か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ウソはしきりと絶叫する 98

2022年12月20日 | 韓国
<前回のつづき> 

1945年、日本が負けたという知らせを聞いて道に飛び出し喜んだ朝鮮人たち。以後、彼らは自分たちの前に繰り広げられる分断と貧困という残酷な未来を思い描いていたならそんなに喜ぶことができただろうか。実際、日本が負けたのち朝鮮半島に住んでいた日本人60万人は引き潮のように日本に帰国したが日本に住んでいた朝鮮人100万人はほとんど帰国しないでいまだ日本に住んでいる。


しかたない事情で帰国することができなかった人もいただろうが大部分の在日朝鮮人は貧しい祖国に帰り困難な生活をするよりは差別を受けつつも日本人として生きていく道を選んだ。このような意味から朝鮮半島に住んでいた住民に1945年の「光復」は(光を再び回復という意味の独立なのであるが朝鮮にいつそのような光があったのか)解放ではなく災難の始まりだった。連合軍はすでに第2次大戦が終了する直前日本が明治維新以後獲得したすべての海外領土を没収するという原則を立て日本を処理したのだから朝鮮半島が日本から分離されるというのは我々としては不可抗力だったのである。その処置によって日本はサハリン、朝鮮、日本列島などの5個の地域に分割された。


日本からの分離がどうすることもできないことだとしたら朝鮮半島は戦後モスクワ3相会議でアメリカ、イギリス、ソ連が決めた5年信託統治案でさえも同意した方がよかったのだ。当時朝鮮の左翼はすべて信託統治案に賛成する立場だったのだが金九、李承晩など右翼が反信託統治運動に固執するあまり朝鮮半島の分断を固定化してしまった。信託統治を受け入れていたなら強大国の力を借りて現代的な法体系と政治経済体制を備える過渡期を経て日本のように統一国家として独立することができたのではないかと思う。


そしてさらに賢明な選択は我々自らが日本の一部であるということを主張しつつ独立を拒否することだった。国家だ民族だという荒唐無稽な概念を持ち出して過去100年の歴史を新たに見なおすというなら、われらの「独立」イデオロギーのゆがんだ姿と出会うだろう。



[1-6]ハワイとプエルトリコの場合  p101

カテゴリー 「新 親日派のための弁明」 キム=ワンソプ 第1部 アジアの夜明け

ハワイに人が住み始めたのは5世紀ごろ。ポリネシア地域から渡ってきた民族が定着してからだった。帝国主義の時代欧州人は熱帯の太平洋地域を大きく3個に区分し赤道北部をマイクロネシア(小諸島)、赤道南部はメラネシア(色が黒い人が住む)、そして東方をポリネシア(多くの諸島)と呼んだ。以後ハワイ群島からは長い間部族間の戦争が続き平和な時期はまれだ。しかし、1782年にカメハメハ1世が史上初めて統一し統一王国をなす。


西欧社会にハワイが知られるのは1778年ジェームズ=クック船長がこの地を発見してからである。以後西欧人が進出し始めてハワイはアメリカと極東を結ぶ太平洋の交通の中心地として発展したのである。クジラ捕りのために出港したいろんな国の捕鯨船が停泊する港に利用したりもした。その後ハワイにはアメリカ人を中心にした外国人の足取りが頻繁になったが19世紀初に宣教師たちによるキリスト教が伝えられた。

<つづく>


最新の画像もっと見る