<前回のつづき>
[甲午事変(甲午改革)と閔妃殺害事件]
開港以後、つもりにつもった様々な矛盾を解決するため改革の必要性が高まるなか、農民の改革要求が高まると(朝鮮)政府では自主的に改革を実行しようとしていた。この時日本は朝鮮に対する干渉を通じて経済的利権を奪おうと侵略の足場を作るためには朝鮮の内部改革が必要だと主張していた。このような状況下で日本は軍隊を動員して景福宮を占領して…… この時実施された改革を甲午改革という。(国史、P336(朝鮮史))
日清戦争が勃発する前、朝鮮半島に軍隊を派遣した日本政府は清と朝鮮政府に対し施政改革と朝鮮の独立をともに推進しようと提案したが、清と朝鮮政府はこれを拒否した。このことに対しやむを得ず日本軍は景福宮クーデターを起こし武力で朝鮮の自主独立と施政改革措置を強行したのであって、この甲午改革は日本の明治維新を朝鮮にあてはめたものであるといえる。これは当時日本が東アジアにおいて近代精神を伝えるという革命の基地であったという事実を立証する事例である。
もちろん当時の日本は清を追い出して朝鮮半島で優位を絞めようという目的があったのであり朝鮮の自主独立と施政改革は当時朝鮮の社会にも必ず必要なものであったのであるから甲午改革が起こったのは日本の貢献が絶大であったとみることができる。このような事件を「国史(朝鮮史)」ではあたかも「朝鮮政府が改革を自主的に推進しようとした」のだが「日本が経済的利権を奪う目的で侵略の足場を固めるため」軍を動員しクーデターを起こしたかのように書いている。しかし(たしかに)当時朝鮮政府が農民軍と協議しながらいろいろな改革措置を約束しもしたが休戦以後まったく実行されなかったのは周知の事実だ。
東学農民運動で 全国が混乱していた時侵略の攻勢をかけた日本は甲午改革に関与して興宣大院君を立てて明成皇后を取り除こうとした。明成皇后は日帝の野心を見抜き日帝を後ろ盾にした改革勢力に対抗した。これに日本公使三浦は日帝の朝鮮半島侵略政策に障害となった明成皇后と親露勢力を一掃しよ一部親日政治運動家と組んで、1895年8月に日本軍と政治浪人を動員し応急を襲撃したのち殺害しその死体を燃やすという蛮行しでかした。(国史、P337)
「国史」の記述で日本が登場する文章にはこのようにいつも侵略、野心、野望、蛮行などの用語が伴っている。実際の閔妃はただ政権を維持し自分の息子を王にしようという野望以外にはこれといった動機が見当たらないという程度の利己的で極悪な人物だったのだが「国史」には「日帝の野心を見抜き」日本の侵略に対抗したが殺された自主的であり愛国的な人物に書かれている。事実、当時閔妃を取り除こうとしたのは朝鮮の革命勢力と大院君、日本などであったが当時の朝鮮には閔妃と親露守旧派を取り除かないことにはあらゆる改革は不可能な状況だったので閔妃殺害はある意味においてはよかったといえる。さらには日本の役割は朝鮮の革命家たちと大院君が練りあげた脚本に若干の武力を動員したに過ぎないのであるからその責任が3分の1程度にも満たないにもかかわらずあたかも閔妃殺害が三浦公使と日本政府の仕業であったかのように記述しているのである。これはとんでもない間違いである。
<つづく> 次回用メモ 国史の記述から…