刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

銅鐸文化が消える頃、何があった?(^_-)-☆

2024-12-22 15:21:56 | 古代史

いつもご訪問ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )


【都市伝説】卑弥呼が宇佐神宮の祭神?!( ^)o(^ )

2024-12-21 11:55:37 | 古代史

いつもご訪問ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

とてもいい話題を有難うございます。

宇佐神宮の二之御殿の祭神比売大神は宗像三女神とも伝えられていますが、宗像三女神の降臨伝承地が宇佐神宮の奥座敷宇佐市安心院町下毛の三女神社です。

地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいますが、「三は妙だ!女は少ない」という謎かけだったのです。一の鳥居に「二女神社」とありますから、その先の社殿には一人だけです。それが卑弥呼だったと突き止めました。

社殿の西側に深さ1m、幅2.5mのV字溝があり、その中から銅鏃が1こ見つかっていますから、城柵になっていたはずです。神社の南側は崖になっていて下に深見川が流れています。神社の東側の参道には高さ2mくらいの土塁になっています。

北側は弥生後期の宮ノ原(みやのはる)遺跡があり、この周囲には石棺群が8つ発見されていますが、その一つが奥城古墳で、直径約120mで高さ約10mの円墳です。現在ブドウ園の展望台になっています。その東側にも少し小振りの円墳の大平古墳があり、石棺からこの遺跡では一番沢山の副葬品が出土しています。中に三角縁神獣鏡の破片があるので、卑弥呼の死後にヤマト王権から派遣された同族の水沼君のものと考えられます。この地で宗像三女神の奉斎を行っていたと日本書紀にあります


(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)

さて、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓「径百余歩の冢」(直径150mの塚)が三女神社の西500mに在りました。ただ土を20m位盛り上げただけの円形墳墓「三柱山古墳」ですが、墳頂に石棺があったようなのですが、家族旅行村の建設工事で石棺が壊されて、円墳の裾部分に置かれています。蓋のような石板が二枚墳頂付近にありました。裾部分にはバンガローがいくつか作られており、宿泊施設になっています。

三柱山古墳の西側の原野の地名が「血野」なのです(現在「知野」)。地元では、戦国時代の安心院氏の若様が惨殺されたとありますが、恐らく卑弥呼の奴婢約100名が殉葬のために殺された場所だと推理しています。三柱山古墳の南400mの河原に同じ三女神社があり、石塔が三つ古墳に正対して置かれており、墓の遥拝所になっています。そして、神社の上の道に土が高く盛り上げられて、横穴が見られます。ヒカケ横穴群と呼ばれていますが、一つの横穴の入り口に馬頭観音像が置かれていますので、女神アマテラスの岩戸隠れを連想するものです。地名のヒカケは日欠けつまり日食のことだと思います。卑弥呼が日食が起こったために殺された史実から、天岩戸神話が作られたと分かります(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。

多くの皆さんは、記紀神話が江戸時代にできたと言ったら驚くと思いますが、本当ですよ。

それまでの神話は日本書紀の神話が、神仏習合、修験道や道教の影響を受けて、ナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀に変貌していたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書)。明治時代に廃仏毀釈運動が全国で起こって、ほとんど打ち壊されて、記紀神話に基づく国家神道が創設されて、学校で国史が教えられたので、戦後の日本人も太古からの伝承だと思わされています。

でも、事実、つまり考古学や民俗学の成果とほとんど合わないのです。日本書紀は天武天皇が編纂を命じた現存する最古の正史と習っていますが、崩御して34年後の720年に時の権力者藤原不比等が完成しているのです。712年に完成したとされる古事記ですが、9世紀の日本書紀の勉強会で突然表に出てきたものなのです。正史に記録はないですし、日本書紀が参照した形跡もないのです。日本書紀の神代や人代に合わせて作られていますが、所々内容が異なります。事実から不比等が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だと分かりました。不比等の意図を推理して、暗号を解けば古代史の真相に近づけることが分かりました。記紀は天皇の歴史書ではないのですよ。詳細は「刮目天の古代史 記紀に基づく想像は古代妄想だった?(;´Д`)」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!

考古学や民俗学などの成果に加えて、卑弥呼の巨大円墳が見つかっていますので、可能性が高いと思います(^_-)-☆


(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。

魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆

魏志倭人伝の行程記事は政治的に作られたものなので、いくら正しく解釈しようとしても、みんなが納得する倭国女王卑弥呼の邪馬台国にはたどり着けませんよ(;^ω^)。

ですから、魏志倭人伝の邪馬台国を特定する記述や考古学や民俗学の成果から候補を探す必要がありますよ(詳細は「【邪馬台国問題】誰もが納得できる解決法とは?(#^.^#)」参照)。


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )


小銅鐸は奴国の宮廷祭祀用か?!(^_-)-☆

2024-12-20 21:14:24 | 古代史

いつもご訪問ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

 
結局馬の渡来よりも銅鐸の方が早く来ちゃったので、なんの道具かわからずに、楽器にしてしまったように思います。 で、日本国内で再現したときに、飾りをつけたり、大きくしたりしたんじゃないかな? 当然馬に装着するとは思ってない様子。 なんとなく、祭祀というよりはイベントのときに鳴らすものだったように感じます。なのでだんだん大きくなっていったんじゃね? 三種の神器とか十種の神宝には「入ってない」のをみるに、実は思ったほど重要ではなかったのかもしれませんなぁ。

@katumoku10
YOさん、こんばんは!

小銅鐸は、周代以前から楽師が祭祀で音を鳴らす楽器編鐘の一部だと思います。日本では全部そろったものは発見されていませんので、多分、一個か二個でやっていたのかも知れませんね(注1)。(2024.12.21 赤字修正)

倭国王帥升ですが、帥姓の本は師姓で、西晋時代に司馬師の諱を避けるために帥姓に変えられたと文献にあります。その師姓は「風俗通義」によると殷王朝時代から楽師の官位を表す姓とありますので、師升は奴国宮廷楽師だったようです(注2)。

それが反乱を起こして奴国王(宋史王年代紀十八代王素戔嗚尊)を殺して倭国王に認められるために160人ものスサノヲの部下らを生口として献上した人物です。

聖職者だった証拠が1948年に室見川河口で発見された黄銅製文鎮のような金属板「室見川銘板」で、延光四年125年と彫られており、金文の内容が祭祀を整えたというものなので、伊都国を王都とした師升王が作ったと分かりました。師升の祖先は恐らく徐福が連れて来たシナ人と推理しています。王殺しは平気ですから( ^)o(^ )(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)

スサノヲを拷問して全財産を贖罪としたことが古事記にありますので、恐らくスサノヲの部下のアズミ族(江南系倭人)がいち早く金印を持ち出し、逃げる途中で志賀島に埋めたようです。それがたまたま江戸時代に発見されたのでしょう。漢代の金印の金の純度が95%もあるなどというのは、現代になっていくつか金印が出土して分かったので、贋作などは不可能でしょう。もしも贋作ならば、職人に作らせるための指示書が見つからないとダメですね。これは河村哲夫先生の動画で勉強しました(;^ω^)

 

(注1)

1.韓国式小銅鐸……宇佐市別府遺跡(参照:史料5
 1977年に発見されたこの小銅鐸はわが国発見韓国式小銅鐸の第1号で、以来後続資料の発見はない貴重品である。後原総高11.6センチで、韓国慶尚北道月城郡入室里遺跡発見の第1号小銅鐸と形状・法量ともに最も近似している(「北部九州(大分)の弥生文化と半島系遺物」より)。

紀元前473年に滅んだ呉の王族が半島南部に逃れて、祖霊祭祀に使用したと推理しています。元々は呉の宮廷で以下のような編鍾を使用していたと思われますが、逃避先では資力もないので大掛かりなものは作れなかったので、1・2個で代用したのではないかと考えています。

wiki「編鍾」によると、「1978年湖北省随県戦国時代初期の遺跡曾侯乙墓で出土したもので、鐘ですから舌があって揺らすと音が出る楽器」で、「春秋時代ごろに出現した。上流社会で使われ、権力の象徴でもあった。」とあります。中段のものはハンドベルのようなものですが、下段の大きなものと上段の小さなものは握りがないし、舌の下のヒモもないようですので、棒で叩いて鳴らしたのでしょうか。韓国式小銅鐸は木の枝などに吊るし、舌の下のヒモを引っ張って鳴らしていたようですが、大きさと形状が上段のものに近いです(^_-)-☆

(注2)シナ版wiki(维基百科)「帥姓」によると「西晋の武帝司馬炎は、叔父の司馬師の後を継いで晋の景帝となり、世に「師」という名前を使うタブーを避けるよう命じたため、師の姓を持つ一部の人々が改名されました。」(Google翻訳)とあり、帥升は奴国宮廷楽師の師升です(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

【関連記事】

王年代紀が古代史の謎を解く!

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が倭国から変わったことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

師升らのクーデターで奴国王スサノヲを捕らえて拷問して殺したことが古事記にあります。金印の在りかを白状させて、奴国王に成りすますためですね。「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐(その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)

帥升が奴国宮廷楽師だったと分かる物証がこれですよ(^_-)-☆

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )

 


いよ~待ってました日本一!桃太郎侍の登場だ!

2024-12-19 11:55:00 | その他

 

減税すれば、増税があるぞ!」という脅しはマスメディアを使った日本のディープステートのプロパガンダですよ。

この30年、経済成長せず、国民を貧困化させ、子供の生まれない国にしたのは財務省主導の自民党政府だというのが事実でしょう!

財政健全化というのは消費税増税して国民から巻き上げて、法人税を減税して、税金を天下りの原資に使ってきた罪務官僚の犯罪的行為のための、デタラメなプロパガンダでした。外国なら懲役ですよ( `ー´)ノ

越後屋、おぬしも悪(わる)よの~!

いえいえ、お代官様ほどではございませんよ。ハハハハハ・・

政財界が大手マスメディアを使って国民を食い物にして来た結果なのですよ(*´Д`)

政府の借金は国民の債権、「政府の赤字はみんなの黒字」というのが正しいのですが、「赤字国債が国民の借金」という誤魔化しが今度の国民民主党の手取りを増やす政策によって、より多くの国民に明らかになると思います。

1年103万円で暮らせるなら何億も稼いだ天下り官僚から全財産没収して、103万円ポッキリ与えて生活させたら分かりますね。

今日はマスメディアの国民支配が終わって国民が悪党から解放されることを伝える歓喜のラッパに聞こえてきます!南無阿弥陀仏!

今まで国民に寄り添った政策をしようとした国士たちが強大な権力で潰されてきましたが、ようやく気付き始めた若い国民の後押しで桃太郎侍の登場ですよ(^_-)-☆

「ひとつ、人の世の生き血を啜り」

「ふたつ、不埒な悪行三昧」

「みっつ、醜い浮き世の鬼を退治てくれよう、桃太郎」

国民民主党が頑張って全ての国民が悪の構造を理解すれば、ディープステートは消滅して、再び日本は繁栄しますよ(#^.^#)

若い世代は期待しています、我々老兵は若い人を応援しましょう!(;^ω^)

【関連記事】

日本の店じまいか?!"(-""-)"

 


(2022.10.26 キャプチャした図に年度と法人税の推移を書き入れました)

青いバーチャートが民間企業の貯蓄を示し、マイナス側が借り入れ金の割合です。赤いバーチャートが政府の財政収支で、マイナス側が財政支出の割合です。ネットの資金需要は企業と政府のそれぞれの割合を足したものです。どれだけお金を家計に回せるかという指標です。

政策の財源は国債発行なのです。
税は財源ではなく、経済格差の是正や景気調節などのために用いるものです。
国債の累積残高などは財政政策に影響はないのです。
ネットの資金需要(企業貯蓄率+財政収支)」という正しい指標で財政運営すればいいのです。
家計の消費拡大により企業の設備投資や雇用が増えます。
名目GDPを増やす経済成長をすれば新規国債の許容発行量も増えて様々な政策を実行できるようになります。

消費税を廃止して、社会保険料をゼロにし、ガソリン税、公共料金、有料道路の料金なども軽減すれば、国民負担率は下がり、可処分所得が増えますから、経済活動が活発化して、日本経済は確実に復活します。

将来に希望が持てれば、若者は結婚して子供が生まれます。

希望のある政策をするのが本当の少子化対策です。

【参考記事】

重要なネットの資金需要の論点を理解して下さい
「岡三証券:アンダースロー(日本経済の新しい見方)」2022/10/20転載

要旨
新しい資本主義の定義は、まずは積極財政の力で、ネットの資金需要(企業貯蓄率+財政収支)を新しい目標である、対GDP比-5%に拡大して、その水準を維持し、家計に所得を回すことだ。もちろん、米国や英国のように、ネットの資金需要を-10%より強くしてしまえば、インフレが問題化してしまうことになるので、そうなってはじめて、財政政策を緊縮にすべきだ。ネットの資金需要が過大であった米国と英国のインフレは、ネットの需要が過小であった日本の状況とは全く違う。

ネットの資金需要を、過小な0%でも過大な-10%でもなく、適度な-5%に維持することが、新しいマクロの財政規律になる。プライマリーバランスの黒字化というこれまでの財政規律は、経済の状況がどうであれ、財政黒字を目指してしまうことで、マクロ経済を考慮することができず、質が悪すぎた。古い財政運営を維持して、プライマリーバランスの黒字化を強行して、またネットの資金需要を消滅させれば、家計に所得は回らず、新しい資本主義は失敗してしまうことになる。

【経済対談】「気鋭のエコノミスト・会田先生登場!

金融・経済主流派ではできないデフレ脱却の答えがここにある「ネットの資金需要」とは」

西田昌司×会田卓司 シン・アベノミクス対談VOL.1 配信日:2022年9月1日
ネットの資金需要という指標は岡三証券のエコノミスト会田卓司さんが提唱した新しい、正しい考え方です。

ポチっと応援、よろしくお願いします( ^)o(^ )


【邪馬台国問題】倭の地に馬は居た?( ^)o(^ )

2024-12-18 20:16:12 | 古代史

いつもご訪問ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

#魏志倭人伝の版本についてちょっと間違ったので、赤字で訂正しました。よろしくお願いします(;^ω^)

2024-12-16 00:23:45 に記事にした「縄文人ってなんで創意工夫が得意?( ^)o(^ )」でご紹介した下の動画の中のYOさんのコメントに対して、以前やり取りをしたことのあるユーザーさんがこれに関して対馬についていいご意見をコメントされたので、ついコメントしました。しかし、この方は馬は居ないと考えているようなので、当方のコメントが消されてしまいました。でも、魏志倭人伝の解釈で重要だと考えるので、あえて公開させていただきました。よろしければ、い付き合い下さい(#^.^#)

 
結局馬の渡来よりも銅鐸の方が早く来ちゃったので、なんの道具かわからずに、楽器にしてしまったように思います。 で、日本国内で再現したときに、飾りをつけたり、大きくしたりしたんじゃないかな? 当然馬に装着するとは思ってない様子。 なんとなく、祭祀というよりはイベントのときに鳴らすものだったように感じます。なのでだんだん大きくなっていったんじゃね? 三種の神器とか十種の神宝には「入ってない」のをみるに、実は思ったほど重要ではなかったのかもしれませんなぁ。

@北島正隆-d5x
銅鐸が馬より早く渡来してきたので何の道具か分からなかった、とします。
魏志倭人伝に書かれた「其の地に馬~カササギはいない」という部分と一致しますし、
YOさんが仰る「馬に装着するとは思わなかったので大型化した」という考察とも一致します。

すると、対馬や投馬の馬はどういう意味だったんだろう、という疑問が湧きます。馬はいなかったはずなので。

対馬は倭では「ふたつしま」や「ついのしま」と呼んでいたのなら(それが日本書紀には津島という表記になる)二島や対島などの表記になりそうです。

が、対馬という漢字であれば、倭人も中国人も「ツシマ」という発音もできるし表記も一致する。
釜山(中国側)から見た時に対になった馬のように見える、という大義名分も立つ。

とかなのかな、と、妄想があらぬ方向へ行ってしまいました。
投馬は分かりません。。。

@katumoku10
 @北島正隆-d5x  さん、こんばんは!上でも述べましたが、国名や役職名などは漢字の意味を知っている人物、つまり本当の倭国王難升米(倭国王帥升の子孫の王の襲名)が書いて帯方郡太守に教えたものだということが分かりましたので、馬は居たようです。

投馬国は馬を与えた国という意味だったのですよ。私はみやこ町節丸の在馬古墳あたりが長官弥弥(多分、耳にデカいリングを付けていたようです)が居た場所だと推理しています。

多分、倭国王が公孫氏から中平紀年大刀と同じように拝領していたと推理しています。天理市東大寺山古墳から出土した大刀や馬は、卑弥呼(市杵島姫は天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)の一族赤坂比古(卑弥呼の父、和邇氏の祖)に下賜したのだと推理しています。

だから公孫氏との結びつきが深いことを言えないので、魏の役人には馬は居ないとウソついたのでしょう。


(「投馬国へ水行してみませんか?」参照)

 

赤坂比古は正始四年に朝貢した正使伊聲耆です。伊は聖職者で、耆は年寄りの意味です。密室で卑弥呼が発する太陽神の神託を解釈して、部下や民に聲(声)に出して伝えるシャーマン王だと分かります。

実は伊聲耆は官位を貰えず、上洛の途中で死亡したようです。副使掖邪狗等八名が率善中郎将とされ、印綬を賜っていますから推理しました。掖邪狗は「ややこ」だとすると、稚児の意味ですから、赤坂比古の後継者で卑弥呼の弟だと推理しています。

このように、魏志倭人伝の中の倭国の国名・役職名などは意味のある漢字をあてていますので、推理できました。卑弥呼など卑字が多用されているのは、漢字を読み書き出来ない縄文系(ムナカタ海人族)の部下を馬鹿にして書いたものだと分かりますよ。ですから、倭人語はこれからもっと解明されるはずですよ(#^.^#)

******************************

対馬についても考えてみました。北島さんに、現在の対馬が何故「ツシマ」になるのかを解説頂いたのですが、魏志倭人伝の版によって対馬国なのか対海国なのか異なり、現存の最古の版「紹興本(紹興年間、1131~62年刊行)」では「對馬国」とされ、「紹煕本(紹煕年間(1190年~1194年))」では「對海國」とされています。

唐初に張楚金が 著した類書 (百科事典)「翰苑」の雍公叡の注にある「魏略」逸文に対馬国とあったので紹興本が正しかったということのようです。

したがって、対馬の由来は紹興本の魏志倭人伝からというのが通説ですが、対馬国は「対になった馬の国」というよりも「海に対面する(向き合う)国」と言う方がしっくりします。「海」が何故、全く異なる「馬」に変わったのかは難問ですね。

wiki「魏略」によれば、「魏略」の著者魚豢(ぎょかん)については事績が伝わっておらず、『魏略』の作者であること以外はほとんど分かっていない。『三国志』の裴松之注に引用され残る文により、劉表[1]と面識があったこと、その後魏に仕えたことが記述されている程度である。

成立年代は魏末から初の時期と考えられるが具体的には諸説ある。劉知幾は「(記載の対象とした)事績は明帝期で止まっている」とするが、実際はそれ以降の記事もあり、最も新しいと思われるのは『三国志』賈逵伝注に引く甘露2年の記事であるため[2]、これ以降に書が完成したか製作が中断したものと思われる。また、魏や晋の重要人物のを使用していることが指摘されている。

つまり、「三国志」が「魏略」を引いたのか?あるいは逆なのかもはっきりしないのですよ(^_-)-☆

「1」『呉書』張昭伝注『典略』。筑摩書房版日本語訳では劉備と訳しているが、原文は「劉荊州」とあり、荊州であった劉表を指すと思われる。

「2」 張鵬一は景元2年(261年)の記事が最も新しいとするが、この記事の存在は確認されていない。また『太平御覧』巻495には太安2年(303年)の記事があるが、さすがにこれは時代が下りすぎているとして引用誤りか後代の挿入であると考えられる。

とありますから、対馬の由来は「魏略」逸文によるというのが正しく、魏志倭人伝の原本には「対海国」とあったのではないかと思います。

では、なぜ「魏略」逸文に「対馬国」とされたのかですが、これが写本のときに誤って「海」が「馬」と書かれたのか?「ウミ」と「ウマ」の発音は似ていますが、その発音は倭人語ですよ(^_-)-☆

単純な誤写ではないようです。「魏略」逸文の写本の際に、倭の地に馬は居ないというウソに気付いた倭人がそれとなく暴露したのだとすると、しっくりしますが、それが本当かどうかは今のところ分かりませんね(#^.^#)

【関連記事】

倭人語解明のヒントだ!(^_-)-☆

消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆
宗像女神市杵島姫命卑弥呼をワニの一族としました。当時のワニは鮫のことですが(^_-)-☆

中平紀年銘鉄刀は卑弥呼のものか?(*^▽^*)

卑弥呼が公孫氏から貰ったものではなく、本当の倭国王難升米が貰ったのを卑弥呼の父赤坂比古(和爾氏の祖)に下賜したということですよ(^_-)-☆


 

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )