刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼は縄文海人の祝女(はふりめ)か?!(#^.^#)

2024-11-22 00:00:02 | 古代史

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#前回の記事「宇佐神宮の奥座敷に卑弥呼様が(^_-)-☆」にコメントいただいたYOさんへのお返事が長くなったので、記事にしました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

卑弥呼が居る場所が邪馬台国なのか? (YO)
ワイも、卑弥呼は九州にいると考えております。が、なかなか場所の選定がうまくいかないんですよね。
宇佐。これはなかなか強力な場所ですね。
皇室の宗廟として「宇佐神託事件」で神託を行ったってのは、アドバンテージがあると思います。
徇葬者奴婢百餘人」の部分をハルキーさんは「弥生式集団墓」だとしてましたね。宇佐周辺にあったと言ってましたね。
ワイは、魏志だと北九州に王都がありそうなので、北九州も捨てがたいです。

で、本題なのですが、
魏志韓伝に謎の「辰王」というのがいるのですが、「辰王治月支國」と書いてあるということは、この王は「馬韓」の「月支国」にいるんですよね。辰王なのに辰韓に居ないんです。
また「辰王不得自立為王」とあって「自立」してないので、たぶん「共立」です。
何が言いたいかと言えば、「倭」「卑弥呼」も同じなのでは?ということ。
「卑弥呼」が「治_邪馬台国」とは書いてない。卑弥呼がいるのは「女王国」であり「邪馬台国」ではない。
辰韓の辰王が「馬韓」にいるのならば、倭の女王がどこに居ようとかまわないのでは?と考える次第です。
刮目天さまが、畿内が狗邪韓国だと考えてるのは知っておりますが、ワイは「卑弥呼」は九州にいるけれど、「邪馬台国」は畿内または関東で構わないと思っております。当然「九州」の宇佐でも構わない。
辰王が馬韓にいるというのは、実は「統治王」ではなく「祭祀王」かもしれません。すると「倭王卑弥呼」も「祭祀王」かもしれないですね。
ならば余計「畿内」にいる意味はないでしょうね。
ただその場合、畿内にいる大勢力は「狗奴国」なのか「邪馬台国」なのかは意見がわかれるところです。

と、だいぶ脱線してしまいましたが、卑弥呼の居場所と邪馬台国はリンクしないのでは? と思う次第です。
YOさん、こんばんは!
いつもいい、コメント有難うございます。
>刮目天さまが、畿内が狗邪韓国だと考えてるのは知っておりますが、
W!するどいですね(^_-)-☆
本人もあまり意識していなかったのですが、言われてみたらそういうことにもなるな!(*´Д`)
狗邪韓国は伽耶(加羅)地方の任那ですから、その国名の意味はナーガ(那=龍蛇神)を任せた国、つまり天御中主が早良平野に降り立った元は狗邪韓国に居た!その末裔の奴(ナーガ=龍蛇神)国が帥升の反乱と卑弥呼の共立で吉備から纏向遺跡に遷都した旧奴国=狗奴国ということなのですから。

つづきはまだまだあって、長くなりましたのでこれから記事にします。また、お越しいただきコメントいただければ幸いです。

『三国志』「韓伝」に二か所「辰王」が出てきますネ。馬韓に出てくる辰王は馬韓の中のひとつ月支国を統治しているとありますが、馬韓全体を支配しているとは書かれていません。

これは漢書などにあった辰国の王ではなく、三品彰英先生の『史記』「真番旁衆国」を「真番辰国」と誤写したものが漢書などに伝わったという説がつじつまが合うと考えています。

そして次に辰韓・弁辰の後に辰韓十二国が辰王に服属すると出てきます。馬韓の人が代々辰王となるので、馬韓から独立していないとありますね。

何で辰王が辰韓の中に居ないで馬韓の月支国に居るのか?YOさんは辰王は統治王ではなく馬韓の人々によって共立された祭祀王ということでしょうか?祭祀王というのなら統治するわけでもないので遠隔地にいても問題ない?つまり、辰韓の祭祀の時だけ出張するのでしょうか?いや、辰韓の人々が神託を受けに月支国に来るのでしょうか?

卑弥呼は人前に出ないので、卑弥呼が祭祀王なら後者ですね(^_-)-☆

しかし、馬韓には戦国の韓の遺民やその後、衛満に追い出された箕子朝鮮の最後の王箕準が馬韓をほぼ支配していたようですが、何代か後に前漢の武帝に滅ぼされて真番郡とされた領域になったと考えています。

後に、馬韓で倭人が力を付け、辰韓もまだ統一されては居ませんが、魏志倭人伝にあるように韓人・濊人・倭人が製鉄を行い、倭人の王が鉄の取引を支配していたと考えています(詳細は「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」・「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。

その倭人の王が辰王で、呉の王族の天御中主の祖先ということではないでしょうか?ですから共立というのは民主的に王を決めたイメージのようですが、誰もが認める家柄の人物という意味だと思います。つまり辰王とは倭人の王ですから、倭人を古くから支配した呉王太伯の後裔だと考えています。実際は統治していたのではなく祭祀王だったという説ですね。まさに天皇のイメージですね!有難うございます、これは大発見です!。

YOさんは卑弥呼が倭国を統治する女王ではなく共立された祭祀王と考えておられるとのことですが、それに近いと思います。

しかし、卑弥呼は玄界灘を支配する縄文海人ムナカタ族の姫巫女と推理していますので、天皇のイメージとは異なりますよ。

日本列島で縄文時代中期ごろから活躍したのは縄文海人族だったようです。奄美・沖縄などからゴボウラ貝の腕輪と隠岐の島などの黒曜石の交易などを行っています(注2)。隠岐の黒曜石が西遼河や沿海州で出土していますので、それらの人々とも列島内に留まらず、かなり広域で交易していたようです。弥生後期の縄文海人族の集落と考えている唐古鍵遺跡で、鳥の羽を着けた祝(はふり)と祝女(はふりめ)の線刻画の土器片が出土しており、卑弥呼も同様の祝女だと考えています(詳細は「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」参照・弥生文化は、現在は半島で生まれたのかも知れないと考えています)。



なぜ卑弥呼が魏志倭人伝に登場するのかは、倭国大乱の長い話がありますが、かいつまんで申し上げると、二世紀末から始まった倭国大乱で、三世紀の初頭に、狗奴国の官狗古智卑狗(ムナカタ族を束ねるスサノヲの子孫の出雲・丹後国王、豊岡市久久比神社祭神久久遅彦)が菊池川流域の環濠集落で急襲を受けて戦死し、ナンバー・ツーだった卑弥呼の父赤坂比古が倭国王難升米(なしょめ)に懐柔されて狗奴国を裏切ったと推理しています。

赤坂比古が祝(はふり)だったのです。密室で卑弥呼から太陽神のお告げを聞いて、部下や民に、赤坂比古が解釈した神託を声に出して伝えるシャーマン王です。これが祭祀王ということで、卑弥呼は姫巫女あるいは日巫女でしょう。天理市和邇坐赤阪比古神社に宗像女神市杵島姫命が祀られていますので、市杵島姫命卑弥呼を祀るムナカタ海人族で、和邇氏の祖だと判明しました(注1)。

実は、倭国の行程記事などの情報は、景初三年(239年)六月に魏への朝貢のために帯方郡に渡った難升米が書いて教えたと分かりました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。そこで太守劉夏と談合して、魏の実力者の司馬懿の功績を曹魏第一等のものにするために都合の好いようにでっち上げたのです。卑弥呼を倭国を統治する女王ということも、卑弥呼の都とする邪馬台国も、政治的に創られた話だと推理しています。したがって、どことでも比定できる行程記事からは万人が納得する邪馬台国の場所にはたどり着けないのです。

しかし姫巫女の卑弥呼は上述のとおり実在人物と考えていますので、卑弥呼の居た場所は考古学と民俗学の成果から探そうと考えました。倭国大乱の痕跡を、鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて発見し、上で述べた卑弥呼登場の経緯を推理をしました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。そして市杵島姫命卑弥呼は不弥国(ウミコク、宗像市田熊遺跡群が中心集落)で生まれたのですが、戦乱期は海に近いので物騒です。そこで、三女神降臨伝承のひとつである要害堅固な安心院町宮ノ原遺跡に疎開したと推理しました。宇佐市史によれば和名抄で宇佐郡野麻(ヤマ)郷に比定されています。「安心院」の地名の由来も女王(院)が疎開して安心したことに因むものです。

ですから、邪馬台国というのは「ヤマ国に住む女王(台)の居城があるところ」という意味になります。

また、魏志倭人伝には邪馬台国を見つけるための記事がいくつかありますので、以下のような6個の条件に合致する場所を探せばいいのです。金印や鏡や絹織物など、見つけた人が容易に運べるものは決定的な証拠にはなりませんよ。そして、前回の記事のとおり、これらすべての条件を満たす場所を発見したのです(詳細は「【邪馬台国問題】解決の糸口でした(^_-)-☆」参照)。

①卑弥呼の径百余歩の冢(直径約150mの円形墳墓、しかも前後の状況から急造の土を盛り上げただけの墓)です。
②さらに、その周辺に城柵で囲われて兵士で厳重に護られた王宮があること(弥生後期の集落)。
③また、その場所に、卑弥呼に纏わる伝承や地名などがあること。
④そして倭地温暖で冬でも生野菜を食べ、はだしで生活できる場所。
⑤卑弥呼は人前に出ないことから巨大集落から少し離れた場所が居城。
⑥女王国の東側が海で、渡海千余里でまた倭種の国がある。范曄後漢書では倭種の国を狗奴国としている。九州説なら周防灘に面した豊前地方が該当する。

ちなみに、邪馬台国がどこか分かったので、行程記事のトリックも推理できました(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)

YOさんは「邪馬台国」は畿内または関東で構わないとのご意見ですが、三世紀前半の卑弥呼が生きていた時代に纏向遺跡から九州の土器は全くと言っていいほど、出土していないのです。前方後円墳での重要な祭祀に北部九州の倭国の人々がほとんど参加していないのです。その他の地域の人々が参加しているのですから、纏向遺跡の勢力と卑弥呼の倭国は敵対関係だったと推理できます。ですから纏向遺跡は狗奴国(旧奴国)の人々の集落と推理しています。



ということで、ここが今のところ最も有力な候補と考えていますが、邪馬台国の条件に合致する他の場所があれば、いろいろと比較検討して、どちらが有力かを決めることができるはずですね(;^ω^)。

 

(注1)赤坂比古は正始四年(243年)正使として魏に朝貢した伊殸耆(いせぎ)と難升米は書いています。「伊」は聖職者を、「殸」は声を意味しますので、「イセ(伊勢)」は縄文系の祝(シャーマン王)という意味なのです。赤坂比古は縄文系海人族の間で「いせ」と呼ばれていたと分かります。そして「耆(ギ)」は老人の意味です。率善中郎将の印綬は副使掖邪狗等八人に与えられたとありますが、正使伊殸耆には与えられていないことから、途中で亡くなったと推理できます。墓は宮ノ原遺跡の奥城古墳(直径約120mの円墳、現在ブドウ園の展望台)に葬られたと考えています。

また、掖邪狗は「ややこ」つまり、稚児という意味だとすると、卑弥呼の弟赤坂比古(王の襲名、日本書紀の日触使主)のことをバカにして難升米が書いた名前だと分かります。「いせ」も「ややこ」も当時の人々の言葉「倭人語」だったようです(詳細は「倭人語解明のヒントだ!(^_-)-☆」参照)(^_-)-☆

(注2)琉球神道が十二世紀ころの古琉球や琉球王国で信仰されていますが、史料は知りませんが、古来から卑弥呼の鬼道が縄文海人によって伝えられていたと考えられます。YーDNA解析でも縄文人系(D-M55)が約60%とかなり頻度が高いのです。ですから逆によく知られた琉球神道から卑弥呼の鬼道を推測できます。琉球神道における太陽神は「ティダ」と呼ばれ、多神信仰の最高神として崇められており、アニミズムと祖霊信仰が基本だと言われていますので、神社神道との共通点も指摘されています。

しかし神社神道は八世紀に藤原不比等が日本書紀で創作した神話に合うように各地の神社の祭神を変更していることが分かっていますから、元の祭神は地元の方たちによって摂社や末社で祀られているようです。神社神道の前に行われていた磐座信仰や山岳信仰は琉球神道の「御嶽(うたき)」と共通です。

現在の神社で神に仕える巫女に対して、琉球神道では「沖縄本島には御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をおこなう祝女(ノロ)と呼ばれる女神官が存在する。」とあり、「ユタ」と呼ばれる、「もっぱら死霊の憑依を受けてトランスに入り、第一人称でその託宣を述べるものを一般に口寄せ巫女と称するが、南西諸島において口寄せ巫女としての巫儀を展開している呪術宗教職能者」がいます(wiki「琉球神道」)。

卑弥呼の場合人前に出ないので、ユタ(口寄せ巫女)に近い、太陽神が憑依して神託を告げる役割の日巫女(ひのみこ)と考えられますね(詳細は「誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)」参照)-☆

に通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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