Nietzsche(ニーチェ)は己の死をいとわず書いた。彼を診断した医者は言った。「彼の頭痛は到底耐えられるレベルではないはずだ。」
「人間的なあまりにも人間的な」は、彼の精神が、びくとも動かない岩盤に正面衝突を繰り返した軌跡である。通常人の100倍苦しい中で100倍考えた。死の間際に彼は言う。「おお、これが私の人生か。ならばもう一度。」
なんとすごい言葉だろう。たいていの人はへとへとになって介護老人ホームにたどりつく。もう一度生きようなんて意思力はどこにもない。残された時間をなるべく人の世話になって、その場しのぎのお遊戯をして看護婦の乳でも見ながら苦しまずに死のうと思っている。
ところが薄幸なニーチェの人生に比して彼の著作は希望に満ちている。彼の思想は能動的ニヒリズムであると言われるがこれには深いわけがある。世をすねてコンプレックスに押しつぶされるニヒリストではない。
自分の人生だから邪魔をするものは敵なのだ。「神は死んだ」とは彼の有名な言葉だがその次の言葉が大事だ。
「おれが殺したのだ。」「おれたちを奴隷扱いする者をなぜ拝むか。」
彼はついに人生の指針を永劫回帰に求める。申し訳ないが、そこらのインチキ坊主にははるかに及びもつかない仏教理解のもと、彼がいたった結論だ。人生が苦しくないなんて言わない。人生は孤独で苦しい。だからこそオフ会だのなんだのすぐ集団になって本質から目をそらす能天気な生き方をやめろという。
西欧の学校教育とくにドイツ。まさにニーチェの考えが生きている。人生が苦しいから、どうすればいいかを学びに学校に来ている、というのが教育の根本理念だ。
一方能天気な日本では頭の悪い小学校の先生が、今日も楽しくみんなでお勉強しましょ、とぬかす。これじゃあ骨のある奴は育たんだろ。
日本の哲学者も腰ぬけで自己の政治的スタンスを旗色鮮明にすることが少ない。一方で、自民、あるいは共産をきちんと支持することを表明できる人がいるところがある。そういう人がいる大学なり研究所は一流で高い業績を誇るところが多い。ところが低脳のニセモノ研究者が集まる巣窟はなんの意思表示もできぬまま「お上」を恐れてできぬ。
福岡大学や中村大学の学者が共産党を支持する論文を朝日に寄稿したところを見たか。そこを首になったら次に雇ってくれそうなところがないからできないのである。まるでコネで第二組合に加入することを条件に採用された無能な福岡県の高校教員みたいだ。(黄犬契約)
彼らに人間性を求めることは意味がない。ないからだ。僕は思う。ニーチェの言うような人間的であれとは言わぬ。せめて政治的であれ。”Politische,all zu politische”間違ってもいいからものごとの政治的側面を考えろ。中村大学の教員たちは福岡県の高校教員たちのようにまるでペットショップのハムスターだ。
ただ3月になると自分の首の心配しかしない。全員が、Non Politikだ。
お前ら馬鹿には「永劫回帰」に耐える努力もいらんもんな。本来、中学2年生で成立する抽象力がないからな。自分を客観視できず、明日の自分は考えても明後日に自分は考えんだろ。
僕の結論はこうだ。Scienceと名のつくところに不純物がいるととても恐ろしいことが起こる。韓国ではどんなに低級大学の生徒でも竹島、従軍慰安婦問題については一定の意見を述べる。
中村大の2年のバカ女はこう言った。臆面もなく、「選挙行きません。みんなの役に立つ仕事がしたいです。」
どうですか。バカはこうして必ず上から下に伝染するのです。みんなの役に立ちたければさっさと消えろ。
「竹島?JAL飛んでます?」