第一次上海事変は数百の死者を出したのみで停戦協定が成立した。川島芳子や田中隆吉の暗躍によって日中は衝突したがこのあとの日中戦争に比べると小競り合いにすぎない。
最近の日本では南京事件もなかったばかりか上海事変も蒋介石が仕掛けたと言い出す人が出現する始末で頭が悪いとどんなことでも妄想するんだなと思う。
戦争はケンカとは違う。どちらが先に殴ったかを聞いてくれる優しい学校の先生はいない。戦争は負けた方が悪い。
日本という子供は隣の家に上がり込みそこの息子とケンカを始め俺は正しいと言い張った。よその家に上がり込んだという間違いをおこし、そのケンカに負けたという大間違いをおこした。
論争になるほど詳しく述べてはいかないが、今度は第二次上海事変について書こうと思う。
1937年8月13日夜には上海において日本の上海海軍特別陸戦隊が中国国民党正規軍10個師団(20万人)と衝突(第2次上海事変)、同日、政府は閣議において上海派遣軍(2個師団)の派兵を決定する。戦闘員は両国とも逐次増強され中国60万対日本40万の総力戦になった。
戦闘が開始された時点においては上海に駐留していた日本軍は数千の段階であった。蒋介石がこれを一挙にたたこうと思ったのか、奥地ににおびき寄せるための陽動であったかについては諸説ある。
お粗末なのは、多くの敵をものともせず勇敢に戦う皇軍兵士、というカビの生えた宣伝文句を真面目に勉強もせず信じ込んでいるのがいることだ。
わずか4000の兵でどうして侵略ができるんだ、とのたまうが一瞬にして戦力は40万に膨れ上がる。そんなやつに言わせてもらうが、そもそも4000の兵でどうして10000の戦死者が出るのか。
第二次上海事変は終わることのない戦であった。
国民党軍の規律はでたらめだ。占領地のすべてを奪いつくした。抗議すると殺すのが当然のように慣習化していた。一部の重火器を扱うものを除いてほとんど学校らしい学校には行っていない。
こんなでたらめを許さないぞ、そら「暴支膺懲」だ、と短絡するのは思慮に欠ける。蒋介石としては敵兵力の手薄な江南を攻めるのが軍事常識であり責められるべきはそんな軍事常識もない素人が中国征服の野望を抱いたことである。
日本軍は国民党軍のような軍紀の乱れはほとんどない。しかし国民党軍以上の残虐行為が可能になったのはなぜか。新兵訓練という名の捕虜の刺殺、徴発という名の泥棒など限りなくはたらけたのはそれが命令だったからだ。そのような軍隊を侵略軍という。