芭蕉の教え 「句は俳意確かに詠むべし」
句郎 芭蕉は弟子の去来に「一句は手強く、俳意たしかに作すべし」と述べている。この「俳意」とは何を言ってるのかな。
華女 「俳」には滑稽という意味があるんじゃないの。だから面白さが句にはなければダメだと言っているのじゃないの。
句郎 「俳意」とは面白さね。そうか、俳句は笑い。なるほどね。
華女 更に芭蕉は何と言っているの。
句郎 芭蕉はもう一人の弟子、凡兆に「俳諧もさすがに和歌の一体也。一句にしほりの有様に作すべし」と、教えている。
華女 面白さ、笑いだけじゃだめだと、言っているのね。俳諧も和歌と一体だから、和歌のような高貴が必要だということかしらね。
句郎 「しほりの有様に作すべし」とは、和歌性のことを言っているのかもしれないな。
華女 和歌が詠んだ美意識とは「もののあはれ」と言われているものじゃないの。
句郎 そう言えば、復本一郎氏が『江戸俳句夜話』の中で述べている。「しをり」は、「あはれ」が句に形象化されることを指す芭蕉俳句の美的用語と説明している。
華女 そうなの。私が今、述べたようなことを復本一郎さんもおっしゃっているのね。
句郎 芭蕉の俳句とは、日本伝統の美意識「もののあわれ」を面白く、まじめに表現したものなのかもしれないな。
華女 そうなのかもしれないわよ。だから芭蕉は現代俳句の祖と言われているんじゃないの。
句郎 「蛤の生けるかひあれ年の暮」という芭蕉四九歳の年の暮れに詠まれた句があるんだ。この句を読むと確かに「面白み」に包まれて「もののあはれ」が表現されているように感じるな。
華女 そうよね。蛤は蓋を閉めたまま、生涯を終えられればいいけれど、お正月になると煮られて蓋を開けられ、食べられてしまうのよね。
句郎 まさに「もののあはれ」かな。生き甲斐のある人生など本当にあるのだろうか。苦しみばかりでそんなものはありゃしない。そう思いながらも生き甲斐のある人生であってほしいと願っているんじゃないのかな。
華女 「蛤の生けるかひあれ」という語句が笑いよね。
句郎 蛤を擬人化してるのが笑いなんだろうね。下五に「年の暮」がくると「蛤」の「あはれ」が表現されてくる。「笑い」の裏には深い悲しみがある。
女 なんかチェーホフの戯曲を思い出したわ。
句郎 喜劇の裏には悲劇があるという話かな。
華女 そうよ。チェーホフの戯曲はすべて喜劇だと聞いたわ。でもこの喜劇は残酷な悲劇なのよ。
句郎 芭蕉の句の中にチェーホフが表現した世界があるなんて、凄いことだね。
華女 もしかしたら、芭蕉の俳句には近代性があるのかしら。
句郎 チェーホフのような壮大な人間ドラマが芭蕉の俳句にあるとは思わないけれども、現代社会に生きる人間の喜びと悲しみとが表現されている句があるようにも感ずるな。
華女 「もののあはれ」とは無常観のことでしょ。
句郎 この日本の美意識を笑いで表現したのが、芭蕉の俳句だったのかも。