以前、対話ブログで私は「非活」より「退会」にこだわった。
そのたびに「くれぐれも状況が許す方は」と※付で添え書きをしているにも関わらず、それにはあっさりシャッターされて、
「それじゃあ波風が立つだろう!!」とかなり険悪にネチネチネチネチ迫られたことがあった。
だからくれぐれも状況が許す方はって書いてるじゃんo(T^T)o
難しいなあと思った。
この辺りからこういうのが面倒くさくて、アンチにも細分化を強く考えるようになった。
私がなぜ退会にこだわったか。(※状況が許す限り、ですよ)
退会すると「統監」から名前を消してもらえるからである。
新聞は、活動家or非活に関わらず、統監の1.5倍の鉄壁のノルマがあると聞いたからである。
役職者はこれに苦しんで、こっそり自腹を切ってそれを愚痴りながら、「マイ聖教」なんて偽善的な言い訳をしていたからである。
家庭訪問さえ無理。
「してはいけない」という申し送りがなされる。
本人には物理的に会えないのに「お飾り」のように名簿に名前がある。
移転や担当者が変わるたびに実質、悩みの種やお荷物になるそれら。
貴重な時間をさいて集まった人たちが、グチグチ愚痴るはするけど、その根本的な解決の行動にはなぜか誰も腰を上げようとしない。
そして「腫物にさわるようにそこには触れず、その人の分のノルマにだけかっちり触る」ミステリー。
私はそんな形だけや不合理が何より嫌いで、不思議でならなかった。
一度はっきり当人を捕まえて脱会の意思を確認するか、
それができないなら、そのふざけた意味のない数字に縛られるのやめればいいーじゃん?
なぜそれをしないの?
とはっきり言った。
でもそんな声は変な冷笑の下、曖昧のうちに消されるのである。
思考の二極は危険と思う。
それは強く思う。
白と黒の間にはグレーがある。
でも意思表示ははっきりした方がいいと思う。
なぜ幽霊会員を分母にカウントして新聞の数を合わせる必要があったのか?
なぜそれを訊いたら曖昧にごまかされたのか?
これが最後までさっぱりわからないことだった。
そのたびに「くれぐれも状況が許す方は」と※付で添え書きをしているにも関わらず、それにはあっさりシャッターされて、
「それじゃあ波風が立つだろう!!」とかなり険悪にネチネチネチネチ迫られたことがあった。
だからくれぐれも状況が許す方はって書いてるじゃんo(T^T)o
難しいなあと思った。
この辺りからこういうのが面倒くさくて、アンチにも細分化を強く考えるようになった。
私がなぜ退会にこだわったか。(※状況が許す限り、ですよ)
退会すると「統監」から名前を消してもらえるからである。
新聞は、活動家or非活に関わらず、統監の1.5倍の鉄壁のノルマがあると聞いたからである。
役職者はこれに苦しんで、こっそり自腹を切ってそれを愚痴りながら、「マイ聖教」なんて偽善的な言い訳をしていたからである。
家庭訪問さえ無理。
「してはいけない」という申し送りがなされる。
本人には物理的に会えないのに「お飾り」のように名簿に名前がある。
移転や担当者が変わるたびに実質、悩みの種やお荷物になるそれら。
貴重な時間をさいて集まった人たちが、グチグチ愚痴るはするけど、その根本的な解決の行動にはなぜか誰も腰を上げようとしない。
そして「腫物にさわるようにそこには触れず、その人の分のノルマにだけかっちり触る」ミステリー。
私はそんな形だけや不合理が何より嫌いで、不思議でならなかった。
一度はっきり当人を捕まえて脱会の意思を確認するか、
それができないなら、そのふざけた意味のない数字に縛られるのやめればいいーじゃん?
なぜそれをしないの?
とはっきり言った。
でもそんな声は変な冷笑の下、曖昧のうちに消されるのである。
思考の二極は危険と思う。
それは強く思う。
白と黒の間にはグレーがある。
でも意思表示ははっきりした方がいいと思う。
なぜ幽霊会員を分母にカウントして新聞の数を合わせる必要があったのか?
なぜそれを訊いたら曖昧にごまかされたのか?
これが最後までさっぱりわからないことだった。