開皇二十年(600年)に倭国王アメノタリシヒコが隋の高祖文帝(楊堅)に倭国の政治理念を「俀王以天為兄以日為弟(天は倭王の兄、日は倭王の弟)」と述べ、高祖文帝(楊堅)が崩御した後の煬帝の大業三年(607年)にアメノタリシヒコは「日出處天子致書日没處天子無恙云云(日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや、云々。)」という有名な手紙を送っています。
通説では、日本書紀から推古天皇(在位:593-628年)の皇太子の聖徳太子だとされています。しかし、600年の話と607年の話を同一人物がするはずないのです。
何故なら、前者は弟の日神の子孫ですが、後者は天子ですから兄の子・子孫なのです。つまりアメノタリシヒコはすり替わっています。
詳しくは「【わかった】アメノタリシヒコの正体!」をご覧ください。日本建国を解明しないと分かりませんよ(;^ω^)
百済の武寧王ですが、日本の皇室の祖天御中主の半島に残された王子か、あるいはその前の王族の子孫だった馬韓伯済国の倭人嶋君(しまのきみ)が、武烈天皇の支援を受けて扶余から百済に分裂した呉の王族堂谿(どうけい)公の子孫東城王を討って百済王と名乗ったと推理しました(詳細は「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」参照)。
さらに武寧王の孫威徳王の王女と推理した石姫が、600年に隋に朝貢したアメノタリシヒコ(敏達天皇)の皇后につき、生まれた押坂彦人大兄皇子が、実は百済武王に立ち、糠手姫皇女との間に3人の皇子をもうけていた生没年不詳の人物でした。
長男の多良王が百済最後の王の義慈王です(扶余豊璋藤原鎌足の父)。次男が、中大兄(天智天皇)の父とされた田村王です(天智天皇の父舒明天皇とされています)。三男の中津王(なかつのみこ)が中大兄(なかのおおえ)天智天皇だった推理しました。
また日本書紀の中で、天智天皇と兄弟とされた天武天皇は、ニギハヤヒ大王の直系の敏達天皇を討って607年に隋に朝貢した二人目のアメノタリシヒコ用明天皇(蘇我馬子ということにもされていた)の孫だったと推理しました。
皇極・斉明天皇とされた押坂彦人大兄皇子の孫宝皇女(正しくは宝王、どちらも「タカラノヒメミコ」)と天智天皇の母糠手姫皇女の名前がたまたま同じだったことから、ニギハヤヒ大王の子孫である天智天皇の正体を隠すためにスサノヲ大王の子孫の天武天皇と兄弟ということにしたと推理しました。古事記は糠手姫皇女が宝王だったと暴露したので分かりました(^_-)-☆
暗号を解くと日本と百済との関係が本家と分家の関係だったことが分かりました。
天智天皇がヤマトの大王ではなかったことを藤原不比等が隠したかったのです。そのために、ヤマトで即位していない天皇の前例を創作するために、謎の多い継体天皇を登場させたのだと推理しています(^_-)-☆
つまり、継体天皇も存在しないと分かりました!
詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」を参照してください(;^ω^)
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通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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