1932年、上海市郊外に、蔡廷�粫(さいていかい)の率いる十九路軍が現れた。十九路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上に達していた。1月、日本軍が上海へ進軍してくると、国民党中央は蔡廷�粫ら第19路軍に撤退を勧めたが、蔡はこれを拒否する。1月28日より両軍の衝突が開始された。兵力は第19路軍が日本軍の半数の上、日本軍の方が装備・火力で圧倒的に優勢だった。しかし第19路軍は懸命に抗戦し、30日以上も持ちこたえた。
共産党と善戦した自信からか上海租界を狙ってのことか、兵への給料にすら事欠きながら二倍の兵力、数倍の近代装備を誇る日本軍に対峙した。
最近分かりもしないで日本軍の規律厳正かつ勇猛果敢ぶりを喧伝するアホが出てきた。1,000名だった日本軍は四日で本格的武装をした陸軍を7000名上陸させた。且つ戦闘機も導入し艦砲も可能だった。
「寡兵ヨク大軍ヲ撃ツ」とは蔡廷�粫をさして言う言葉だ。
さしもの蔡も撤退を決意する。彼は、壕と土塁と有刺鉄線で追撃を阻んだ。これに対し陸軍は20キロの爆弾に導火線をつけ竹で巻いたものをこしらえる。敵の防御線を竹で巻いた爆弾で突破しようとする。まるで文永弘安の役だ。絵巻にしたら博物館に入る原始人の戦争じゃないか。
ここで必ず出てくるのが久留米の部隊だ。とにかくここら辺は朝鮮半島の影響か、気が短く喧嘩っ早い。その後もこの無鉄砲さが買われ各地で突撃要員になる。
敵の防塁が落とせなくて苦戦していた久留米24旅団は、さきほどの爆弾つき竹やり戦法を思いつく。そんなに功を焦らずとも給料も払えない軍隊は自壊する。結果的に19路軍は蒋介石によって壊滅させられる。ナンバー2は邪魔なのだ。味方でも必要ない。蒋介石はむしろ共産党とは合作して東夷の小国を撃つ。
まるで会社の人事抗争を見るようだ。三国志を読んでいたほうが勝ちだな。
このとき軍国美談がねつ造される。死ななくてもいい21歳の青年が勇士となって死んだ。この話は国定教科書に載り国民のほとんどが信じた。今でも一部のアホは信じている。
国定教科書。
敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。そこで班長は、まづ破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりとかかへ、鉄条網めがけて突進しました。-----すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人はぐっとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただ、その間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
北川は、決死の勇気をふるって、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやうに、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
三人の心は、持った破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
もう死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」作江は答えました。「何もありません。成功しましたか。」
班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」とさけびました。
「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。
僕は一等兵たちの勇気を深く尊敬する。ただ彼らは招集兵である。除隊後は夢があった。百姓をしたり輸送業をしたり。どの子もそうであるように親にとっては希望の星だった。
国定教科書はウソつきだ。竹の先に爆弾をつけた20キロ程度の物が爆発しても鉄条網が破れるのはわずかである。その爆弾つき竹の棒が雲霞のごとく押し寄せるのならなんとかなるが、そのまえに兵は死ぬ。音が大きかったとあるが火薬を知らないからそんな嘘がつけた。音と威力は反比例するのだ。
そんな幼稚なことではまるで日露戦争だ。会津の白虎隊にも笑われる。砲撃をせよ。野砲でも艦砲でもよい。15分ですむ。敵は糧秣にも事欠いているんだ。飛行機に任せろ。2分ですむ。それがいやなら何もしなくてもいい。敵は湿地帯の中で持ちこたえることはできない。
叙述があまりにも微に入り細にわたっている。誰か弾が飛び交う中でメモやスケッチでもしていたのか。あとで創作したじゃないか。だから矛盾してくるんだ。
なにが「天皇陛下万歳」だ。木っ端みじんになるときにどうしてそんな言葉が言えるんだ。そこで物語を変えゆっくり死んだことにしてある。
陸軍はさらにひきょうなことをした。3人のうちの一人に被差別出身をいれた。要するにですらこんなに命がけで戦っているんだ、汝臣民一層奮励努力せよというためだ。
彼らは軍神となり銅像が立つ。第二次大戦時の金属供出で銅像は撤去されるが一部石膏が残っていたので復元される。
目達原基地の資料室に2m以上の大きな銅像がある。江下武二一等兵(死後伍長)21歳、本懐を遂げたか。