珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

なぜというなら3

2019-06-04 | S教団関係
人が信じて大切にしているものを
「矛盾しているから」「おかしいから」「それを少しでも自分の頭で考えてほしいから」
という正義の旗の下、破折(アンタはおかしいから悔い改めなさいとズケズケと侮辱すること)する教えがある。
例えば梵我一如さんのブログなどそうである。

でも信者にとってはそれは
「おかしくも滑稽でもない」し、他宗と違って「自分の頭で考えた結果」と思っている。
大真面目にそう思っている。

だから止めても制しても無駄である。
何より、そういう独善が、信者にとっては救いになっている。
生きがいであり、明日への活力であり、自分の支えになっている。(これ大事)
彼にとっては、それが隙あらば世界に叫びたい真実なのである。
やめなさいというのは手足をもがれるようなもの。

嘘じゃない。
書き込みを見ればよーーーく伝わってくるよv('▽^*)♪

だからそんな独善であれ、信教の自由があるんだから信じるままとことんやればいいと思う。
(皆が賛同するかは別だけど(笑))

そして自分がそうであるように、他宗の人もそれは同じなのである。
自分が明日からその書き込みを取り上げられたらどうか、本尊を取り上げたら考えてみればいいと思う。
そんなむごいことはやっていけないのでは?


私は、そんなこんな人たちを見ていると
「ああ教えなんて、滑稽とか矛盾とかデタラメとかどうでもいいんだな」と思う。

 だっていくら頭のよさげな人たちが理屈を並べたところで、現に、どの宗派にも
「これがなきゃ生きていけません」「あー幸せ」って人がいるではないですか。
この
動かしがたい事実。

これを、インテリ宗教評論家はなぜ無視するのかわからない。
 信じることができれば「何であれ」救いになってるではないですか。

※これはディスりではありません。
私は危険なことをしない限り、信教の自由は認められますので( ̄▽ ̄)y-~~
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程度はあれ、どちらか?

2019-06-04 | 思うこと
私の父親は稀に見るとんでもない道楽者だったけど、一つよかったのは、私に何一つ強制しなかったことである。
怒られたこともない。
ガミガミ説教なんて想像もできない。
どんなにおかしいことをしても、笑って見ている感じだった。
「自分でこうだと思う以外人は変わらない。わかるまでとことんやったらいい」という感じだった。

自分はやりたい放題でどうしようもないんだけど、その分人にも言わない。
見事なほど何も言わない。
そして自分が言わない分、人からごちゃごちゃガミガミ言われることをものすごく嫌った。

責任感があって、人に迷惑をかけるのが嫌いで、自分のことなど後回して、まじめで一生懸命な母親は、父親とは真逆なタイプだった。(極端すぎる二人だった)
その代わり人にも、ものすごくガミガミクドクド説教した。
心配性で神経質でやってもないことまで、先を読んで口出しせずにはいられない性分。
「なんであなたはこうできないの?」といつも自分が正しいみたいにやかましく言った。

人に言う分、言われるのも我慢できるみたいだった。
理不尽なことも、レールに乗せられることも、型にはめられるのも耐えられるようだった。
奔放な私には理解できないところがあった。

程度の差はあれ、人はこのどちらかかな?と思う。

私は自由気ままな方。
人に言われたり型にはめられるのが苦手な方。
その分、人を何とかしようとかも向いていないと思う。

「よかれと思って」と「放っとけば?」
 あなたはどちらかと言えば、どちらが得意だろうか?


今年も梅仕事終わり
ブランデーを2種類で試しました
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