かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

ブログのおかげで昨年の今日は母がまだ生きていたことがわかる

2018-11-01 19:11:19 | ブログ記事
昨年の今日11月1日に帰省して、

母と高知市内の城西館というホテルに泊まったことがわかる。

城西館に到着

この記事を見ると、翌々月に亡くなるとは思っていない。

まあ92歳という年齢を考えれば、いつ亡くなっても不思議はなかったが、

しかし、

生きているときは、ずっと母が死ぬことがないように錯覚していた。

が、亡くなった。

この城西館に泊まった翌々月の今年1月11日に。

この城西館は高知で一番高級なホテルなので、皇族の方もお泊りになる。

この記事には、私たちが泊まった直前に皇太子ご夫妻が泊まられたことを書いてある。

たしか今月(今日かも)は、天皇皇后両陛下がお泊りになられる。

そして、城西館の窓からお二人がお手振りをなさることでしょう。

そのご様子は、また全国ニュースにも出ると思います。

こういう高級ホテルを予約して泊まったことが、せめて母への親孝行になったでしょうか。

が、母は食事中ずっと仲居さんが傍にいてくれるのは見張られているように感じたようで、
リラックスできなかったみたいでした。

私たちのような庶民には、安いホテルのほうが寛げていいかもしれません。

それにしても、こうしてGOOブログが毎日昨年の今日の記事を送ってきてくれるから、
忘れていた出来事も思い出すことができる。

本当にありがたい。

と今日書いておけば、また来年、現在書いている記事をお知らせしてもらえて、
また、昨年のこの母と泊まったことを思い出すことができる

母とのお泊りは、このあと12月にもして、

最後が今年の1月9日、10日であった。

そして、11日朝に亡くなっている母を発見したのだった。

もっと優しくしてあげればよかったと、今は後悔の念ばかりである。


*

★亡くなるとわかりてをれば鬼娘われももつと優しくせしに

★照れくさく思ひしことなど思ひだす今さら老母に優しくするは

★孝行をしたきときには親はなしことわざ通りのことを思へり

★母の死の悲しみ一人で耐えしこと先に死にたる兄に言ひたし

★先に死ぬことが幸(さきは)ひこのごろはそんな思ひに浸る日もある

★死ぬまでは死の悲しみを思はずに老い母を怒ること多かりき

★直後より今ごろ押し寄す悲しみと思ふ老いたる母を亡くして


身体は借り物

2018-11-01 12:46:10 | ブログ記事
ということを天理教を信仰していた叔母はよく言っていた。

その伝でいえば、私の難聴も近視も借り物ということになる。

が、私は自分が難聴であることで苦しみ、年とともに容色が衰えていくことを悲しんでいる。

もともとキレイだった人は、この悲しみが深いだろう。

またもともとはよく聞こえていた人が年とともに聞こえが悪くなるのも苦しみが深いだろう。

が、それは神様から借りていたものだったと考えれば、悲しむことはない。

頭脳もそうである。

頭のいい人は、とかく人を馬鹿にしやすい。

が、頭の良しあしというのは、必ずしも学業だけで判断できるものではない。

卑近な例でいえば、

たとえば、私は大阪のおばちゃんたちの受け答えのうまさに感心することが多いが、

あれも一種の頭のよさであると思う。

私など、とても真似ができない。

そういう意味では、芸能人の皆さんは、みなそれぞれ頭がいいと思う。

学業はできなかったという人でも、芸能にかけては天才的な人もいるし・・・。

若いころは、こういう頭のよさがあまりわからなかった。

が、年を取るにしたがって、頭のよさも千差万別ということを思うようになった。

天理教の唱える「身体は借り物」という話からはずれてしまったが、
人は、一人として出来損ないはいないということも思う。

それぞれ神様の思惑があって作られた身体である。

私の難聴も、近視も・・・。

また、その人の見た目は、
神様の造作によるものが大きいが、しかし、心がけで顔つきは変わってくる。

そういう意味では自己責任の部分も大きいと思う。

これからますます老化していく私だが、

老いても人に不快感を与えないような顔つきになりたいと思う。

できうれば、好感を持たれる老顔になりたい。

光を発する人

2018-11-01 02:13:56 | ブログ記事
さきほどの私の記事に、

ままちゃんというハンドルネームの方からコメントいただいた。

私は、いつもこの方のブログ記事から光をいただくのであるが、

いただいたコメントも同様であった。

今回の私の愚痴めいた記事に対しても、

彼女のコメントは光を与えてくれる。

彼女自身が光を持った人だから、自然にそうなるのかもしれない。

私は、その記事に私に意地悪した人たちのことを書いたが、

彼女の受け止め方は、

その人たちを「寂しい人」と同情される。

そう言われれば、その通りだと思う。

そして、そういうふうに受け止められたら、

その人たちの意地悪も寂しい人だからと共感できる。

なぜなら、その寂しさは私も持っているものだから。

ただ私は人を嫉妬することはしない。

それは自分が恵まれているとかではなく、

私も心のどこかで、私を嫉妬する人を可哀そうと思う気持ちがあったからだと思う。

ままちゃんさんのコメントで、そういう私の気持ちに光を当ててもらったような気がした。

それで心が温かくなった。

私が夜中に目覚めて口さみしくて何か作って食べたりするのも、

その原因の一つに寂しさがあったかもしれなかったとも気づかせていただいた。

私は、食べることで、心の寂しさも埋めていたのかもしれない。

心が満たされたら、食べたいという欲求も薄れるかもしれないと思うが、
どうだろう?

無理かな?(笑)

*

コメント欄を開いていてよかったと思うのは、
こういう温かいコメントがいただけたときである。