僕が弔辞を述べようとすると葬儀社が横からそっと「アンチョコ(カンニングペーパー)」をくれた。ところがこれが実に人をバカにした小学生の作文だ。毎日人は死んでいるから平均的な内容になるのだろう。
だけどみんなそう思っているように、それぞれ遺族にとっては特別な人なんだ。僕はいただいた紙をしまうと台本なしで喋り始めた。まず、時間を気にしている人を叱り眠りかけている遺族を起こした。僕は不満だった。ちょうどこのブログの反応のように日本人としての鍵になる事件に無関心な人が多かった。
伯父さんの無念を話すからよく聞け。どうせビールとロトとパチンコと野球にしか頭を使わんだろ。今だけは僕の話を聞け。
彼は任官すると揚子江警備に回された。最初っから駆逐艦に乗れたのだから幸運だったのかもしれない。そのまま開戦になりマレー沖海戦に参加した。敵潜の魚雷をかわしたことで操舵技術を評価された彼はいったん内地の海軍大学に行く。阿武隈(?本人も混乱していて不明)でアッツ(熱田島)に兵や糧秣を輸送することになった。
もう艦長になってよさそうなころだが、多くの船が沈められたこと、僕と同じく喧嘩っ早かったことなどにより昇進はしなかったし階級も自動的に上がる一回を除いてそのまま終戦を迎える。ある日アッツに敵機の飛来する中物資を届けた。
そのまま残れという命令を受けて高角砲群の司令官になった。このころの思い出に「サーモン」がまずくて死にそうだったことがあると言っていた。僕はここに日本海軍の情勢分析の甘さを見た。「サーモン」は最高のごちそうだ。料理法を研究するだけで搬送する糧秣はかなり減ったはずだ。
あるとき空襲があったので壕の中から指示を出していると、大まぐれにもB24に当たった。3名は生け捕りにし情報を聞き出すところだが、価値のない兵は切ることにした。すると一人の兵が「眼隠しは要らない」と言ったので、アメ公にしては気合の入っとる奴じゃと考えたからけん中尉は、「そんなら俺が切ってやろう」と言ってアメ公の細い首を切った。
この後すぐキスカに転勤になりその後も陸戦隊のまま過ごした。軍令部はもう戦争は勝たないとだれもが知っていた。アメ公の首を切った時、はるか上空から写真が撮られていたのを中尉は知るよしもない。
アメリカの捕虜になったら面倒なことになる。臆病風に吹かれた軍令部は彼を千島最北に異動させる。せめてロシアにつかまって終戦を迎えるようにさせよう、と考えた。ひきょう者のやりそうなことだ。
北海道出身の兵たちも寒さに倒れたほどの酷寒の地で戦略上は何の意味もない島を攻略した。ミッドウエイの陽動だからそれがすんだら早く引き上げるのが上策だったのに。
軍は、戦後の自分の位置を確保するにあたっては熱心だった。ドア一枚を隔て一億玉砕だというスローガンと戦後の就職開拓とを切り替えた。したがって階級が上がるほど生存率が高くなる世界でもまれな軍隊になったのだ。
百姓たちは愛国心に踊らされアリューシャンの寒天のもとに今でも氷結している。