昨年8月に出帆した出来立てのフィルハーモニー。九州シティフィルハーモニー室内合奏団。
団員の皆さんは顔つきこそそこらのおじさんおばさんだったが、演奏はピカ一だった。
ピチカートは音がどうしても小さいのでVnとVlaとかVcとか異なる楽器で協力して音を出すことが多い。この時、相手が近くにいると相手を見なくても大体きちんと合うが、席が離れるとなかなか合わない。とくにゆっくりのときが難しい。
手拍子で考えるとわかりやすいと思う。二人で手拍子を打つときはよっぽどの音痴でない限り拍子は合う。ところが100人の手拍子はどんなに良い人が指揮をしても合わない。
ユーモレスクを100人で弾く催しに参加したとき、とても悲惨なことになった。演奏前のチューニングのようだった。
九州シティフィルの演奏は完全にあっていたので気持ちよかった。正確だった。でもよい演奏とは間違えず正確に弾くこと、要求された技巧をこなすこと・・・ではない。聞き手が感動してなんぼである。
曲芸を見に来ているのではないのだ。
音楽の世界で抜きんでるためにはただ一つ、感動させる実力のみが重要だ。他はあまり関係ない。驚かせる曲芸は全く必要ない。
その才能はたいてい持って生まれたものである。努力したことの無い人がわかったふりして99%の努力と1%の才能というが音楽はそんなあまい世界ではない。逆だ。
ある楽器の上級者が、子供の奏者を見たとき、その子が初歩であっても確実に将来を予見できる。上級者が100人いても意見は完全に一致する。絶対に。
最初に拍手の話をしたのは、それが言いたかったのだ。同じことをVnの上級者100人でしたとき、一人が拍手しているように拍手できる。ピアノで言えば、両掌で任意の鍵盤を同時にたたいても、ピアノができる人が聞くとすべての音を言い当てる。
これを努力の成果とは言えない。ダメな人はどんなに努力してもできない。しかもほとんどの人はその才能がない人の側にいる。ぼくはその筆頭だ。
ぼくが言いたいのはこれからだ。
1%の努力をいくらしたところで才能がほとんどを決める世界においては、大勢に影響ない。
本来、人は、努力は嫌だ、成果は得たいという気持ちで生きている。宝くじを見てみろよ。濡れ手に粟は常においしい話だ。そして、たいてい「ない話」だ。
ぼくは勉強の世界ではまあ何とかなったが、音楽の世界では最高の落ちこぼれだった。人の一年分の進歩を一周間でこなしていくやつがいる。そういうやつですらほかの天才を見て挫折するんだからとんでもない世界だ。
勉強とか試験とかならいろいろ屁理屈が通るし、日本ではカネやコネでどんなバカでも医者になれる。
音楽になぜインチキがないかというと、上手下手をいちばん見分けることができるのはその楽器を弾いている本人たちだからだ。
自分より上手が自分より点数、評価、成績で低評価だったら、自分はとても恥ずかしくてやっていけない。「腕前」というのはすべての口実、屁理屈、弁解を拒否する。仲間の音を聞き一流の音を聞いて自分の位置を正確に毎日意識している。
文句あったらこの音出してみろ。そのどや顔に、ぼくはただひれ伏すばかりだった。
ぼくは悟った。だからこそぼくにできるのは努力しかない、と。努力ぼくはボトムだったが、トップもやはりトップ同士で鎬(しのぎ)を削ってみんな1%の努力にかけている。演奏家は毎日7時間は弾いている。そうしないと仲間にすぐばれるのだ。
長くなったので演奏の内容と最近のバイオリン事情は、またそのうちに。