刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】倭国王帥升のなぞ( ^)o(^ )

2025-01-19 16:54:28 | 古代史

いつもご訪問、ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )

 

日本の歴史上の最初の人物としてシナの文献(范曄「後漢書 東夷列伝倭条」)に登場するのはこの人物です。ほとんどこの人物については知られていませんが、正しくは師升ですので、奴国の宮廷祭祀を担当していた人物です。紀元前219年に奴国王(海神・水神)の要請で来日した方士徐福の一行のシナ人の楽師の子孫だったと推理できます。北部九州などで出土した小銅鐸は奴国宮廷祭祀で使われたものでしょう(詳細は「小銅鐸は奴国の宮廷祭祀用か?!(^_-)-☆」参照)。

 

この時の奴国王は宋史 王年代紀十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)です。記紀神話では高天原から追放されたと暴れん坊の神とされています。十六代王伊弉諾尊(イザナギ)と縄文系ムナカタ海人族の姫伊弉冉尊(イザナミ)との間に生まれた人物です。スサノヲ大王は半島南部の鉄素材を入手するために、丹後半島の玉造工房を整備し、ムナカタ海人族と生活を共にして縄文文化に親しみました。そのため、王宮(春日市須玖岡本遺跡)を留守することが多く、宮廷祭祀を師升らに任せっきりでした。たまに王宮に帰還すると縄文式の大きな「見る銅鐸」を祭祀に導入するように命じたのだと推理しています。そのために、師升らは反乱を起こし、スサノヲを捕らえて拷問した様子が古事記に見られます。つまり、後漢光武帝より賜った金印の在りかを白状させ、奴国王に成りすますためだと考えられます。しかし、いち早くスサノヲの部下が持ち出し、逃亡する途中で志賀島に立ち寄り、土の中に隠したことが江戸時代になって百姓によって発見されたのです。師升王は金印が手に入らなかったので160人ものスサノヲの家臣らを後漢に奴隷として献上して倭国王に認められたということでしょう。

 

倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

 

奴国宮廷楽師らが反乱を起こし、王に立った師升が伊都国に王都を遷し、新しい王宮(糸島市三雲遺跡、井原鑓溝遺跡は師升王の墓と推定)で祭祀を整えたと分かる証拠が、糸島市の東隣りの福岡市西区を流れる室見川の河口で1948年に発見されています。後漢安帝の延光四年(西暦125年)と彫られた黄銅製の文鎮状の金属片「室見川銘板」です。現存する日本最古の金文です。祭祀にこだわる内容の文字が彫られているので、師升王は奴国の司祭だったと分かりました。


【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆

魏志倭人伝に現れる伊都国というのはとても深い意味のある国名で、魏の役人が書いたものではないことは明らかなのです。

Wiktionary「伊」にその語源が以下のとおり説明されています。

「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。

倭国王となった師升は、楽師の姓である「師」を「儺」に変更して儺升としています。「儺」の文字は「追儺(ついな)」、つまり「鬼やらい」を意味します。当時はニンベンを省略する減筆が流行していたようですので難升と書かれます。魏志倭人伝に景初三年(239年)六月に帯方郡に訪れた倭大夫難升米は師升王の一族の人物だったと分かります。記紀で「米」は「頭目(かしら)」を意味する文字でもあるので、難升米は師升王の子孫の倭国王という意味だったのです(「儺升」も難升米が作ったのかも知れません)。

難升米は、放蕩者の王を追放した伊尹の事績を司馬遷「史記 殷本紀」や「孟子・尽心上篇」から知っていたので、楽師師升の事績と重なるとして「伊都国」という国名を漢字で書いて帯方郡太守に教えたのです。難升米以外に伊都国と漢字で書ける人物は居ません。つまり、魏志倭人伝に記載された倭国の人名(役職名)や国名は難升米が書いたものだと判明しました。

伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆


伊都国の意味がヒントだった?(@_@)

したがって、邪馬台国への行程記事はある政治目的で難升米と帯方郡太守の談合で作られたものであると推理できるのです(詳細は「【邪馬台国問題】陰謀論と陰謀説を区別しましょう(^_-)-☆」参照)。ですから、行程記事をいくら正しく解釈しても、邪馬台国への正しい場所にはたどり着けないのです。だから、江戸時代から三百年かかっても解決できなかったのです。

このことを認めれば、行程記事は一度横に置いて、邪馬台国に関するその他の記述から候補を探すことで問題を解決できます(^_-)-☆

そして、卑弥呼の墓の有力な候補「三柱山古墳」を発見しました。よろしければ「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(#^.^#)

【関連記事】
【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)
徐福が弥生の産業革命の担い手を連れて来たので、良くも悪くも、その後の日本の歴史が大きく変わったのですよ(^_-)-☆

 

(注1)「倭人(Y-DNA O-47z)」というのは、日本人の古い呼び名です。様々な意味があるように言われていますが、後漢説文解字: 「倭」の項に、<人部> 順皃従人委声「順なる貌(すがた)。人に従い、委(ゆだねる)の声」とあります。つまり、倭人は「支配者に従順な人々」という意味が本当のようです(詳細は、「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。

倭人の発祥の地はシナの新石器時代の長江下流のようです。紀元前五千年頃から世界最古のイネ栽培を行っていたことが浙江省河姆渡遺跡で1973年に発見されています。イネの他に「ヒョウタンヒシナツメハスドングリなどの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジシカトラクマサルなどの野生動物などの水生生物ブタイヌスイギュウなどの家畜も発見された。」とあります(wiki「河姆渡文化(かぼとぶんか)」)

紀元前三千五百年ころから良渚文化の担い手の原始夏人(Y-DNA O1a)が先住民の倭人の居住域に登場しました。彼らは倭人を使役し、宮殿と取り巻く城郭都市墓地工房などの中国最古級の都市遺跡を建設したと推理しています。

この良渚文化は紀元前二千二百年ころ突然消滅し、その遺民が紀元前千九百年ころ黄河中流域で二里頭遺跡を建設したことが古い伝承に見られます。三皇五帝神話では人類の始祖神天皇伏羲と人皇女媧の子孫の禹(う)が夏王朝を興したとなっています。これが呉の太伯の祖先ということで、初代奴国王天御中主の祖先、つまり皇祖神ということになりますよ(^_-)-☆。

詳しくは「中国神話は日本人の神話だった?」をご参照ください(#^.^#)


【刮目天の古代史】消された吉備の大王ニギハヤヒの謎?( ^)o(^ )

2025-01-18 17:21:15 | 古代史

いつも応援、ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ 

 

饒速日命(ニギハヤヒ)は日本書紀 神武東征神話で、先にヤマトに降臨していた天孫として登場させています。ニギハヤヒが義理の兄長髄彦(ナガスネヒコ)を斬って初代天皇をヤマトで即位させたとしています。

しかし神武天皇は実在人物の応神天皇の史実を隠すための虚像なのです。

史実は、ニギハヤヒの子孫で、吉備から纏向遺跡に遷都した狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)が西晋に朝貢した大国主と外交上倭国女王とした妃の台与らを討って日本を統一したのですが、280年西晋が狗奴国の後ろ盾の呉を討ったので、次に狗奴国が西晋に討たれることを怖れて、大国主と台与の遺児ホムダワケを探し出して纏向遺跡に呼び寄せて、初代ヤマトの祭祀王(応神天皇)に即位させたのです(日本書紀 崇神天皇紀の大田田根子の話)。つまりホムダワケを倭国の正統な後継者とし、狗奴国の王都だった纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにしたのです。

ですから、ニギハヤヒに斬られたナガスネヒコ話は、ニギハヤヒの子孫狗奴国王に討たれた大国主のことなのです。古事記では例によって、ナガスネヒコを登美彦(トビヒコ)と呼んでヒントを与えてくれました。トビは蛇神大国主の別名なのです。富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」(学生社)に以下の記事があります。

▲登美彦と金色のトビ
 さていよいよ南から大和に入った天皇は、ここに長髄彦(またの名、登美彦)を撃つことになった。しかしどうしても勝つことができない。その時である!!たちまちにして氷雨がふりはじめ、はるかに「金色の霊鵄(トビ)」が飛び来って、天皇の弓の弭はずにとまった。その鵄の光りかがやいて流電のごとく、長髄彦(登美彦)の軍兵は眼がくらんでしまった。これを鳥見とみ村というのは、鵄の村というのが訛なまったのだ(書紀)という。現在では富雄(トミオ・トミノオ)となっている。この一文の真意を考えると、じつはつぎのごとくであろう。すなわち、金色の鵄は、本来は登美彦のトーテム――生駒山の山ノ神-ではなかったか。登美彦の名(登美)と鳥のトビと通ずることである。しかもこれは、さきにも記したように『宇佐宮託宣集』に八幡大神の発現として、「霊蛇、化して鳥となる」のことがあった。そしてこの霊蛇をトビ(あるいはトベ)とよぶこと、そしてまた緒方・佐伯氏の大蛇神婚の説話にもあるように「富トビ之尾」明神と祀られたこと、これらによってみても、登美彦の「登美」というのはトビすなわち大蛇神(生駒山の山ノ神であり、登美彦のトーテム)であって、それが時に「化して鳥(トピ)」となったものであろう。金ノ蛇→金の鳥(トビ)、また白蛇→白鳥の図式そのままの典型的な実例の一つである。そのトビが登美彦の側から飛び移って、天皇の弓にとまったのである。こうなってはもはや登美彦は、天皇軍に敗れざるをえなかった。書紀の一文の真意は、こういうことではなかっただろうか。

 

ニギハヤヒは宋史 王年代紀十八代奴国王素戔嗚尊(スサノヲ)の弟です。スサノヲは107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは奴国宮廷楽師師升)に殺され、倭国を奪われました(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」参照)。師升らの反乱を出雲に逃れたニギハヤヒと王子イタケルらは日本ピラミッドで兄を弔い、復讐を誓いました。

イタケルは出雲王となり、その子孫が倭国大乱で活躍した八束命・日高彦・高野御子(大国主)で、ムナカタ海人族を束ねる三代の王です。日本書紀は日向三代の神話で史実を隠しています(詳細「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)」参照)。

 

一方、ニギハヤヒは、父伊弉諾尊(イザナギ、17代奴国王)に吉備を任された部下が裏切って師升の倭国側に着いたので討伐に向かいます。これが日本書紀のイサセリヒコの鬼退治の話しで、吉備津彦神社に伝承が残されています。ニギハヤヒは瀬戸内海航路の要衝の吉備を根拠地にして、隆盛になり奴国を再興し倉敷市楯築王墓に葬られました。

【大発見!】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)

倉敷市楯築王墓の神社のご神体が人面蛇体の亀石(弧帯文石)ですから、被葬者は第十九代奴国王天照大神尊で先代旧事本記の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ニギハヤヒ大王なのです。天皇号が文献に出るのは7世紀末ですが、倭国の人々は奴国王が天皇伏羲の末裔だと理解していたのです。それが魏略にある「倭人は太伯の後」という記述の意味するところだったのです(^_-)-☆

ニギハヤヒ大王は吉備でヤマト王権の基礎を築いた人物で、今上陛下の祖先です。平安時代の貞観の前あたりから地殻変動が活発となり、地震や津波や火山噴火が各地で頻発するようになり治安も乱れたので、朝廷は皇祖神二柱に特別な神階「品位(ほんい)」を差し上げ、田などを寄進してご加護を祈りました。その二柱は淡路国一宮の伊弉諾尊と備中一宮吉備津彦だったので、ニギハヤヒのことだとバレてしまいました(;^ω^)

【関連記事】

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)
子供向けの昔話に古代史解明のヒントがあった(@_@)

日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )
鬼叫山で師升たちに復讐を誓ったのは誰だ!


天照大神を男神とする説(^_-)-☆
江戸時代の文化人たちは伊勢の神がヘビだと知っていました。記紀神話は江戸時代にできたのですから(^_-)-☆


謎の月読神の正体はヤッパリ(^_-)-☆
いくら吉備津彦の話で誤魔化してもばれてしまいました(*^▽^*

 

【参考記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


 

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )

 


卑弥呼はいつ、どこで日食を見た?(#^.^#)

2025-01-17 17:34:26 | 古代史

いつも、ありがとうございます。よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

#卑弥呼の日食に関して、4年ほど前のKawakatuさんの記事「アマテラス=卑弥呼、日蝕=天岩屋戸、藤原不比等策謀に見事にはまった空想小説」でコメントのやり取りをしていたのを失念して、以下の記事に次のようなコメントを差し上げたら、その中で紹介した拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」に以下のようなお返事を頂きました。

日牟禮八幡神社について
コメント感謝します。
この神社があるのが日蝕山とうのと不比等が名前を変えさせた記録があるというのが味噌です。

記事にしてくれてありがとうです。
卑弥呼は滋賀にいたか?日蝕山日牟禮(ひむれ)八幡宮(

 

いろいろと試行錯誤しながらやってますが、卑弥呼の日食は273年3月24日日没時に起こった日食です。北九州市周辺は皆既日食ですが、卑弥呼の居た安心院町宮ノ原遺跡や本当の倭国王難升米が見たのは深い食で、伊都国では夕日が欠けながら海に沈んで消える珍しい日没帯食だったのです。朝になるまで太陽が再び登ってこないかもしれないと本当の倭国王の難升米は心配したことでしょう!丁度狗奴国の大軍が押し寄せる情報が、瀬戸内海に配置した高地性集落の狼煙で分かっていたので、不吉な前兆と見て、卑弥呼暗殺に踏み切ったのです。

卑弥呼は毎晩、河原の露天風呂に入って、濁り酒を飲む習慣があったので、湯から裸のまま引き出されて剣で刺されたのでしょう。手引きしたのが難升米のスパイ、卑弥呼の傍に仕える唯一の男だと推理しています。もう、ドラマ化できそうですよ。どこかで映画を作って欲しいですよ。監督に知り合いは居ませんか?(^_-)-☆

(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)

Kawakatu

知り合いの映画監督は以前いましたが、残念ながら数年前に亡くなりましてね。俳優でもあったのですが。

katumoku10

それは残念です。その監督のパートナーとかで、もしも興味があればご紹介ください。映像にすると説得力が増しますから(;^ω^)てな感じのコメント差し上げました。

それで、卑弥呼の日食の話ですが、Kawakatuさんは以下のように述べられています。

さて卑弥呼には大変アンラッキーなことだが、彼女の晩年に、もう1回皆既日食があり,それは翌248年9月5日の早朝だったという。これだけでも女王殺しの理由になるほど、二度の皆既日蝕は古代において重大すぎる事件である。ただの自然現象=事故なのだが事件になってしまう重大事だったろう。なぜなら卑弥呼は巫女だからだ。日蝕を二度も予言できなかったとしたら、それだけで王殺しの理由になれる。しかもこの時代、大陸は三国志の戦乱時代である。朝鮮半島情勢も大混乱のさなかであり、安定していた地域は中華三国の喧噪や、半島三国の喧噪から離れた「公孫氏燕国」だけである。ゆえに卑弥呼も公孫氏とのつきあいで、魏よりもむしろ孫権の呉と深く関わった。その証拠が神獣鏡などの呉のデザインの鏡であろう。呉は長江河口部にあって黄河河口部の魏よりも、南方系の道教より古い神仙思想のメッカであり、公孫淵の信仰もまた神仙思想に満ちた「鬼道」すなわち五斗米道のようなものだった。

翌年248年9月5日の日食も調べたのですが、「西暦 247 年 3 月 24 日の日食は、午後 5 時 20 分頃に欠け始め、一時間後にほほ完全に欠けたところで日没を迎えた。一方、248 年 9 月 5 日には、午前 5 時 55 分頃に大部分が欠けた状態で陽が昇り、一時間後には日食が終了し円形の郎陽に戻った。」とありました(酒井正士「西暦 247 年および 248 年の日食と天の岩戸伝説」より)。酒井氏は以前拙ブログ邪馬台国は別府だったのか?!(*^▽^*)」で話題にさせていただいた全国邪馬台国連絡協議会に所属されて別府説を提唱する方で、生命科学・生物化学分野の専門家でした(#^.^#)。

卑弥呼は宗像三女神市杵島姫と推理していますので、おっしゃるような神仙思想の鬼道ではないのです。卑弥呼はまた倭国王ではなく、公孫氏と付き合いがあったのは本当の倭国王だった伊都国男王の難升米だったのです(詳細は「絹織物も馬もすでに倭国に在った!(^_-)-☆」参照)。

卑弥呼の仕事は自然現象の予言もあるかも知れませんが、自発的なものではなく、シャーマン王の要請で太陽神の神託を口寄せする巫女だと推理しています。鏡は道教や神仙思想とは関わりなく、おそらく鏡で太陽の反射光を卑弥呼の顔に当てて、トランス状態になるための道具のひとつに過ぎないのではないかと思います。ただ鏡にはそのような効果があるので、神に近い存在なのでしょう。「かがみ」という言葉は瞬きひとつしない「かが」(ヘビ)の眼から来ているといわれています。ヘビもまた古代人が畏れる神のひとつなのです。佐藤弘夫「日本人と神」(講談社現代新書)の中で、「人類がカミと感じるのは人々に畏怖の念を抱かせる自然現象(イナズマ・台風・太陽・月の天体運行など)や超人的な能力の動物(クマ・鳥・マムシなど)や、巨木・巨石などの奇観のスポットという具体的なモノであり、これらが始原的なカミの姿だった」と説明されています。多くの方が信じている山川草木に霊が宿るとするアニミズムは記紀の創作のようです(;^ω^)

卑弥呼の仕事の様子は、唐古・鍵遺跡から出土した縄文系の巫女と巫(かんなぎ)が描かれた絵画土器の欠片から推理しました。魏志倭人伝に卑弥呼は人前に現れず、卑弥呼の父赤坂比古が生きていた時代には卑弥呼の宮室で太陽神が卑弥呼に憑依して告げる神託を父が解釈して、部下や民の前で太陽神のお告げを伝えて、政治的な決定を行っていたと推理しています。父の死後は、ひとりの男が、倭国王の要請を受けて吉凶を占って王や卑弥呼の弟赤坂比古とその傘下の部族長に告げていたと推理しています(注)。

ですから繰り返しで恐縮ですが、卑弥呼が倭国王難升米に暗殺されたのは二度の日食を予言できなかったことではなく、先述のとおり247年3月24日(;´Д`)日没時の日食が、卑弥呼が不謹慎だったために起こったと倭国王が考えて、不吉な予兆を打ち消すために卑弥呼暗殺に踏み切ったと推理しました。それならなぜ、大きな墓を造ったのかですが、やはり非業の死を遂げた高貴な人物は祟るという信仰があったので、鎮魂のために、それなりの大きさの墓を造って、死後の生活に困らないように奴婢百余名を殉葬して丁重に葬ったのだと考えています(;´Д`)


しかしこれによって、狗奴国軍が到着したときには、卑弥呼の弟赤坂比古は、縄文系の琉球神道に見られる姉が弟を守護する「をなり神」の卑弥呼の死を知って戦意喪失したと推理しました。そのために、倭国王難升米は狗奴国軍に勝ち目がないと見て、再起を図るために「親魏倭王」の金印を持って帯方郡に逃亡したと推理しました(詳細は「【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。これによってその後の展開は、魏志倭人伝にあるとおり、無傷で倭国を手に入れた人物が男王に立ち、これに不満な勢力と内戦になり千人が死にます。そして、勝利者が卑弥呼の宗女で13歳の台与を外交上女王に立てて国が収まります。詳しくは「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。

ということで、卑弥呼は247年3月24日の日没帯食を見た伊都国の難升米によって暗殺されたとみていいと思います。弟赤坂比古は卑弥呼の死後の戦いでかつての主筋の狗古智卑狗に加勢し、尾張王を赤坂比古の拠点の鳥栖市まで追い詰めて討ったので、和邇氏の領地の近江八幡市日牟禮八幡神社に卑弥呼と一緒に日食に因む名前で祀られていたのですが、藤原不比等によって「日触使主(ひふれのおみ)」とされ、祭神名まで変えられて、社名も「日群社(ひむれのもり)」とされたのだと推理しています。

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




(注)日牟禮八幡神社に卑弥呼と一緒に祀られていたのが、八幡宮の裏山が地元では日触山と呼んでいたことから、日蝕をもじった名前で日本書紀に登場する和邇氏の祖の日触使主(ひふれのおみ)と推理しています。この人物の正体が卑弥呼の弟赤坂比古(魏志倭人伝で正始四年「倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人」の掖邪拘(ややこ)なのです。正使伊聲耆が途中で亡くなって、「掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬」とあるので分かりました。
伊聲耆が卑弥呼の父赤坂比古(和邇氏の祖)です。天理市和邇坐赤阪比古神社の本当の祭神ですが、何と現在は市杵島姫命となっていたので、卑弥呼だということを確信したのです。

魏志倭人伝の行程記事に出てくる人名・職名・地名などは本当の倭国王難升米(107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升で本当は奴国宮廷楽師の子孫の伊都国男王で一大率で卑弥呼の男弟とされた人物、魏から黄憧が直接授けられている倭国の軍権を持つ倭国王)が景初三年(239年)六月に帯方郡に渡り、司馬懿の部下の太守劉夏と談合して書いて、司馬懿の裁可を受けたものなのですよ。詳しい話は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ」・「伊都国の意味がヒントだった?」などをご参照ください(#^.^#)

人名(職名)などの漢字は全て意味があるのです。卑弥呼の父はイセ(伊勢)と呼ばれたムナカタ海人族のシャーマン王なのです。卑弥呼は姫巫女ですよ。道教なんかと無関係でしょう。奈良盆地の唐古・鍵遺跡の絵画土器の破片に局部を露出して鳥の格好をした巫女と巫(かんなぎ)の絵があります。密室で太陽神が憑依して口寄せした内容を巫が解釈して声にだしてみんなに伝えるのがシャーマン王イセの仕事。琉球神道に卑弥呼の鬼道の名残が残っていましたよ(^_-)-☆

最後まで読んでいただき、心より感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと励ましてください!お願いします( ^)o(^ )


米神山と佐田京石の秘密( ^)o(^ )

2025-01-16 17:05:20 | 古代史

いつも、ありがとうございます。よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

 


@katumoku10
いい動画をありがとうございます。

記紀神話の大国主とされた久々遅彦高野御子が247年の卑弥呼の死後の内戦に勝利して、安心院町下毛の卑弥呼の径百余歩の冢(直径約150mの円形墳墓)三柱山古墳に、外交上女王に立てた13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を伴って墓参し、妻垣神社奥宮でも鎮魂祭祀をし、安心院町佐田地区で最初に国造りを行ったと推理しています(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。



米神山の佐田京石は祖霊への感謝と2世紀末から3世紀初頭の倭国大乱で活躍し、菊池川沿岸の集落方保田東原遺跡・うてな遺跡で倭国軍に奇襲されて戦死した父久々遅彦日高彦(豊岡市久久比神社祭神、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、縄文海人ムナカタ族を束ねる王の襲名)への勝利の報告・感謝と祖霊・穀霊への加護を祈る祭祀を行った古墳時代初頭の祭祀場です。

米神山中腹の月之神谷に揃って設置された石棒群は父日高彦の終焉の地の南西方向に全て揃って向けられています



山鹿市の鹿本平野を一望する高台に一辺25mの方墳「茶臼塚古墳」が作られていますが、墳頂に置かれた大日如来の石祠から大国主の本地仏弥勒菩薩が北東に在ることが分かりました(米神山の大国主に向けられています。米神山月之神谷から茶臼塚古墳の方位がほぼ230度なのです(@_@)。

さらに米神山を通過して400km以上先の兵庫県豊岡市竹野町竹野に日高彦の居城(五社大明神宮)があり、そこに大国主の生誕地と分かる石碑を発見しました。このレイラインを「狗古智卑狗の霊ライン」と呼ぶことにしました。よろしければ詳細は「巳年に因み大国主の住む米神山の話です!」をご参照ください。



(左クリックでMyMapに移動しますのでご確認ください)

【関連記事】

【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?

【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)

消された出雲・丹後王国の謎!(その2)日高彦の話

最後まで読んでいただき、心より感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと励ましてください!お願いします( ^)o(^ )


絹織物も馬もすでに倭国に在った!(^_-)-☆

2025-01-15 14:33:05 | 古代史

いつも、ありがとうございます。よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

魏志倭人伝は異なる時代の資料のパッチワーク。

それを時代毎にブロック毎に分けて解説 古代史ハルキー@YouTube

@MrDeha6450
テーマが三国志巻30ということで、ちくま三国志4巻を参照しながら視聴しました。個人的に気になったのが2点あります。

1つが養蚕に関する記事について。武田さんはこれを前漢時代とみられたとのことですが、そのころすでに秦氏が日本列島入りしていて養蚕を伝えていたとも、あるいは縄文晩期~弥生時代に養蚕の基本的な技術は入っていて、秦氏は新技術で改良して生産性を高めたとも考えられます。

第2の注目点が「馬がいない」もまた前漢時代の資料に基づくとされたこと。ひょっとすると、曹丕・曹叡の頃には邪馬台国の卑弥呼本拠地周辺ではひそかに少数の馬が飼育されており(馬飼部的なひともいたことに!)、卑弥呼の弟クラスの高官は騎乗スキルを持っていた可能性も否定できなくなりました。もっとも、伊都国の一大率あたりまで回せるほどの数はなかったので曹魏の武将の目に止まることはなかったということかもしれません。以上2点は、私の中での卑弥呼時代の倭のイメージを大きく書き替えることになりました。

@takedaharuki
ありがとうございます。動画を作った後も考え続け、漢書地理誌をベースにした部分も、ベースが漢書地理誌なだけで、そこまでは古くないのかなとも予想するようになりました。ただ、日本の養蚕が紀元前にあっても不思議ではないと考えています。なお、魏志倭人伝の物品のあるなし情報は、過去の情報という可能性もあるため、環濠集落にしても馬にしても鵜呑みにしてはいけないのかもしれません。

@katumoku10
馬に関しておっしゃるとおりと考えています。

倭国王帥升(奴国宮廷楽師師升)が反乱を起こし18代王スサノヲを拷問したことが古事記の記述からはっきりしました。その子孫難升米が中平年間に公孫氏に朝貢して中平銘大刀を賜っています。その時に馬ももらったはずです(注1)。

天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神赤坂比古が玄界灘を支配するムナカタ海人族のシャーマン王で、現在の祭神とされる市杵島姫命卑弥呼の父です。倭国王難升米に下賜された和邇氏の祖です(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」参照)。

養蚕技術は弥生前期に列島に灌漑式水田稲作技術を以ってやって来た江南の倭人アズミ族が持ってきたもので、弥生の産業革命の担い手です。弥生中・後期には倭錦と呼ばれる倭国の大事な交易品になっています(亀山勝「安曇族と徐福」龍鳳書房 · 2009)。

繊維のダイヤモンドと言われる天蚕(てぐす)の原産地は長野県安曇野市です。あとマダガスカル島の特産品が「ランティベ」という天蚕絹ですから、アズミ族が運んだ可能性があると見ています。

天蚕(てんさん)は、日本固有の野生の蚕(カイコ)から採れるワイルドシルク。
絹糸よりさらに軽く、柔らかい最高級の天然素材です。安曇野は江戸時代に人工飼育に成功して以来、天蚕糸の生産と織物作りの中心地として発展してきました。(あづみの織工房MAKI より)

秦氏は日本書紀の創作で、スサノヲ系の出雲・丹後王の王族波多氏の子孫秦河勝が率いた技術者集団だと見ています。日本書紀では都合の悪い氏族に勝手に名前を付けて誤魔化していることが分かってきました(注2)。詳しくは「渡来人秦氏はどこからきた?」「秦氏と古事記の関係?」などをご参照ください( ^)o(^ )

【関連記事】

能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆

江戸時代まで猿楽と呼ばれた能楽を大成した観阿弥・世阿弥は秦河勝を祖としています。そう言えば、入宋して王年代紀を献上した奝然上人も俗姓は秦氏でした。秦氏は歴史の真相を暴露したくて仕方がない氏族だったのです(^_-)-☆

(注1)東大寺山古墳の中平銘鉄刀は難升米(師升の子孫)が公孫氏から拝領したものですが、魏によって公孫氏が滅亡したので、先代赤坂比古(東大寺山古墳の被葬者)に下げ渡したと推理しています。馬も拝領したようですが、投馬国長官弥弥に下げ渡され、倭国には馬がいないとした模様です。

魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事は、難升米が難升米が書いて教えたものだと推理しています。公孫氏との深いつながりを魏に伝えるのは得策ではないと難升米は考えたのでしょう。国の名前は難升米が意味を考えて漢字で書いたものだと分かっています。投馬国の「」は「投与する・与える」という意味があるので、馬を与えた国と考えられますよ(#^.^#)

(注2)秦氏はもともと半島南部に居た縄文系海人ムナカタ族で、大国主久々遅彦である武内宿禰の長男である波多八代宿禰[5](はたのやしろのすくね)を祖とする波多氏だったと推理しています(wiki「波多氏(古代)」[5] 『古事記』では波多八代宿禰とするが『日本書紀』では羽田が編者の一人となったため波多を羽田に変更し羽田矢代宿禰と書く)。

また、蘇我氏も和爾氏も、藤原不比等にとって不都合な人々なので、それを隠すために日本書紀で創作された氏族名だと推理しています。

 

最後まで読んでいただき、心より感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと励ましてください!お願いします( ^)o(^ )