芭蕉は俳諧に遊ぶ人生を送った
華女 「まゆはきを俤にして紅粉(べに)の花」と言う句を芭蕉は『奥の細道』、尾花沢で詠んでいるわね。色っぽい句よね。当時の一般女性が眉掃(まゆはき)のようなお化粧道具を使っていたのかしら。
句郎 確かに一般農家の女性が眉掃のような化粧道具を使っていたとは思えないな。
華女 白粉を顔に叩き、眉にかかった白粉を掃き落す道具が眉掃よ。普段に白粉を顔に叩いていた女性といったら、廓にいた女性たちだったのじゃないかしらね。
句郎 芭蕉は紅花の咲く畑を見て、紅花の形が眉掃に似ているなと思ったということなのだろうね。
華女 確かに似ているのかもしれないわ。芭蕉は眉掃に思い出があったのよ。
句郎 眉掃を普段に使用している女性との思い出かな。
華女 そうよ。芭蕉も普通も男だったのよ。だからもちろん遊女と遊んだ経験が芭蕉にもあったと思うわ。
句郎 芭蕉の生きた17世紀後半の時代、遊女と遊べる男というのは、それなりに遊ぶお金のあった者だった。芭蕉は俳諧という芸能に生きた俳諧師だったからあぶく銭を持った時期があったのかもしれない。
華女 俳諧の連歌とは、もともと生活に余裕のあった者たちのお遊びだったのでしょ。
句郎 そうなんだろうね。連歌師宗祇が残した俳諧の恋句に次のようなものがある。「藤はさがりて夕暮れの空」という七七の宗長の句に、宗祇は「夜うさりは誰にかかりてなぐさまん」と付けている。夜になったらどの女のところに行って気晴らしをしたものかと、詠んでいる。この句を読んだ一座の者は皆大笑いをした。
華女 猥談をして楽しんだということね。昔も今も猥談があったということね。そのような猥談の一種が俳諧の連歌だったということなのね。
句郎 一座で詠み捨てて遊んだものが俳諧だった。男の遊びは昔も今も変わることなく、女遊びだった。この女遊びを詠んだ句が恋句だった。女遊びを詠んだ恋句の伝統の上に芭蕉の句もある。その一つが「まゆはきを俤にして紅粉(べに)の花」なのかもしれない。
華女 『奥の細道』の旅も芭蕉にとっては遊びであったということね。
句郎 遊びは遊びであっても命を懸けた真剣勝負の遊びであった。
華女 真剣に取り組んだ遊びであったから単なる遊びが文学になったということなのかしらね。
句郎 眉毛に付いた白粉を眉掃で払い落としている遊女と遊んだ夜を芭蕉は思い出していた。尾花沢は最上川の中流域にある紅花の産地だった。この紅花は最上川の水運で酒田に運ばれ、酒田から日本海に出て、北前船で京都まで運ばれて、紅花は顔料になった。
華女 宗祇の句に比べて芭蕉の句は遥かに上品よね。でも芭蕉の句にも脈々と俳諧の連歌の恋句の伝統が息づいているように思うわ。
句郎 『奥の細道』に載せてある俳諧の発句にも脈々と遊びの伝統が息づいている。『奥の細道』最後の句「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」。この句の「ふたみに」という言葉は「二見が浦」の「二見」と「二つ別れ」とが掛けられているよね。伊勢はまた蛤の産地として名が知られていた。このような言葉遊びの句になっている。遊びの文芸、俳諧の連歌が『奥の細道』には息づいているように思う。
華女 『奥の細道』出で立ちの句「行春や鳥啼魚の目は泪」の句は「行く春」に向かって出発し、「行秋ぞ」で終わっているのよね。
句郎 『奥の細道』は紀行文の傑作として知られている。この紀行文は完全な作り物であるということなのだと思う。
華女 作りが過ぎると遊びになるのよね。でもフィクションとしての文芸作品『奥の細道』は立派に文学作品になっているのよね。だから今でも学校で授業の一環として子供たちに教えているのよね。
句郎 単なる遊びに過ぎなかったものであるが故に江戸の裕福な町人や農民の遊びになり、もともと下品な猥談と何ら変わるものでもなかった俳諧の連歌が文学になり、身分の低い町人や農民の文化としての俳諧が文学になった。町人や農民が獲得した文学が俳諧だった。