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猿投神社(さなげじんじゃ)の秘密?(@_@)

2024-11-30 13:49:33 | 古代史

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【古代濃尾考⑤】⛩️🚃✨ヤマトタケル伝説は大碓命の子孫に繋がる?😧古事記&日本書紀を読み解きつつ、愛知県と岐阜県を旅行して古代史の謎を妄想解釈します😉

ふどきさんの古代史@YouTube

ふどきさん、猿投神社とはまたいい話題を有難うございます。

日本建国を事実、つまり考古学や民俗学などの成果から解明を行っていますが、猿は猿田彦で大国主の分身です(詳細は「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!」参照)。


猿田毘古大神(19世紀後期画) Wiki「サルタヒコ」より

大国主は実在人物で、出雲・丹後王国の王久々遅彦(王の襲名)高野御子(父日高彦の御子の隠語です)。朝廷がその祟りを最も怖れる神ですので、様々な別名、分身の神話を作って誤魔化しています。日本中の縄文海人ムナカタ族を束ねる王です(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。

卑弥呼の死後に狗奴国王に命じられた倭国追討軍の大将だった尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)が倭国王に立ったので、それに不服だった大国主高野御子が乎止与命を討って、13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を外交上卑弥呼の後の女王に立てて、纏向遺跡を王都とした狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)を裏切って、魏を後ろ盾にして日本列島の大半を傘下にしたので、後世大国主と呼ばれたわけです。仲哀天皇の熊襲征伐の話になっています。大国主が武内宿禰です。

 

乎止与命の子建稲種命が仇討ちのために九州に遠征して、大国主を討って、九州の支配を遠征に参加した物部氏の祖に任せて纏向遺跡に凱旋したところ、卑弥弓呼大王から大国主の傘下を平定する命令を受けて、東国遠征の途中で流れ矢が当たり亡くなっています。沼津市高尾山古墳に葬られたと推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。

その後尾張王を継いだ 尻綱根命が率いた尾張勢がほとんど日本列島を平定し、ヤマト王権が成立したと分かりました。崇神天皇紀の四道将軍の話としています。建稲種命の九州遠征は日本書紀で景行天皇の事績として詳しく語られています。ですから猿投神社の祭神となっています。また東国遠征で死んだこともあり、建国の主役を隠すために創られたヤマトタケルのモデルとされています(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。

猿投神社の最初の祭神は猿田彦だったのが近世に史実をさらに誤魔化すためにヤマトタケルの兄を祭神にしたのです。垂仁天皇はホムチワケの伝説のある豊岡市久久比神社の祭神久久遅彦(大国主)からの連想だと思います。

藤原不比等が日本書紀で建国の史実を神話を創って誤魔化したのですよ(詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)」参照)。

大国主の国譲りで活躍した鹿島神宮のタケミカズチが建稲種命のことで、タケミカズチの父という説のあるカグツチが乎止与命のことですので、秋葉神社は愛知県を中心に数多く見られますね。

当時は尾張地方はカニが群生していたようで、尾張の代名詞だったようです。ですからこの史実がさるカニ合戦として伝えられています(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照)。建稲種命は地元の人々が長久手市景行天皇社で祀っていますが、その前は長久手市蟹原と根の神と呼ばれる場所から遷されたようです。現在もそれらの地名が残っており、多分その屋敷跡に道了山大雄院という曹洞宗のお寺ができて、そこで大国主をお祀りしているようです(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」をご参照ください)。どうも長々とお邪魔しました(;^ω^)

 

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【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)

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【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)

日本の建国において最も活躍したのはスサノヲの子孫たちでした。このことを知らずにその後の古代史の謎は解けないと思いますよ(^_-)-☆

高野御子の歌(その1)(その2)犬猿の仲の由来かも

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