かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

孫の誕生祝を届けたついでに兵庫城祉へ

2018-11-29 17:12:30 | ブログ記事


今日は急に思い立って神戸の次男の子の誕生日のプレゼントを届けに行きました。

このプレゼントは、誕生会用に注文したのに間に合わなかった積み木。

が、実は、間に合っていたのです。最初に配達されたのは誕生会当日の朝でした。

朝10時過ぎに配達があったのに、私が例によってインターホンを聞き逃して、
せっかく間に合って配達されていたのに、当日渡すことができませんでした。

それで、できるだけ早く持っていってやりたかったのですが、
先週の水曜日は申し込んであった琵琶湖紅葉巡りのツアーに行ったのと、
日曜日は耳の会の行事で箕面の紅葉を見に行ったので、行けませんでした。

お婆さんの私には連日の外出は無理ですから。

それで土曜日か日曜日にもっていってやろうと思っていましたが、
しかし、共働きの次男夫婦は土日は予定があるかもしれません。

それで、平日の今日もっていってやることにしました。

朝7時頃の電車に乗れば、向こうに8時くらいに着くと思うので、
7時前の電車に乗りました。

が、電車で行くことに馴れないので、向こうに到着したときは8時15分くらいでした。

いなければ、ドアノブに吊り下げて帰ろうと思って行ったら、
玄関から出てきたお嫁さんと孫に鉢合わせしました。

お嫁さんが、「今日は遅くなったので、お母さん失礼します」というので、
そのまま追いかけました。

お嫁さんは駅前でタクシーを拾いました。

それに私も便乗させてもらって、孫の保育園まで行きました。

1歳になったばかりの孫は泣きもせず、きょとんとした顔で保母さんに抱き取られました。

幼すぎて、まだ事情が呑み込めないのでしょう。それが余計かわいそうな気もしましたが。

★一歳になりしばかりの幼子は泣くことすらもせずに保母へと

お嫁さんは、そのまま急いで職場に向かいました。

★病院の薬剤師する母親は子を預ければ職場に足を

★母親は離れるときに子に笑みて手を振りあとは振り返らざりき

★仕事もつ人の強さと思ひつつ眺めるわれは子離れが下手

★わたくしの次男は幼きときわれと離れるときは大泣きをせし

★お迎えに行くまで大泣きし続けし次男を今日は思ひだしたり

私は、そのまま帰るのも勿体ないので、
数日前にテレビのローカル番組でやっていた兵庫城祉を見に行くことにしました。

兵庫城は和田岬というところにあると言っていたので、行ってみました。

現在、兵庫城祉はイオンモールにになっていました。

イオンモールの店舗は、まだ開いていませんでしたが、
イオンモールの通路にあった案内板を撮影。

ガラスが反射して、よく見えないですね。

でも感じだけでもわかってもらえたら。

こちらも、あまり見やすくはないけれど、なんとなく読めるかな。


イオンの前は新川という運河で、船着き場がありました。


近くには、他にも、いろいろな説明板がありました。

↓この地図の赤いところが現在のイオンモールで、
かつての兵庫城祉であり、かつての県庁所在地です。


伊藤博文が兵庫県知事だった時代には、県庁所在地だったそうですから、
その頃も神戸の中心地だったのですね。

上の地図に近づいて写しました。↓


新川を渡ろうとすると、こんな平清盛のマスコット人形が。


新川運河の歴史を書いた説明板もありました。


運河周辺の史跡の説明も。


兵庫城祉の石碑の裏側から新川運河を撮影。向こう側はイオンモールです。


運河のことを書いた石碑もありました。↓


当時の地図も描かれてあったから撮影。↓ずいぶん今とは違っていますね。


こちらは明治時代の地図のようですね。明治時代は城址が兵庫県庁になっているんですね。


その後、住吉神社の横にある清盛像も見に行きました。


住吉神社の歴史が書かれてありました。↓


清盛像に近づきました。


清盛塚です。


大輪田橋を渡ろうと来ましたが、工事中だったので、回れ右をして引返しました。


歩き疲れたので、イオンモールの中にあった喫茶店で一休みしてから


地下鉄、神戸海岸線に乗って三宮まで帰ってきました。

現在は、三宮が賑わっていますが、昔は、兵庫城のあたりが中心だったんですね。

よい勉強になりました。

★清盛が都を築き博文が県庁つくりし大輪田の地

★大輪田の岬を訪れわれは知る和田岬こそ大輪田岬

★兵庫城その兵庫の名いただきて兵庫県なる県名は成る

★兵庫県初代の知事になりたるが伊藤博文とはしらざりき

往きは阪急電車で、帰りはJRで帰ってきましたが、
神戸線は、どちらの線も風光明媚で、道中の車窓の紅葉、黄葉を楽しめました。

★海沿ひを走る電車の窓をいま赤や黄色に紅葉づる木々が




従順すぎるほど従順だった私

2018-11-29 04:16:24 | ブログ記事
私は子供のころから従順すぎる子であった。

親にも従順であったが、学校の先生などにもそうであった。

そのためか、私は小学校時代、先生に贔屓されているといじめられることがあった。

先生からしても、従順な生徒であった私は可愛い生徒であったのだろう。

また当時、私の母が洋裁に凝っていて、取り換えひっかえ新しい服を着せられていたことも
いじめられる原因になった。

当時は、まだ物の乏しいころだったから、たいがいの子は着た切り雀だったから。

親にも従順で、これは私が結婚するまで続いた。

いや、結婚してからも続いていたと思う。

母は、私のことは何でも決めて従わせた。

その様子を見ていた母の友人の一人が

「びこちゃんは親が死ねと言えば死ぬかもしれないくらい親の言うことを聞く」

と他の母の友人達に言っていたらしい。

まあ、親の言うことだから、聞いていて間違いはなかったが、

それでも、進学も就職も結婚さえも母が決めたようなものだったのは、度が過ぎていたかもしれない。

母は、私の夫のことはすぐに気に入った。

母は世間体をいう人だったから、夫の学歴、見た目のよさにほれ込んだのだった。

それで、とんとん拍子に話は進んだ。

実際、夫は、私には過ぎた結婚相手だったかもしれない。

友人達にも羨ましがられながら結婚式を挙げた。

が、その後の苦労は、いつも書いている通りだ。

結婚してからは、私は、今度は嫁ぎ先の親に従順だった。

また従順でないといけないような姑だったことも理由にあった。

夫は優しかったが、しかし、結婚当初から従順を強いるようなところはあった。

私も、従順にしていることには馴れていたから問題はなかった。

子育て中も、夫は自分の楽しみを優先した。

私は、生活費を稼ぐのは夫だから、仕方ないと思っていた。

それに私は子育てという任務があったから、それに邁進した。

子育てが終わってからは、親の介護の真似事もさせてもらった。

それもいよいよ終わって、夫と向き合うようになった。

夫は、定年後は、自分で会社を興して仕事するようになった。

私にも手伝えと言ったが、私は手伝わなかった。

ここらあたりから歯車がかみ合わなくなったかもしれない。

が、私は毎日のご飯づくりでせいいっぱいであったし、
自分の時間も持ちたかった。

それに私は、銀行に勤めていたとはいっても、計算とかは好きじゃない。

夫は、近所に住む義弟の同級生だった主婦を雇った。

が、その女性のお母さんが認知症になり、その世話をしないといけなくなり辞めた。

その次は就職浪人だった青年を雇った。

が、仕事を教えるのに忙しく、一人でしているよりも返って仕事が増えたのと、
そのころ、ちょうど仕事も途切れていたので、辞めてもらった。

その後、夫は目が明いている時間は仕事というくらい仕事をした。

当然、怒りっぽくなって、私に怒鳴ったり、ときには殴ったり。

それでも、テニスとか自分の楽しみには出かける。

同窓会なども、ほとんど出席する。

そうして昔の交友を温める。

私は、それは仕事して稼いでいる夫の当然の権利だと認めている。

が、シニアカレッジに通うようになって、
他の女性と一緒に出掛けるために、私の作った昼食を後目に飛び出したり、
夕食を作って待っていても帰らずに、その女性と夕食を食べてきたりしたから、
私は怒った。

それを私がブログに書いたから、今度は夫が怒った。

それから、よくケンカするようになった。

今年6月にイギリスに行ったときも、大ゲンカした。

夫は、帰国後、次男たちが住んでいた大阪のマンションが空いたので、一人で引っ越した。

それが、今も続いている。

これは、人一倍従順だった私が従順でなくなった報いなのだろうか?