珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

放っておく方がいい

2019-06-25 | 思うこと
人の行動は説明すれば、たいていわかって貰えて、改めてもらえるそうである。
(「ここでこの言葉はNGワードなので、やめてくださいね」など)

でもロボットのように、その場の行動はやめさせることはできても、心はやめられない。
人の感性や価値観、品位、志というものは理屈を説明して知識を入れたところで、納得させられるものではないそうである。
それは感じとるしかないものだから。

なるほどなあと思った。

自分の感性、価値観、品位をもって「それをする自分に耐えられない」ことは、人はしない。

やめてほしい、気づいてほしい、見苦しい、バカじゃない?
とまわりがいくら言っても笑っても、本人は平気の平左。
全く耳をかさない人は、
本人が「それをする自分に耐えられない」と感じるまで無理、無駄である。
放とくしかない。

ワンスモア。
本人が「感じる日まで」放っておく方がいい。
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どんな思想より

2019-06-25 | 思うこと
私は
本家の長女として婿をとる立場にあって、
若くして未亡人になり、女で一つで苦労して育ててくれた母親を助けることが人として最優先と思って、
親の言いなりになって「したくもない」を結婚した、
故に苦労した。

という母親の言い分を、子守歌代わりのように聞いて育った。

その果てしない恨みつらみと、ふりそそぐような愚痴は、はっきり言ってSに入れられた二世の比などではない。

それを死ぬまで聞かされた祖母は後悔と懺悔から、父親以上に働いて家まで建てたけど、二人の愛憎劇は延々続いた。
「私の人生は、親と家の都合にふりまわされて犠牲になった」という母。
「そこまで言う?私がいつ、あなたの首に縄でもつけたというの?」という祖母。

それを見て
つくづく、つくづく、
私は自分の人生は自分で決めて、自分で責任をとって、その代わり人のせいには絶対すまいと、殊更決意した覚えもないけど、無意識のうちに意識が芽生えたのかもしれない。

そこまでして継いだ家も男が誰も結婚せず、あと何年かしたら断家になる。
こういう時は、そこまでした「あれは何だっだの?」
と感傷的になればいいのだろうか?

こんな背景のせいなのか、私は「今までの人生を否定」とか「何のために…」とか、過去にさいなまれたことが殆どない。

まあそんなこともあるよ。
こうあらねばならないという既成観念もいらない。
何があっても、愚痴らず楽しもう。

根本にあるこれが、どんな思想や教えをもってきても、私には凌駕している気がする。
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