<前回のつづき>
デモ隊を教会に閉じ込めておき一斉射撃をくわえたという提岩里事件とか3.1独立運動の過程で日本軍警察によって7500名が射殺されたという主張にも歪曲があり当時朝鮮人の平均寿命は30年程度であり1700万人口の中で60万程度が死亡していたとみられ、3.1運動の続いた3か月間だけ見ても15万名が死亡したというのである。このような状況のもとどんな根拠で7500名が日本軍警によって殺されたということができるのか疑問を抱かざるを得ない。(訳者注)建物に火がついたとかその騒ぎの中で死んだ人たちは大部分、日本軍警ではなくして無政府状態であることをいいことに騒いだ暴徒たちに原因があったとみるのが比較的妥当であるだろう。
実際に3.1独立運動の期間中に独立運動と関係ない朝鮮人による略奪、放火、破壊行為が全国に発生し多くの財産と人命被害が発生していた。出るのに韓国の国定教科書は全国的な騒乱状態で発生した人命被害をすべて日本軍警のせいにしているわけであるから不当であると言わざるを得ない。
韓国の幼い学生たちは3.1独立節が巡ってくると次のような歌詞の歌を習って歌う。
「3月の空を静かに仰ぎ見れば柳寛順女史を思います。獄中に閉じ込められていても万歳を叫びつつ大空を恋しがりつつ息絶えたそうです。」
このように柳寛順はいろんな学校で3.1運動の象徴のように教育され神格化されている人物だ。柳寛順は1904年生まれで3.1独立運動のときは15歳に過ぎない。梨花学堂学生だった時に3.1運動がおこり学校が休学になると故郷の天安に戻りアオネ市場で起きたデモをリードしたと知られている。韓国の百科事典で柳寛順に関する項目を引くとこのとき逮捕された過程で柳寛順の父母は日本警察に殺されて家まで焼かれたと記されているのだが、これも信じがたい話だ死刑でもなくわずか3年の刑に該当する幼い女子を逮捕する過程でなぜ日本警察は両親を殺害する必要があったのか。
この後柳寛順は暴力デモを主導した罪で3年の刑を宣告されている。控訴したが控訴審の途中で検事に椅子を投げつけるなど法廷侮辱罪が適用され計7年の懲役判決を受けた。西大門刑務所に服役中獄死したことになっている。法廷でも幼い年に似つかわしくない騒動を起こしたのを見ると柳寛順は非常に暴力的な女学生だったことがわかる。彼女が主導したデモというのも決して平和的なデモではなかったと推測できる。
柳寛順が逮捕されて獄中で死亡したという経過は、このようにみると平凡な暴力デモの主導者に対する正常な法執行であったのみであるのだ。韓国の教科書にはあたかも彼女が幼かったにもかかわらず日本統治に最後まで抵抗し獄中で拷問を受け殺されたのであると教えている。上に書いた歌でもそうであるように監獄にとっじ込められても絶えず万歳を叫び日本警察の拷問に耐えきれず死んだというのだ。極論すれば裁判を受け服役していたが何らかの理由で死亡した女チンピラを韓国では救国運動の殉教者朝鮮のジャンヌダルクと描写し教えている。次に述べるのは「きわめて」幼い少女が柳寛順に対して書いた文である。
<次回に続く>
訳者注 平均寿命に影響を与えていないのはおかしい。
次回用メモ 유관순을 읽고(1999.8)