珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

信じること6

2019-06-11 | S教団関係
昔、私は対話ブログで何度も書いた。
「正しいから信じるのではなく、信じるから正しいと思う」
 
S界隈の信者は「唯一正しい」が好きである。
自分は唯一正しいものを信じていると思っている。

でも実際は唯一正しいと思うものを信じている

これは意味が明確に違う。
でも
「正しいと思う」
そう強く信じれば、その人の中ではそれは「正しいと思う」ではなくて、「正しい」になる。

「信じる、信じないの問題ではなく、正しいものが存在するから信じるしかないのだ」となる。

嘘だと思うなら、信者をごらんなさい。
皆、口をそろえて「これが正しいから信じている」と言っている。
本当にそのような「唯一の正しい教え」が存在すると思っている。
コーヒー豆がラーメンスープになるというような間違った教えではダメだ、力がないと思っている。
それがわからないのは勉強が足りないからだと、本気で言っている。

信じればこうなる。

宗教の根幹は教義だという人がいるけど、宗教の根幹は
信。
正しいと信じめばどんな教義であれ、信者には「これこそが正しい」になる。
そう思い込んでしまえば、何を見ても自分に都合よく、教えに沿ったようにしか見えなくなる。
一切が、教えの力が作用しているようにしか感じなくなる。
そうなると信仰への確信と感謝しかなくなる。
(それは良いことだと思う。だから私はどの教義も否定しないし、論争しない)

どんな教えでも信じればそうなるんだけど、信者にしてみれば
「自分の信じる教えこそが正しい」

信じるってそういうこと。
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二極ではない4

2019-06-11 | S教団関係
かつて、S会員から、不都合なアンチ記事を読まれたくないばかりに「ネットはデマばかり」という意見を聞いた。
そうなの?と思ってネットを見たら
「聞きかじった噂ではなくて、実体験を書いている。それをデマという方こそデマだ」という反論記事があった。
なるほどと思った。

実際はデマもあるし、本当のこともあるが正解だった。
実体験だから真実といっても、匿名の投稿である限り絶対に事実とはいえない。
中には作り話もあったし、大嘘もあった。

それからデマとも本当ともどちらとも言えるというのがあった。
どういうことかというと、同じものを見聞きしても、アンチかシンパかで話が真逆になったりするからである。

例えば「寄付をした」という事実に対して
「こんなに多額の寄付をできる境涯になりました。真心からの寄付です」ともなれば
「高額をマインドコントロールされて騙し取られました」ともなる。
同じスピーチを聞いても
「ほら、完全に頭がおかしい」ともなれば
「お茶目な人ね」ともなる。
「これは違うと思う」という意見が
「噛みついてマウントをとっていい気になっている」になったりする。
病気になっても
「罰が出た」「宿業ね」「軽く済んだ」「生きていればいろいろある」

人によっては本当のことだけど、人によってはデタラメになる。
こんなふうに白と黒の間には、一言ではいえないややこしい部分があるよね。

白か黒か。
もっというと「断固として白にしたいもの」と「絶対に黒じゃないきゃ気がすまないもの」のどちらか。

こんな白黒同士で、答えが出るはずがない。
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