EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市指定天然記念物「十六日櫻」二個所で開花

2013年03月11日 | 伊予松山歴史散策
今年も桜の季節がやって来た。
松山市には十六日桜「別命:イザヨイサクラ」が三ヵ所にある。
一つは、松山市山越三丁目にある龍穏寺で、二つ目は、松山市御幸町一丁目にある天徳寺、三つ目は、同町にある吉平屋敷跡で天徳寺と吉平屋敷跡の桜は、昭和45年5月18日に松山市が天然記念物に指定している。

今日(11日)天徳寺と吉平屋敷跡に行き天徳寺は副住職の許可を得て撮影、吉平屋敷跡は自由に観賞出来るので断りをする必要は無く撮影することが出来る。

十六日桜「別命:イザヨイザクラ」は、小泉八雲が孝子桜として世界に紹介したことから有名になった。
桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、寒中1月にもかかわらず、十六日に花が咲いたと言う伝説の桜である。

開花は、龍穏寺の桜は1月中旬頃から2月中旬頃まで、天徳寺と吉平屋敷跡は、3月上旬から中旬頃まである。

もともと十六日桜は、龍穏寺にあったが昭和20年7月26日の松山空襲で焼け、現在、前期二ヶ所の桜は、龍穏寺からの株分けが元であると言われているが、初代の十六日桜の形態を保ったものはなく、実生による変異品種のようである。
「うそのような十六日桜咲きにけり」、「めずらしや梅莟に初桜」、ともに子規の句。

画像は、天徳寺・吉平邸跡にある十六日桜で、最後の桜は、龍穏寺の十六日桜である。


天徳寺境内にある十六日桜と緋寒桜(手前)。
例年は、手前の緋寒桜が2月中旬頃開花して、後方の十六日桜が3月10日頃に開花するが、今年は2月の気温が低かったためか十六日桜と緋寒桜同時期に開花した。・・と副住職は非常に珍しいと語った。


昭和45年5月18日、松山市指定天然記念物の十六日桜。(天徳寺)
種類は、ヤマザクラの早咲の品種で旧正月16頃に開花と言う事でこの名が付いた。


天徳寺の十六日桜と吉平邸跡の桜とアップで撮って比較すると天徳寺の方が薄いピンク色の花びらが多い。




天徳寺にある緋寒桜で今年は開花が遅れたそうだ。


松山市御幸町一丁目にある吉平邸跡の記念石碑。


昭和45年5月18日、松山市指定天然記念物の十六日桜。(吉平邸跡)


天徳寺の十六日桜と比べると花びらの色合いが少し異なる。


桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、旧正月16日に花が咲いたと言う伝説の桜である。


孝子、吉平が桜に祈ったところ、旧正月16日に花が咲いたと言う伝説の桜であるが、開花が遅すぎる。


松山市山越三丁目にある龍穏寺境内にある十六日桜で、松山市指定天然記念物には指定されていない。
3年前に地元の庭師が龍穏寺から委託を受け全国探し廻り見出した十六日桜に近い桜である。(冬桜の一種では?)
開花は、1月10日頃から咲き出し、咲いては散りまた咲くといった状態で、染井吉野の様に一気に咲き散っていく華やかさはない。
私個人的な意見としては、この桜が十六日桜に近いものだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮本武之輔 顕彰銅像&記念石碑見聞

2013年03月08日 | 伊予松山歴史散策
 地元愛媛県松山市では知名度は低いが、新潟県では恩人として愛されている。平成25年1月1日、愛媛新聞が「民衆を愛した土木技師」として大々的に3日間続けて記事が掲載された。
 その記事を、新潟市江南区にある「北方文化博物館」に送った。
 知人の北方文化博物館佐藤統括室長さんは、新潟の人は知らない人は居ませんよ、・・とメールが届いた。

 3月6日北方文化博物館の神田評議員さんが是非宮本武之輔さんの顕彰碑と銅像を見聞したいとの事で来松した。
前もって松山市役所興居島支所長さんにご案内ご説明を依頼していたので6日午後1時45分の船で興居島由良町に渡り、支所長さんの説明を聞き、宮本武之輔さんの生家跡と墓所にもお連れ頂、お墓参りをさせて頂いた。

 午後2時20分の船で松山市高浜港に帰り、次の見聞の地である、梅津寺の秋山好古・眞之の銅像と伊藤博文縁の松を見て、そして「三津の渡し舟」明治時代の汽船乗り場跡、厳島神社にある秋山好古揮毫の石碑「表忠碑」を案内して神田氏の松山での第一日目の見聞行程は終わった。

参考事項:元読売東京巨人軍、投手 西本 聖も興居島の出身(平成13年よりオリックス・バファローズの投手コーチ兼バッテリーコーチを担当)


 松山市由良町にある宮本武之輔の顕彰銅像と記念石碑。
宮本武之輔は・・(明治25年~昭和16年)49歳の若さで亡くなった。
松山市興居島出身の土木技師で、上京し、勉学に励み東京帝国大学工学部を主席で卒業。
 土木技師として内務省に就職。新潟県信濃川大河津分水可動堰修復工事でその才能を発揮、その銅像が顕彰石碑の隣に建立された。銅像建立には、新潟からも多くの寄附が寄せられ、大河津分水を愛する資料館友の会からメッセージが寄せられたとある。・・「民衆のために生きた宮本の功績を新潟と愛媛で何時までも伝えて行きましょう」とある。


記念石碑の前で説明を受ける神田氏と秋山兄弟生誕地女性研究員たち。


見聞に来た記念に写真を一枚。この日は晴天で気温が14,9度あり絶好の見聞日和であった。


宮本武之輔のお墓で、東京にある墓所からの文骨として故郷宮本家の一角に墓が建てられた。


予定の行程も無事終わり、帰りの船に乗船。


 夏目漱石「坊ちゃん」に出てくる「別名ターナー島」で、同小説では「青島」で登場する。島の松ノ木が枯れ、高浜小学校の北岡先生が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育て上げ立派な松になっている。
 24本あり平成17年国登録記念物に指定。
 松は根から有機酸を出し岩に食い込み岩から水分や養分を摂取しているから育つそうです。大学の偉い教授がもうこの島には松は育つまいと言われ市や県はあきらめていたが、北岡先生が「なにくそ魂」の精神を発揮し研究を重ね育て上げた。(北岡先生は理科の先生)
 所在地は、松山市高浜一丁目115番地、堤塘(ていとう)=土手として法務局に登記されている。
 所有者は、平成17年7月8日愛媛県から松山市に登記替えされた。
 成り立ちは、花崗閃緑岩の大小三つの岩が連なって出来ている。高さ18m 面積1200平方m(363坪)、島の周り約140m。地質がもろく、波浪や海流の影響を受け、年々細っている・・その内消滅するのではないかと心配している。


 明治21 にドイツ・ミュンヘン州クラウス社から輸入した第1号機関車で梅津寺公園に静態保存されている。
 坊っちゃん列車とは伊予鉄道で活躍した蒸気機関車のことで夏目漱石の小説「坊っちゃん」で、その登場人物達が多くこの蒸気機関車を利用したことから「坊っちゃん列車」の愛称で人々に親しまれていた。
 伊予鉄道は、日本最古の軽便小鉄道でその主役として活躍したのがドイツ・ミュンヘン州クラウス社製から輸入した蒸気機関車(愛称・坊っちゃん列車)でした。 坊っちゃん列車は明治21年10月28日の運行開始以来67年にわたり、活躍したが、列車の電化に伴い蒸気で走っていた坊っちゃん列車は路線上から姿を消した。


 明治42年伊藤博文公が松山にお越しになった時に寄附を得て、松の種を蒔き育てた松の一つで、この由来を後世に伝えるために石碑を建立した。


由来を後世に伝えるために建立した石碑。


梅津寺見晴山にある秋山好古立像を見聞される、新潟市北方博物館評議員神田氏。好古は遥か遠く奉天の方向を向き立っている。


 好古立像から約300m北に眞之の立像がある。
 秋山好古・眞之の銅像、伊藤博文公由来の説明は高浜地区ボランテイアガイドの川内元子さんが案内してくれた。
 秋山眞之立銅像の台座に智謀如湧と戦艦三笠が銅版で組み込まれその下に「智謀如湧」がやはり銅版仕上げで入れ込んである。
「智謀如湧」の揮毫者は、東郷平八郎である。眞之立銅像は昭和18年先の大戦で金属供出で撤去されたが、戦艦三笠と智謀如湧は当時のままである。


 この渡しは市道高浜2号線の一部として、松山港内港地区の三津と港山の間約80メートルを結ぶ市直営の渡船で、年中無休、無料で年間約5万人の利用者に親しまれています。
【運行時間】午前7時から午後7時 随時運航、年中無休(荒天などにより、運休する場合があります。)
【料金】 無料
【交通機関】伊予鉄港山駅から徒歩2分、伊予鉄三津駅から徒歩15分
三津の渡し舟、(船名の由来について)
「三津の渡し」を別名、三津の人々は「洲崎(すさき)の渡し」と言い、港山の人々は「古深里(こぶかり)の渡し」と言っています。そこで、現在、2隻の船名を「すさき丸」と「こぶかり丸」として運航しています。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」放映以来県外から観光に見えられる方が多く今や人気の渡し舟である。


 明治時代三津浜の海岸は遠浅で大型客船は接岸できず艀で本船に乗船や貨物を運んでいた場所に、現在は画像の記念標柱が立てられている。好古、眞之、子規たちもここから乗船し上京していた。
 現在は遠浅の海岸は埋め立てられ住宅地と変貌している。


 秋山好古揮毫「表忠碑」。
1.碑   文 :  表忠魂
2.所 在 地:  松山市神田町1番7号 厳島神社
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  裏面に世話人8名の記載有り判読困難
5.建立年月日: 記載無し :合祀及び対象者:三津浜地区・264柱
6.碑石大きさ: 高さ 4m 63㎝ 横幅 2m 50㎝ 厚み 53㎝
7、石碑の由来:裏面に日清・日露戦争で戦病死された氏名が記載されている。

 好古は、日清・日露戦争で従軍し亡くなった部下の事を思い陸軍大将になっても極力華美な生活は控え元帥に推薦の事も断わった。
 郷里の私立北予中学の校長を引き受け青少年育成に尽くした。
 この石碑は、平成20年10月3日、NHK四国スペシャル「拝啓秋山校長殿」で紹介された。
 表忠魂とは、従軍し戦病死された方々の英霊を御祀りする時に建立する石碑は慰霊碑・忠魂碑と揮毫するが、生還された兵士の戦役の意味も篭めて建立する時は表忠碑として建立する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊予松山城新型ロープウエイ「ゴンドラ付替え」

2013年03月03日 | 伊予松山歴史散策
昭和41年7月13日開業した伊予松山城登城ロープウエイが老朽化し乗客の安全を保つため新しく入れ替え作業が、1月16日~3月22日まで運休している。
昨日松山城に行って見ると第5代目の新しいゴンドラが取り付けてあった。

ロープ・機器の取替えも順調に進みいろんな試験テスト運航がされていた。
今回の正式な工事名は「松山城ロープウエイ原動装置更新その他工事」で、施工会社は、滋賀県守山市、安全索道株式会社が行っている。

ゴンドラの取替えは、一昨日リフト運航の終了後重機を持ち込み夜間作業を行ったそうだ。
この日松山は春一番が吹き荒れ午後から雨天となった。雨天中の作業は大変だったそうだが、気温が高かったのでよかったと言っていた。(松山は最高気温19、5度4月の気温であった)
ゴンドラは未だ何も描かれてなくその内松山城に相応しい絵柄を装飾するのでは・・楽しみです。


山頂駅舎のゴンドラ2号で、12時34分撮りました。この時間帯ゴンドラは傷防止のカバーが掛かっていた。


傷防止のカバーが掛かったゴンドラ。


第5代目のゴンドラ、14時42分カバーが取り外された先代ゴンドラより定員が3名少なくなったそうだが大きく見える。ゴンドラ1号。・・愛称はどんな名称が命名されるのか?


第5代目ゴンドラ2号。


ワイヤーも新しくなった。・・滑車も真新しく。


山麓駅舎も塗装を塗り替え3月23日(土)営業再開に向け作業真っ最中。


本丸に行ってみると紅梅が8部咲きで見頃であった。


紅梅よりも白梅の開花が早かったが、今年は厳寒のためか花持ちがいい。
白梅も今が見頃、標高132mなので下界の梅花とは咲き方、散りの時期が異なる。


この日は関東・東北から観光に来られた方が多かった。その中福島県から来られた方は原発で心身ともに疲労困憊、道後温泉で疲労を癒しに来ましたと言われた。・・ご苦労様です、くれぐれもお身体お気をつけて下さい。・・頑張って下さいとは言わなかった。もう相当に頑張っておられるのに、これ以上頑張れないと思い。


白梅も未だ蕾が沢山ありました・・暫くは観賞出来ます。地元の方は行って見て下さい。
紅梅と白梅そして後ろに天守今が一番綺麗です。


凄い小学生に会いました。東温市上林小学校の5年生3名、6年生3名の仲良しさん達が午前7時に出発して歩いて松山城本丸まで来ました・・でした。4時間掛けて徒歩で来ましたと・・聞いてビックリ!!帰りは電車で帰ると言っていた。若いとは凄い・・ハィ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋山兄弟生誕地の白梅開花

2013年03月02日 | 伊予松山歴史散策
伊予松山にやっと春の気配を感じるようになった。
昨日は春一番が吹き、気温も午前8時で13,3度、最高気温は19,5度4月の気温であった。
昨日は午前中秋山兄弟生誕地の当番日でそろそろ秋山邸の白梅が開花する時期だからと思い一眼レフ持参で行った。秋山邸の白梅は松山市で一番遅い開花で、それは午後3時過ぎるとビル影になり気温が下がる。そのために開花準備が遅れるのだ。
松山城本丸132mの梅花よりも遅い開花である。

松山城本丸の白梅が先に咲き、少し遅れて紅梅が開花する。下界よりも標高が高いため開花が遅いが、秋山邸の梅花はそれよりも遅い3月にならないと咲かない。
昨日は気温が19度まで上がったので開花が進んだ。
画像は昨日撮った秋山邸の梅の花。

画像は昨日撮った秋山邸の梅の花。












秋山兄弟生誕地の白梅は、一部ピンクの花を着ける、兄弟の生家だから二種類の花を咲かせるのか?
植栽は二色の花が咲く梅を意図的に植えたのではなく偶然である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする