は伊予の守護であった河野氏の所領奪回に現在地「興居島」に上陸し加藤嘉明に対して領地の明け渡しを要求、加藤嘉明は、兵を率いて関ヶ原に出陣中、留守を預かっていた佃家老が15日未明に夜襲を掻け、現在地「松山市古三津地区一帯で」大激戦が行われ、村上水軍一党は討ち死にした。
古三津地区に今も祠が沢山あるのは、村上水軍一党の霊を祀っているものである。もし佃家老が率いる加藤嘉明の留守隊が敗北していたら、嘉明は関ヶ原から帰る領地がなかった。・・嘉明は松山城築城に際し、北の丸を造営し佃家老の功績に報いた。

註:初代内閣総理大臣、伊藤博文の祖は河野氏で、満州ハルピンから帰ったら河野通直の300回忌を松山市で行うと言われ満州に行かれたが、ハルピンの駅で暗殺された。400回忌をここ長生寺でされたそうだ。・・住職談話


広島県竹原市の街並み・・城下町の佇まいが古きよき時代を今も感じさせる町である。


竹原市の街並みに長生寺があり湯築城のガイドをしていた関係上勉強の為に訪れた。




伊豫最後の守護、河野通直の墓所で小早川隆景が建立したとある。


河野通直の墓、竹原市観光協会の説明板。


河野通直の位牌と、能島村上水軍の村上元吉の位牌が祭壇に祀られている。


長生寺の住職さんで河野氏の説明をして頂いた。長生寺は度々災害で本堂や伽藍は崩壊し再建して来たが、河野通直の墓所は災害の被害には遭遇せず当時のまま残っているとの由。
註:初代内閣総理大臣、伊藤博文の祖は河野氏で、満州ハルピンから帰ったら河野通直の300回忌を松山市で行うと言われ満州に行かれたが、ハルピンの駅で暗殺された。関係者が400回忌の法要をここ長生寺でされたそうだ。


長生寺のすぐ近くに能島村上水軍の村上元吉の供養等が建立してあり、その一族の墓がある。


能島村上一族の墓所


能島村上水軍、村上元吉の墓の説明板。


西瀬戸自動車道「通称・しまなみ街道」本州四国連絡道路の尾道・今治ルートを成す道路であるが、この沿線に今治市宮窪町がある。ここに秋山好古揮毫の石碑が2基ある。画像はその1基で宮窪町余所国・両社明神社にある。この神社は古来、河野・村上家の崇敬が篤いとある。(愛媛県神社誌より)


秋山好古揮毫の石碑が2基あるその二つ目で宮窪町宮窪、中村集会所横にある。
昭和11年発行の「伝記・秋山好古」の一項に、秋山家の祖先は村上水軍と関係ある家系と記述がある。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豫国・湯築城跡 (現、道後公園)

2012年05月02日 | 伊予松山歴史散策
「城」といえば・高くそびえる天守・大きな石垣・水をたたえた堀を思い浮かべるが、これは近世の城のイメージである。
 織田信長が安土に城を築いたが、これが近世の城の見本となり広がって行った。 中世の城は、天守をもたず、石垣もなく土の城で、そしてその大部分は小高い山に築かれた山城、山頂を削り此処に館を造り、麓に家臣の居住を造りその外に土で土塁を構築して城の防衛施設を造った。
 
 湯築城の築城年代は、室町時代から安土桃山時代にかけて約250年間に渡り伊予国の守護であった河野氏の居城として存続した城跡である。

この時代の城跡が観光地で住宅街の中に存在する事自体が全国でも非常に珍しく貴重な遺稿である。
  
 さて、河野氏が史上に登場するのは、通清が源平合戦の戦いからでこの時、源氏に荷担いたし戦死する。 その子、通信が合戦後、西国御家人として優遇され伊予の御家人の統率権が認められた。 また、この時期に時宗の開祖「一編上人」が宝巌寺で誕生したといわれている。「1239~1289」51歳、神戸市真光寺で生涯を終える。
 
 湯築城の築城
詳しい文献もなくよく分からないが、興国3年(1342)に躯綱氏が城を攻撃したと記録があるので、この頃までに河野通盛によって築城されてと考えられる。
 その後、全国統一を目指す羽柴秀吉の命を受けた、小早川隆影が河野通直を打ち破り、河野氏の伊予の支配は終わる1585年である。

その後、政治の中心は、加藤嘉明が築城した松山城に移り、湯築城は廃城となる。
湯築城跡は中央の丘陵部が(南北210m/東西310m 比高差31m)内堀・外堀に囲まれた平地部を合わせた南北350m・東西295mの平山城で、やや南北に長い亀甲形を基本として、北東部が鉤形に大きく屈曲している。

 明治時代になり公園として整備され昭和の戦後、道後動物園が開園その後移転に伴い、愛媛県が計画していた日本庭園整備のため昭和63年に発掘調査をしたところ湯築城跡の遺構・遺物が極めて良好な状態で残っていたので、その保存を求める県民の強い要望もあり、日本庭園計画を中止し文化財を生かした公園として整備し平成14年4月12日に開園した。
動物園のあった場所の発掘調査の結果を基に、武家屋敷や土塀を復元し、土塁の展示室を設け公開している。

日本100名城第80番に指定されている。


中世の城跡「国指定 湯築城跡」表示板。(現在の道後公園)


湯築城跡資料館にある「湯築城の模型」


湯築城を南方面から見た画像、後ろに見えるビル群は道後温泉のホテルで、城跡の裏手に子規記念博物館がある。
中世の城が平地に築城された事は非常に珍しく、防御するには大変である。


湯築城南西方向からの画像で、復元された武家屋敷1(手前)武家屋敷2(奥)と土塀。


東南方向からの画像で左手に武家屋敷2(復元)内堀と外堀、奥に見える広場が城主の居住場所とされている。


資料館内部、発掘調査で出土された遺物が展示してある。


復元された武家屋敷1の内部で、京都から連歌の師匠を招き河野家の家臣たちが連歌の指導を受けている光景を展示している。
連歌とは、和歌の上の句と下の句に相当する5・7・5の長句と7・7短句と唱和を基本とする短詩の形態で、中世・近世にわたって流行した短詩系文学、これを交代しながら100句読みつづけるのが通常とされている。


復元された武家屋敷2で、内部の展示物ここにも出土された遺物が展示してある。


全国の城郭展示で唯一である土塁の展示場があるその入り口。


土塁展示内部1。


土塁展示内部2。
ここは、湯築城の土塁の中で一番高く一番良く残っている所で底辺が約22m・高さが5mありこの土塁は、外からの進入防止と、中の様子を隠す遮蔽の役目をする。


伊予国の守護職、河野氏の家系図。


伊予国の守護職、河野氏の家系図で湯築城を築城した河野通盛時代までの家系図(1300年代)。


河野通盛が築城した時代、湯築城を防御する支城の配置図。


湯築城跡城内ではよく見られる光景(結婚祝いの前撮り記念写真撮影風景)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする