醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1131号   白井一道

2019-07-21 13:31:18 | 随筆・小説



    清滝の水汲ませてやところてん   芭蕉  元禄7年



句郎 「清滝の水汲ませてやところてん」元禄7年。『泊船集』。異型の句「清滝の水汲よせてところてん」が伝えられている。京都、嵯峨野の野明(やめい)亭での作。
華女 京都嵯峨野、芭蕉の門人というと落柿舎の亭主、去来だけかと思っていたら野明と言う人もいたのね。
句郎 博多黒田家に仕えた武士、その後脱藩し浪人となったようだ。去来との親交が深く嵯峨野に住んでいた。野明の俳号は芭蕉が与えたようだ。
華女 野明亭に招かれた芭蕉の挨拶吟が「清滝の水」の句なのね。
句郎 「清滝の水汲ませてやところてん」と「清滝の水汲よせてところてん」の句、どちらの句が発案の句だ華女さんは思う?
華女 「水汲よせて」の句の方が凡人の句のように感じるわ。
句郎 「水汲ませてやところてん」の方の句が清滝の水を汲ませていただいたという方が自然への畏敬の念のようなものが表現されているように感じるよね。
華女 「清滝の水汲よせて」としたら自然への感謝のような気持ちが表現されなくなってしまうわね。
句郎 「清滝の水汲ませてや」と表現することによって手をかけてところてんを作り馳走してくれたことへの感謝の気持ちが出てくるように感じるね。
華女 ところてん、元禄時代には夏の庶民の食べ物として普及していたのね。
句郎 ところてんはすでに奈良時代、宮廷内では食べられていたようだよ。
華女 中国から伝えられた食べ物の一つなのかしら。
句郎 そうなんじゃないのかな。時代が下がり、江戸時代になると庶民の夏の涼を楽しむ食べ物として普及したようだ。
華女 もうすでに江戸時代にあっては、高級な食べ物ではなく、町人や農民の口に入る食べ物になっていたということなのね。
句郎 京都、嵯峨野の夏、清滝川の畔に建つ野明亭で出されたところてんをいただき、俳諧を芭蕉は発見した。ところてんは俳諧が詠むものだと感じたのではないかと思う。
華女 「春雨の柳は連歌なり、 田螺 ( たにし ) とる 烏 ( からす ) は全く俳諧なり」ね。
句郎 そうそう、『三冊子』にある言葉かな。芭蕉はところてんに田螺を発見したということだと思う。
華女 「清滝の水汲ませてよところてん」。「ところてん」が俳諧になっているということね。
句郎 そうなんだと思う。『三冊子』には「春雨の柳」の言葉の次にこのように書いている。「五月雨に鳰の浮巣を見に行くという句は、詞に俳諧なし。浮巣を見にゆかんと云うところ俳也」とね。
華女 四阿(あずまや)でところてんを賞味する。ここに俳諧があるということね。
句郎 江戸庶民の日常生活そのものに俳諧を芭蕉は発見した。
華女 ところてんは現在、夏の季語になっているわね。ところてんを季語として発見したのは芭蕉かもしれないわね。
句郎 芭蕉以前にもところてんを詠んだ俳諧師はいたかもしれないがところてんの名句を詠んだのは芭蕉が初めてなのかもしれない。
華女 「清滝の水汲ませてよところてん」。この句が普及することによって季節の言葉、「ところてん」が俳人たちに受け入れられ、季語として普及したということね。
句郎 「ところてん」を詠んだ句というとまずこの句が出てくる。「ところてん」という言葉が磨かれている。こうして連歌と肩を並べることができる。こうして「ところてん」という言葉が季語として多くの人に受け入れられていった。
華女 芭蕉の句が幅広く多くの人に受け入れられていくことによって今まで誰も「ところてん」が詩の言葉として受け入れていなかった状況を変えて詩の言葉としての「ところてん」が受け入れられていくようになったということなのね。
句郎 そうなんじゃないの。