
第10代将軍徳川家治が田沼意次に言う。
「意次。そなたはさすが、父上がまたうどと仰せになられただけのことはある。
全き人、遇直なまでに正直な信(マコト)の者という意味だ。 p54
本書のタイトルはここに由来する。
学生時代に日本史を学び始めた頃、田沼時代は商業資本重視であり、賄賂政治が横行し、その筆頭が田沼意次だというイメージを当時の風聞から抱いた。この時代の史実を深く学んだわけではないのに、そういう刷り込まれた記憶が残っている。冒頭の記述、「またうど」は、まさに真逆である。
本作の面白さは、まさに180度逆転した田沼意次像が描き出されるところにある。
将軍家治の父、第9代将軍家重のもとで、小姓として仕えることから始まった田沼意次の出世人生、政治で采配を振るった人生が描かれる。将軍家治の側室が出産をまじかにしている宝暦12年(1762)10月から、意次の臨終時点までを描く伝記風小説である。
本作のテーマは鮮明だ。田沼意次は「またうど」であり、将軍家治の治下で、老中として政治を担った。田沼意次は何をなし、何を成し遂げようとしたのか。その姿を描き出す。この一点にあると思う。
本書は、2024年9月に、書き下ろしで単行本が刊行された。
田沼意次は600石の家格の家に生まれ、9代将軍家重の小姓として仕えるところから始まり、10代将軍家治のもとで老中になった。
意次の信条の一つは、武家の家格ではなく、実力主義で能力のある人材を登用するという方針。本作の冒頭は、宝暦12年(1762)10月25日、将軍家治に待望の男子が生まれるという直前の場面から始まる。城内で待機中の意次がたまたま天守跡に現れ、御天守番を務める松本十郎兵衛、33歳と会話をする。松本が倹約に関連する細やかな工夫を述べたことが契機となり、意次は彼の才覚を見出し勘定方に起用する。そんなエピソードが、意次のスタンスを象徴している。十郎兵衛は、意次が打ち出す政策路線の実務担当者になって行く。貨幣の改鋳、南鐐二朱銀の発行。商人に株仲間を作らせるとともに運上冥加金を課税。印旛沼・手賀沼の干拓と新田開発。蝦夷の俵物と蝦夷地開発のための見分調査などの推進の中核になっていく。後に勘定奉行となる。さらに勘定方に有為な人材が起用される状況も織り込まれていく。
意次がなぜ、これらの政策を実施して行ったのか。この時代を読み解く鍵となり、政治家としての意次を知る上での読ませどころといえる。
家重・家治という父子二代の将軍に仕えた意次という人物の姿、家重と意次との信頼関係、家治と意次との信頼関係がこのストーリーの柱になっている。そして、「またうど」という四字が意次を評するに最適な言葉であることを明らかにしていくところに、本作の真骨頂があると言える。
意次の臨終間際に、意次の妻綾音に著者はこう語らせている。 p294
「殿が思い残されるのはあの薔薇と、またうどの文字だけでございますね。ほら、ちゃんとここにございますよ。
案じられるには及びませぬ。あとでわたくしが必ず殿の懐に入れて差し上げますから」
もう一つの観点として、政権交代の局面がある。このプロセスの読み解きが田沼意次を知る重要な切り口となる。田沼意次が政治の表に立ち、様々な改革を手掛け、田沼時代と称されるほどになった。それが一転して失脚し、政権が第11代将軍家斉に切り替わる。松平定信が老中職に就き、後に、田沼意次とは真逆の改革を始めていく。この政権交代の舞台裏が描かれ、読み解かれていく。なぜ、意次が「またうど」とは真逆の賄賂政治の悪者として表象されるに至るのか、一説として理解できる。なるほどと思う読み解きである。
ストーリーの最終ステージで記される次の下りが私には特におもしろかった。
天明7年(1787)10月時点、意次が70歳手前の時点である。
< >の箇所は私の補足説明。
<意次の甥・意致が来訪し、意次のもとに奉書(申渡状)を差し出す。その文面>
意次儀、御先々代お取り立ての儀につき、御先代にもご宥恕の御旨これあり候につき、その方へ家督として一万石下しおかれ、遠州相良城召し上げられ候-------- p281
<この奉書の内容に対して意次が反応して発した言葉 >
それは真か。いやはや、白河侯はようやってくだされた。わざわざ私が家重公、家治公に信を賜っておったと知らしめてくださるとは思いもかけなかったぞ。
有難いことじゃ。これで田沼が蟄居を命じられたと書付が残るかぎり、家重公、家治公の信が篤かったことも後の世に伝わるではないか。 p282
ここに表白された意次の思いを深く理解するには、本作を開いて読んでいただくことが必要だろうと思う。そこには文書の文意をどこまで読み込めるかということも関係してきて興味深い。
この後、田沼家は陸奥国信夫郡に移封となる。その前に、意次は家臣の整理をする。ここにも意次の真骨頂が表出されている。
上記の文書と意次が行った家臣の整理の経緯は史実・史料をベースにしていることだろう。フィクションではなく、史資料ベースだと思いたい。
田沼意次という人物を、リセットして考え直すためにも・・・・・・・・。
ご一読ありがとうございます。
補遺
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その点、ご寛恕ください。)
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『まいまいつぶろ』 幻冬舎
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本作の面白さは、まさに180度逆転した田沼意次像が描き出されるところにある。
将軍家治の父、第9代将軍家重のもとで、小姓として仕えることから始まった田沼意次の出世人生、政治で采配を振るった人生が描かれる。将軍家治の側室が出産をまじかにしている宝暦12年(1762)10月から、意次の臨終時点までを描く伝記風小説である。
本作のテーマは鮮明だ。田沼意次は「またうど」であり、将軍家治の治下で、老中として政治を担った。田沼意次は何をなし、何を成し遂げようとしたのか。その姿を描き出す。この一点にあると思う。
本書は、2024年9月に、書き下ろしで単行本が刊行された。
田沼意次は600石の家格の家に生まれ、9代将軍家重の小姓として仕えるところから始まり、10代将軍家治のもとで老中になった。
意次の信条の一つは、武家の家格ではなく、実力主義で能力のある人材を登用するという方針。本作の冒頭は、宝暦12年(1762)10月25日、将軍家治に待望の男子が生まれるという直前の場面から始まる。城内で待機中の意次がたまたま天守跡に現れ、御天守番を務める松本十郎兵衛、33歳と会話をする。松本が倹約に関連する細やかな工夫を述べたことが契機となり、意次は彼の才覚を見出し勘定方に起用する。そんなエピソードが、意次のスタンスを象徴している。十郎兵衛は、意次が打ち出す政策路線の実務担当者になって行く。貨幣の改鋳、南鐐二朱銀の発行。商人に株仲間を作らせるとともに運上冥加金を課税。印旛沼・手賀沼の干拓と新田開発。蝦夷の俵物と蝦夷地開発のための見分調査などの推進の中核になっていく。後に勘定奉行となる。さらに勘定方に有為な人材が起用される状況も織り込まれていく。
意次がなぜ、これらの政策を実施して行ったのか。この時代を読み解く鍵となり、政治家としての意次を知る上での読ませどころといえる。
家重・家治という父子二代の将軍に仕えた意次という人物の姿、家重と意次との信頼関係、家治と意次との信頼関係がこのストーリーの柱になっている。そして、「またうど」という四字が意次を評するに最適な言葉であることを明らかにしていくところに、本作の真骨頂があると言える。
意次の臨終間際に、意次の妻綾音に著者はこう語らせている。 p294
「殿が思い残されるのはあの薔薇と、またうどの文字だけでございますね。ほら、ちゃんとここにございますよ。
案じられるには及びませぬ。あとでわたくしが必ず殿の懐に入れて差し上げますから」
もう一つの観点として、政権交代の局面がある。このプロセスの読み解きが田沼意次を知る重要な切り口となる。田沼意次が政治の表に立ち、様々な改革を手掛け、田沼時代と称されるほどになった。それが一転して失脚し、政権が第11代将軍家斉に切り替わる。松平定信が老中職に就き、後に、田沼意次とは真逆の改革を始めていく。この政権交代の舞台裏が描かれ、読み解かれていく。なぜ、意次が「またうど」とは真逆の賄賂政治の悪者として表象されるに至るのか、一説として理解できる。なるほどと思う読み解きである。
ストーリーの最終ステージで記される次の下りが私には特におもしろかった。
天明7年(1787)10月時点、意次が70歳手前の時点である。
< >の箇所は私の補足説明。
<意次の甥・意致が来訪し、意次のもとに奉書(申渡状)を差し出す。その文面>
意次儀、御先々代お取り立ての儀につき、御先代にもご宥恕の御旨これあり候につき、その方へ家督として一万石下しおかれ、遠州相良城召し上げられ候-------- p281
<この奉書の内容に対して意次が反応して発した言葉 >
それは真か。いやはや、白河侯はようやってくだされた。わざわざ私が家重公、家治公に信を賜っておったと知らしめてくださるとは思いもかけなかったぞ。
有難いことじゃ。これで田沼が蟄居を命じられたと書付が残るかぎり、家重公、家治公の信が篤かったことも後の世に伝わるではないか。 p282
ここに表白された意次の思いを深く理解するには、本作を開いて読んでいただくことが必要だろうと思う。そこには文書の文意をどこまで読み込めるかということも関係してきて興味深い。
この後、田沼家は陸奥国信夫郡に移封となる。その前に、意次は家臣の整理をする。ここにも意次の真骨頂が表出されている。
上記の文書と意次が行った家臣の整理の経緯は史実・史料をベースにしていることだろう。フィクションではなく、史資料ベースだと思いたい。
田沼意次という人物を、リセットして考え直すためにも・・・・・・・・。
ご一読ありがとうございます。
補遺
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『まいまいつぶろ』 幻冬舎
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