EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第9番 道音寺

2013年02月21日 | 伊予松山歴史散策
伊予13佛めぐり5日目、1月31日(木)残り4ヶ寺霊場を今回は車で巡拝する事にした。東温市の3ヶ寺と、最後に参拝する、松山市の北東山間部に位置する円福寺は自転車ではきついためである。
午前11時過ぎに自宅を出発、第9番霊場、道音寺には11時30分に着いた。

道音寺は、東温市(旧重信町)牛渕457番地にあり、ご本尊は勢至菩薩で、西岸山 行樹院 道音寺、高野山真言宗の寺院である。
牛渕は、元高野山真言宗管長・森 寛紹、金剛峯寺座主の出身地、生家は近くにある。

寺伝によると大同4年(809)、空海が当地巡錫の際、阿弥陀如来の影向に出合ったとされる。極楽浄土を目の当たりにした空海が、自らその尊影を刻み、併せて不動・愛染の両明王像を造り、寺院を建立したことに始まる。
隆盛時は七堂伽藍に支院六十坊を有した一大寺院であったと伝わる。

当初は浮島神社東南の南の経塚あたりに堂宇を構えていたと言われるが、近くを流れる重信川の度重なる氾濫に遭い、天和2年(1682)から156年の歳月を要し現地に移った。四隅の四方固めを行い、八つ縄を引いて碁盤状に区画整理を行って集落の基盤を造ったと伝わる。地方には珍しく一帯の道路が碁盤の目状に整備されているのはこのためである。

この地には、私の父方、母方の叔母が嫁ぎ、数家の親戚がある。小学生時代親戚に遊びに来てこの寺でよく遊んだ。
今回お参りしたが昔の面影は無く随分立派になっていた。付近も人家が増え昔の風景とはまったく変貌した。


山門と寺号石碑。


山門を潜ると正面に本堂、右手に弘法大師像が目に入る。


本堂前に立派な弘法大師の立像が参拝者を迎え入れてくれる。


弘法大師立像の後ろ姿。


本堂前から見た境内。


本堂左手に、元高野山管長・森 寛紹、金剛峯寺座主の大きな句碑がある。
「亡き母の 小さき座布団 伊豫絣」 白象
森 寛紹(白象)元高野山真言宗管長は、旧温泉郡重信町牛渕(現東温市)に生まれ、若くして仏門に入る。
白象は俳号で「仏の道も、俳句の道も誠を求めることで相通じる」と虚子を師に俳句に精進し、昭和24年ホトトギス同人。
俳人協会評議員になられた。この句は高野山から故郷に思いをはせ作られたものである。句碑は昭和59年11月建立された。当時は、高野山真言宗管長・金剛峯寺座主で、弘法大師入定1150年ご遠忌を奉修された。ここに名誉町民として敬慕する
町内外の有志により当句碑を建立すると記載ある。


南方向からみた道音寺。


寺の南方向に立派な無線のANTタワーがあった。
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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第13番 成願寺

2013年02月20日 | 伊予松山歴史散策
伊予13佛めぐり4日目、第3番霊場太山寺の参拝を終え好天であったので急遽思いつき、興居島に船で渡り宮本武之輔の記念碑と顕彰銅像を見聞に行った。
宮本武之輔は、新潟県信濃川領域の住民を水害から救った内務省土木技師で松山市興居島の出身である。

帰りに伊予13佛第13番霊場成願寺を参拝した。
成願寺は、松山市久万ノ台1751番地にあり、ご本尊は虚空蔵菩薩で萬景山 成就院 成願寺と称し真言宗豊山派の寺院、僧は谷川龍玄住職である。先代谷川龍彦住職は、アマチャ無線局長でコールサインJA5RVY第一級アマチュア無線技師であった。

私もアマチャ無線局な者で特にマイクロ波帯(1200MHz~77GHz)の愛好局として5600MHzの電波でよく交信していた。中四国で最初に設置した5600MHzのレピータ局(JP5YCK)の設置は成願寺境内にある谷川住職の局舎を常置場所として開局した。(現在は機器修理が不能となり廃局)

さて、寺伝は奈良時代、この付近で疱瘡が流行した際、諸国行脚中の僧・行基が虚空蔵菩薩を刻み祈願したところ疫病が収まったので、この地に堂宇を建てて安置したのが起源と伝わる。寺名は、「虚空蔵菩薩を安置のうえ願が叶う」との意味で「成願寺」と称するようになったとある。

平安後期、源平の時代、熊野大権現のお告げにより本堂を建立したところから、周辺一帯を「クマノ台・・久万ノ台」と呼ぶようになった。更に加藤嘉明が伊予松山城築城の際、この寺を乾の方角の守護仏として崇め参詣、見渡す四方の景観の素晴らしさから、「萬景山」の山号を送った。

主な堂宇、本堂、大師堂、薬師堂、地蔵堂、鐘楼堂、講堂、庫裏、灯籠があり、
特に由緒ある灯篭がある。・そしてオオムラサキがあり、珍しい松もある。画像で紹介する。

住職の言葉、風光明媚、緑の残された景勝地境内久万ノ台公園。開かれた人々の癒しや憩いの霊場。本尊の虚空蔵菩薩さまは罪多き私達を救い、災難を除き、病を除き、財を成し、知恵を授けて下さいます。・・先代谷川龍彦住職(JA5RVY)の言葉。残念に平成23年8月22日ご逝去された。


参道入口にある寺号石碑。


寺号石碑と山門。


山門を潜ると正面に本堂が見えてくる。


本堂で、手前に大師堂がある。


大師堂で、右側に弘法大師立像があり、その横に珍しい三鈷の松が有る。


本堂裏手に庫裏と納経所がある。


由緒ある石灯篭で、宝永6年5代将軍徳川綱吉公が亡くなられた時、九州の大名(現福岡県直方市)黒田伊勢守が江戸上野寛永寺尊前に奉献した石灯篭。葵の門が刻印してある。・・東京にある親戚の寺院から譲り受けたと住職から伺った。


三鈷の松で、通常松葉は二本なのに三鈷の松は三本ある。密教の仏具三鈷杵に似ているため三鈷の松と呼ばれる。弘法大師が唐から帰国の際、密教の道場にふさわしい場所はと三鈷杵を投げられて、高野の松に掛かり高野山を密教の根本道場と定められた。その由来の三鈷の松である。・・厄払いやお守りとして落ち葉を護持致しますと記載してある。・・現住職が落ち葉が無いから、特別にと葉を採って頂き肌守りとして持っています。


愛媛県内で一番大きい「オオムラサキ」周囲24m、高さ4,1m花は5月上旬頃から開花する。昭和49年6月14日 市指定天然記念物。
画像は平成16年5月5日撮影。


オオムラサキの横にある高浜虚子の句碑がある。


JA5RVY局のANT群で5600MHzのレピータANTは上側のパラボラANTの下にセットしていた。現在は全てのANT群は撤去されている。


在りし日のJA5RVY局と無線室。


中・四国発の5600MHzレピータ「JP5YCK」開局式を横浜市のマキ電機社長をお招きして成願寺講堂で行った。
式に出席した松山地区SHF研究会「JH5ZHR」の会員各局。
5600MHzレピータ送受信機は、マキ電機さんにお願いして製作してもらった。
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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第3番 太山寺

2013年02月19日 | 伊予松山歴史散策
伊予十三佛めぐり4日目は1月29日、第11番霊場高音寺を後にして、次の霊場は第3番札所太山寺に向かった。庶民的なお寺高音寺から、四国88ヶ所霊場第52番の札所、松山市内にある霊場8ヶ所のなか本堂が国宝なのは、ここ太山寺だけである。格式が高すぎて参拝するのに構えてしまう感じである。こんな事を言うと不謹慎かも?88ヶ所札と札所でないお寺とは構えが違う、それは収入の差があるからだろうか??住職にしても高音寺の住職のように気軽に話が出来ない。

さて、太山寺は、松山市太山寺町1730番地にあり、龍雲山 太山寺と称し、本尊は、文殊菩薩ある。
寺伝によると、天平11年(739)聖武天皇の勅願により行基開基と言う。帝御自ら金光明最勝経の写経を山の頂に埋められと言う伝えがあり今も、経が森と呼んでいる。豊後の真野長者が、海難に遭い、山頂の光を見てその難を逃れたので本堂を再建したとある。創建以来二度ほど災害を受けた事が昭和27年より3年間の解体修理の際確認された。現在の本堂は、解体にあたり、内陣正面の蟇股の墨書、嘉元3年(1305)が発見され確認されたもの。本堂の建物は、県下最大の豪壮な建造物である。
註:豊後の真野長者と大分県臼杵市の石仏建立と関係がある。

鐘楼の鐘には永徳3年(1383)の銘があり吉野時代の名作、県指定の文化財である。
仁王門から、本堂がある長い参道には正岡子規、種田山頭火、松根東洋城の句碑があった。長い参道入口にある仁王門は、国指定の重文である。

この日は、快晴無風であったので、急遽行動を変更して宮本武之輔の銅像、記念碑の見聞に船に乗り興居島に渡る事にした。
太山寺は何処にも「伊予13佛霊場第3番札所」の標示板が無かった。不思議な寺である。


一ノ門を潜ると重文である仁王門が見えてくる石段口に大きな第52番霊場太山寺の寺号碑がある。・・この日も快晴であった。・・これから長い参道が続く。


参道の中腹に庫裏と納経所がある・・立派な庫裏である。


途中急な坂道があり、普通の自転車では乗って上れないが、私の自転車は電動アシスト自転車なので何とか乗って上れた。石段前の広場には、大日如来の坐像石像がある。


それでは本堂に行こう、自転車を山門前の石段口に置きいざ参拝。


山門を潜ると眼前に大きな屋根を持つ本堂が見えてくる・・一礼して境内に入る。
本堂は、昭和31年6月28日国宝に指定、創建以来二度ほど災害を受けた事が昭和27年より3年間の解体修理の際確認された。現在の本堂は、解体にあたり、内陣正面の蟇股の墨書、嘉元3年(1305)が発見され確認されたもの。県下最大の豪壮な建造物である。
快晴であったためバックの青い空を背景に綺麗に撮れた。


境内東方から、右手が本堂、中奥程に太子堂、左が鐘楼。


石段を上ると太子堂がある。


鐘楼で、鐘には永徳3年(1383)の銘があり吉野時代の名作、県指定の文化財。


市内でも珍しい「聖徳太子堂」で、ここで入学合格祈願祭が行われる。


庫裏と納経所、立派である・・市内の札所で一番規模が大きい。


参道にある正岡子規の句碑「菎蒻に つつじの名おれ 太山寺」
昭和25年頃まで太山寺名物「こんにゃく田楽」を茶屋で売られていた。
美しいつつじがあってもいいではないかと戯れた気持ちの句。明治25年の句で、自筆の文字を拡大して昭和48年に建立。
刻印があさく判読困難。


参道にある種田山頭火の句碑「もりもり もりあがる雲へ あゆむ」句は、愚を守るハスの中、太山寺で詠んだ。
没後60周年記念として平成12年8月17日建立。


松根東洋城の句碑もある。「春雨や 王朝の詩タ 今昔」
東洋城は本名豊次郎、東京に生まれ、宮内省に勤務、父は宇和島藩城代家老であった。漱石、子規に俳句を学び、
大正4年「渋柿」を主宰刊行する。太山寺本堂にて句会の時、境内にみつけた石碑に近詠を刻んだ。「詩」を「うた」
と読ませるため「詩タ」と書いてある。
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伊予路に春を呼ぶ お椿さん開祭

2013年02月18日 | 伊予松山歴史散策
今年もやって来た、伊予路に春を呼ぶと言われている「椿祭り」が2月16日から18日まで、松山市居相町二丁目にある伊予豆比古命神社で始まった。
私も昨日17日カメラ持参で参拝に行って来た。「家内安全と今年一年元気に過ごせますように、東北震災早期復興、元気のある日本復活を祈願した」

椿祭りは毎年旧暦の1月7日~9日に開催される。初日、二日目は好天に恵まれ大勢の家族ずれが参道を埋め尽くし、今年中日が日曜日と好天に恵まれ長い参道を一寸刻みで歩き、本殿参拝は、愛媛県県警の警察官が参拝者の制限を行い整理をし事故の無いお参りが出来る様配慮していた。

境内には新しい児守神社が出来ていた。(平成24年12月23日竣工)拝殿とお札・お守りを初穂料と引換え受け渡しとして臨時の巫女さんが大忙しであった。同神社では例年通り参拝者は45万人の人出があると見込んでいるそうで、愛媛県最大の神社大祭である。

参道は約600mあるが両サイドに露天商が並び境内には縁起物の熊手や「名物の・おたやんあめ」を参拝の帰りに買い求めていた。
参考に、伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)は愛媛県松山市居相町にある神社である。式内社、旧社格は県社。神紋は十六弁八重表菊。
地元では椿神社、椿さんとも呼ばれている。開運縁起・商売繁昌の御利益がある。
「伊豫豆比古」の読み方については、神社では「いよずひこ」としているが、「いよづひこ」と読んでいる例も多い。本来の意味からいえば「いよ-づ-ひこ」であり、「豆」は格助詞「つ(づ)」であるが、ここでは同神社の表記に従う。
江戸時代には松山藩主・久松氏の篤い崇敬を受けた。現在では縁起開運の神として、崇敬者は全国に広がるという。
【正式名称】
 伊豫豆比古命神社は、御鎮座(御創建)二千余年の古くより、尊称・敬称も親しく「椿神社」「お椿さん」とも慕われ、縁起開運・商売繁昌の神様として、四国四県はもとより、広く全国から崇敬を寄せられている神社です。
【通称号】
 「椿神社」「お椿さん」は、松山市内・四国四県で特に敬称を込めて呼ばれているが、この由来は、『往古、伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の二柱の神様が舟山(境内図参照)に御舟を寄させ給い、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)が纜(ともづな)を繋いでお迎えした。』との伝説が示すように、神社周辺は一面の海原であり、『津(海の意)の脇の神社、すなわち「つわき神社」が時間の経過と共に「つばき神社」と訛った。』との学説の一方、民間伝承では、現在も境内一帯に藪椿を主に、各種の椿が自生しているが、「椿の神社」つまり「椿神社」と呼ばれるとの説話があります。

 大政奉還が行なわれて幕政が閉じられ、廃藩置県の実施を見て明治を迎えたとき、伊予の国8藩も例外に漏れず、現在の愛媛県が誕生した。県名策定に際し、古事記・日本書紀にも記されている、当神社の御祭神の一柱、愛比売命から県名とされたが、都道府県名に御神名を冠されたのは、愛媛県のみのようだ。

なお境内には例年8月に開催される全国高校俳句甲子園大会で最優秀句に選定された句が記念の玉垣句碑として建立されている。今日行ってみると昨年開催の第15回俳句甲子園個人最優秀句の句碑は未だ建立されてなかった。早く建立してあげて下さい。
 

好天に恵まれ多くの参拝者が来ていた・・昨日は日曜日であったので人では多かった。


本殿から見た参拝者。


山門を潜り本殿に上がる石段を登り拝殿で参拝する。列をなす参拝者、左側の人達は参拝が終わった人達。


左が本殿に行く参拝者、右は参拝が終り下りてくる参拝者、おみくじを引き運勢を確かめる人々。


参拝通行規制が解除されおもむろに石段を上る参拝者達。


拝殿前に来て賽銭を納め参拝が終わるには未だ少し時間が掛かる。


昨年12月23日新築された「児守神社」。


新築された「児守神社」でお札・お守りを受け渡す臨時の巫女サン達。


数あるお札・お守り。・・どれにしようか迷っている。


今年から創られた大型のお守り。


縁起物の熊手も売っている。・・売れると三本締めで締める。


縁起物を買い求める参拝者。


境内には、毎年8月松山市で開催される、全国高校俳句大会(俳句甲子園)で個人最優秀句に選定されると句、
学校名、個人名が石碑に刻印しその誉れを讃え永久に句碑玉垣として建立されている。


第14回までの句碑が玉垣として建立されている。・・第15回大会の最優秀句碑が未だ建立されていない。・・
早く建立してあげて下さい。
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伊佐庭 如矢 顕彰企画展示会・シンポジュウーム開催

2013年02月17日 | 伊予松山歴史散策
平成25年2月16日(土)~3月24日(日)の期間、伊佐庭如矢顕彰企画展が開催される。それを記念して昨日(16日)子規記念博物館で講演会が開催された。
伊佐庭如矢さんとは、道も号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり道後の医家、成川國雄の子として一家を創立し名は如矢、通称は斧右衛門、碧梧桐とも号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり、明治維新後は愛媛県庁、内務省の官僚、山田香川郡長、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長に挙げられ道後温泉の改造などを行った。現在の道後温泉本館は、伊佐庭如矢が建築したものである。

伊佐庭如矢の4代功績は、
1、松山城の公園化実現。
  明治6年政府は全国の城の廃城令を公布した。松山城廃城方針に対して愛媛県は松山城の公園化を訴え、城の楼閣全ての無  償払い下げを実現し天守の存続に尽力した。
  ※公園永久維持之儀 申上候書を愛媛県参事江木康直名で申上候書を起案したのが伊佐庭如矢で、それに対して、内務卿木  戸孝允の指令が「書面の松山城は、再建後まだ日が浅く、人民の愛慕強く・・中略・・格別の配慮を持って楼閣・櫓の全て  を無償で公園に指し下すと松山城の公園化を指令した。

2、道後温泉の興隆化。
  明治20年代道後温泉を象徴する建物、100年後を見越した3階建ての本館建設に尽力し道後地区の発展に尽くした。
3、道後鉄道建設。
  道後温泉の入浴客増加を目的に道後鉄道を明治28年実現した。
4、道後公園の整備。
  入浴客や観光客が憩いの場として道後公園改修に尽力し、今日に繋がる公園整備を行った。
 ※もう一つの功績「湯ざらし団子の考案」
 「坊ちゃん団子」は道後の名物として有名だが、これは夏目漱石の小説にちなんで生まれたとされている。これは道後温泉東 方に「振鷺園」と称する休憩所「風詠館」を造り伊佐庭の発案「湯ざらし団子」を売り出した。これが「坊ちゃん団子」とな り今日に至っている。

参考事項
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。幕末伊予松山藩は長州に二度進攻した朝敵、長州の出身、木戸孝允はよく聞き入れてくれたものだ。

伊佐庭如矢は、今日の松山市の観光資源である、松山城天守と道後温泉を残した功績は多大である。・・この事は松山市民あまり知らない事である。
今回の顕彰企画展示の資料を見て偉人の功績を是非振り返って見てこれからの松山の街作りに理解をする必要がある。


松山市立子規記念博物館の正面。


松山市立子規記念博物館玄関、子規に関する資料は全国一番多く所蔵している、短詩系博物館としては全国一。


伊佐庭如矢顕彰企画展示のポスター。


伊佐庭如矢顕彰企画展開始式で挨拶をする野志松山市長。その後内覧会が行われ、子規博学芸員による説明があった。


晩年伊佐庭如矢が愛用した物。


内覧会のあと、会場を移し講演会が開催され、初めに伊佐庭如矢の功績を讃えた紙芝居が行われた。簡単明瞭に
よくまとめてあった。


講演、基調講演の懸垂幕。


第1部講演「伊佐庭如矢の功績について」の講師、松山市長・野志 克仁氏、伊予史談会・二神 将氏の講演があった。
特に二神 将氏は、伊佐庭如矢についての研究第一人者。


熱心に講師の話を聞く公聴者。


講演第2部、「新しい時代の新しいまちづくり」と題して基調講演を、東京大学名誉教授 内藤 廣氏の講和があり、
現在は伊佐庭如矢のような長期的な視野をもって街づくりに取り組む人が居ない、これからは官民一体となり一致
団結して魅力と個性のある街を作る必要がある。と語った。


伊佐庭如矢の功績を讃えて、自身が整備した道後公園に顕彰碑が建立されている。揮毫は、昭和21年1月13日、
幣原内閣・第62代文部大臣・第18代昭和21年~同41年、学習院院長、安部能成である。


道後公園に咲く白梅、この奥に伊佐庭如矢の石碑がある。


道後公園に咲く紅梅、5部咲き。


道後公園に咲く紅梅、8部咲き。


伊佐庭如矢が町長時代、議会や町民の大反対を押し切り100後の道後発展の拠点として造り上げた道後温泉本館、
明治27年完成した。同28年松山中学に赴任した夏目漱石は、一番町から坊ちゃん列車にのり道後温泉入浴に毎日通った。
3階一番右端の部屋を「漱石の部屋」として保存展示しており入館者は見学出来る。


明治6年内務卿、木戸孝允に松山城を住民のための公園として維持存続を願いでて許可され存続に至った伊予松山城天守。・・現存12天守。


明伊佐庭如矢が考案した「湯ざらし団子」で今日の坊ちゃん団子である。


愛媛県を退職した伊佐庭如矢は、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長として手腕を振るった。功績の一つ、道後鉄道建設。一番町(現三越松山店から道後まで敷設した)道後温泉入浴客増加を目指しての事業であった。・・当時を偲ぶ軽便蒸気機関車と客車。・・現在伊予鉄道が市内を営業運航している。


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