刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古代史ってホントに楽しいですね!(^_-)-☆

2025-01-14 16:53:51 | 古代史

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#拙ブログやYouTubeでいつもいいご意見をされている博識のYOさんから、前回の記事「亶州(たんしゅう)は日本の古名?!」に、またまたいいコメントを頂きましたので以下に記事にしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

タイトル:魏志だけだと辿り着かないんですよねぇ (YO)2025-01-13 23:08:54

夷州亶州は、台湾と九州かなぁというのが率直な感想です。
構成も「倭人」だとわかってたんじゃないかなぁ。

おっしゃるとおりですよね(^_-)-☆

夷州(いしゅう)は陳寿「三国志 呉志 呉主伝」と范曄「後漢書 東夷伝」などに登場し、三国志の時代には台湾というのが定説ですね。呉の武将で丹陽太守の「沈瑩(しんえい、? - 280年)」の著書『臨海水土異物志』に書かれていたとあります(wiki「沈瑩」)。

亶州も、夷州と共に「三国志」にありますが、それ以前の前漢時代の司馬遷「史記 秦始皇本紀」などの徐福関連の記事に登場します。始皇帝二十八年(BC.219年)に徐福は始皇帝に「海中有三神山 名曰 蓬莱 方丈 瀛洲 僊(仙)人居之」つまり、海の中に仙人が居る三つの神山「 蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)」があると説明しました。「瀛」は「海(うみ)」を意味する漢語ですから瀛洲は日本を指すと言われています。そして、「童男女数千人」を得て海に入り仙人を求めたとあります。三十七年(BC.210年)に、徐福は海に入って神薬を求めたが数年たっても得られなかったので、始皇帝の咎めを恐れ水神が放った巨大な魚が邪魔しているので退治して欲しいとウソをついたとあります。徐福が直接、始皇帝に言った話ではないはずです。

史記 淮南衡山列伝」の中で、「遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行(童男女三千人と五穀の種と多くの技術者)」を海神が要求したので始皇帝が徐福にこれらを持たせると、徐福は平原・広沢の王となって戻ってこなかったとあります。海神は水神とも呼ばれているので当時の倭国(北部九州)を支配していた初代奴国王(ナーガ=龍蛇神国王)天御中主の子孫の奴国王のことです。春日市須玖岡本遺跡を王都とし、その横に青銅祭器の官営工場須玖タカウタ遺跡があります。徐福が連れて来た冶金技術者を使って、列島最大の奴国の交易センター比恵・那珂遺跡にやって来る列島各地の縄文系倭人及び江南系倭人(アズミ族)らに奴国王への臣従の印として青銅祭器を与えたと考えています。つまり、奴国王が倭人の交易を管理して、対外交易を独占し繁栄したので、西暦57年には後漢光武帝から金印を賜るようになったのです。平原・広沢は恐らく徐福に関する数多くの伝承がある佐賀平野だと考えています。吉野ケ里遺跡の北内郭は古代シナの城郭の影響を受けていると言われますので、徐福が連れて来た土木技術者やその子孫がかかわったと推理できます。機織り技術者も徐福が連れて来たたようです。亀山勝氏は著書「安曇族と徐福」の中で、徐福が弥生の産業革命を興したとしています(詳細は「【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)」参照)。


だが、倭は燕地の所属だし、呉地越地にいるとは書けなかったのかもしれませんね。先人の書いたことを曲げるのはなかなか難しいようです。

なるほど、そうですね。

戦国時代から秦・漢代にかけて成立した最古の地理誌「山海経」に「蓋國在鉅南 倭北 倭屬蓋国は鉅(大国の)の南、倭の北に在り、 倭はに属す。)」とあります。蓋国は今の平壌あたりの箕子朝鮮(殷(商)人Y-DNA O1b2*)のことでしょうか(詳細は「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)

上述のとおり紀元前三世紀末に奴国王が対外交易を支配する前は、倭人が燕王に許されて、個々に遼東半島まで行って交易していたということだと思います。

朝鮮半島には七千年前の鬼界カルデラ噴火のために九州の縄文人(Y-DNA D-M55)が半島に逃げて、生活していました。殷(商)王朝末期(紀元前十一世紀)に朝鮮半島の北部に箕子朝鮮(蓋国)が成立し、その南、つまり朝鮮半島の南部は箕子朝鮮以前からかは不明ですが、江南の倭人(呉人、アズミ族、Y-DNA O-47z)と縄文人が居たと考えています。

西遼河人(Y-DNA N1)や江南の呉人と混血した半島の縄文人が縄文時代晩期(紀元前九世紀)に唐津市菜畑遺跡や福岡市板付遺跡などで水田稲作を始めたようです(通説では混血は列島内で行われたとしています)。弥生時代前期になって本格的な灌漑技術を持った江南系倭人が北部九州にやって来て、遠賀川式土器を持って列島各地に灌漑水田耕作を展開していったと考えています。東海・北陸・関東・東北地方などでは在地の縄文系の人々が遠賀川式土器を真似た遠賀川系土器がでています。下の図はアズミ族が住んだ場所を示したものですが、時代は必ずしも弥生前期とは限らず、中期の場所も混在しているようです。

 


東鯷人もそうでしょう。ワイ的にはこれも「九州」かと思ってるんですが、人によっては「関東」とか「吉備」だとかおっしゃられてます。東鯷人が会稽に属してるんだからそんなに遠くではないと思うんだがなぁ。。

全く同感です。

東鯷人の「鯷」については、異文体の「鮷」「鮧」「䱱」がほぼ「なまず」なのでナマズで良いかなとは思っております。呉人の「提冠提縫」の「提」の字は「鯷」の意味で「なまずの冠」を被る人という話もあります。
その「呉」の東なので「東鯷人」「東夷人」「東鮧人」なのかなぁと。

ええ、調べたら古い文献にありますね。阿蘇にナマズを祀る鯰神社というのがあるので、地名にお詳しい谷川健一先生の一押しのようです(#^.^#)

刮目天さまが「カタクチイワシ」説なのは知っております。が否定してるのではなく、何事も確定だとは考えずにいろいろ「思考実験」するのが楽しいかなぁと思っております。

どうも有難うございます。分かっていないことを、いろいろと考えるのはとても楽しいものですネ(#^.^#)。

後漢の班固・班昭らによって編纂された漢書』には、地理志呉地条に「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歲時來獻見云。」とあり、ほとんどの方はを「ナマズ」としてますが、東鯷人について記された現存する最古の資料は楊雄「法言」(西暦14~18年完成)とあります。そこには「黃支之南、大夏之西、東鞮、北女、來貢其珍(南に在る黃支。西に在る大夏。東の鞮、北の女(女真?)がそれぞれ珍しいものを持ってくる。)」とありますので、東鯷人は東夷の国の倭人だと判断しました。

会稽の先の東に分かれて二十余国の倭人が時折、魚を持ってくるわけです。倭国なら百余国ですからその一部に固まった地域ということになります。

日本列島の中でナマズが特産品というのは、ネットで調べると埼玉県吉川産が代表的なようです。中華料理の食材として使われるそうです。食べたらうまいのでしょう。

ですが、ナマズは河川や湖沼に生息する淡水魚ですから日本列島内の一か所に集まって二十余国の人たちが取るような感じでもなさそうです。シナでは広東省・江蘇省などでも取れるのですから特別珍しいものではないようなので、ナマズではないな!と直感です。

」をネット辞書で調べると「ヒシコカタクチイワシ」とあったので、産地を調べると済州島と半島西南部との間に楸子(チュジャ)群島というのがあって、暖流と寒流がぶつかり合う最良の漁場のようです!塩辛が特産品とwikiにあります。卑弥呼よりも前の時代から多分、周辺二十余国の倭人が古くから漁をしていたんだと思いますよ(^_-)-☆

 


 


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亶州(たんしゅう)は日本の古名?!(^_-)-☆

2025-01-13 09:12:25 | 古代史

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魏志倭人伝は異なる時代の資料のパッチワーク。

それを時代毎にブロック毎に分けて解説 古代史ハルキー@YouTube

 

@YO-high
これは素晴らしい。魏志倭人伝の「ソース」の分析ってのは大事だと思います。
で、陳寿は「倭」と「呉」の関係性を意図的に外してるんじゃないかな?
「呉の大伯の子孫」の部分で「呉」を抜いてるし、倭からの影響はあるようにだけ書いてるようです。
追加で書いた部分とわざわざ抜いた部分も両方あるように思うんですよね。 これは陳寿の「偏向」かなぁと少しおもっております。

@takedaharuki
ありがとうございます。岡上さんの影響もあって、最近はこのあたりについて深く考えるようになりました。確かに魏志倭人伝には「呉」の記述が全く出ていないです。興味深いです。やっぱり、歴史書というのは歴史家の主観が入るものなのかも知れません。

@katumoku10
YOさん、こんばんは!魏略ですが、いつ完成したのか、三国志の後の可能性もあると知って驚きました(wiki「魏略」)。

でも先に完成していたら、「倭人は太伯の後」を陳寿は無視したはずです。だって、陳寿の目的は西晋の創業者の司馬懿を上手に持ち上げることですから。

それで、太伯の話は正しいと思います。太伯の父が古公亶父です。ですから亶州は倭国ですよ。もろに「日本の父」という名前なのです。夏王朝を興した禹の末裔で、新唐書・宋史 王年代紀の初代奴国王天御中主は、つまり禹と同じヘビ神(ナーガ=奴、中)ですから、皇室の祖先です。

倉敷市楯築王墓の神社のご神体が人面蛇体の亀石(弧帯文石)ですから、被葬者は第十九代奴国王天照大神尊で先代旧事本記の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ニギハヤヒ大王です。107年に後漢安帝に朝貢した倭面土(伊都)国王師升(奴国宮廷楽師)に殺された十八代奴国王素戔嗚尊の弟です。奴国を逃亡し吉備を平定して吉備で奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築いた人物で、今上陛下の祖先ですよ。


 

 

隋書 倭国伝に見られるアメノタリシヒコの政治理念から分かりました(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見(その2)!」参照)。お邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )

【付記】

 

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【邪馬台国問題】陰謀論と陰謀説を区別しましょう(^_-)-☆

2025-01-12 14:06:38 | 古代史

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魏志倭人伝は異なる時代の資料のパッチワーク。

それを時代毎にブロック毎に分けて解説 古代史ハルキー@YouTube


@岡上佑の古代史研究室
お、動画アップ有難う御座います。 パッチワーク説、広がって貰えればいいですね。

現状の文献解釈の権威っぽい雰囲気を出している渡邊某が一系列で読んじゃっているので、本当に現状の文献解釈はクソです。 それに対して厳しい批判ができないってことは、公的な学問がクソってことです。 まずは、パラグラフを分けるところから共通でやるべきだと強く思います!

@takedaharuki
ありがとうございます。

渡邊某については私もちょっと疑問があります。歴史書について、できるだけ普通に解釈する道を模索したいです。これからも岡上さんの動画や書籍を参考にさせてもらいます。

@katumoku10
岡上さん、こんばんは!パッチワーク説、同感です。

でも、渡邉先生が着目したのは陳寿の目的でしょう。陳寿のお仕事は西晋の史官ですから、西晋の創業者司馬懿の功績を上手に持ち上げることですよ。

ですから、そこが理解できないと邪馬台国に到達できないんですよ。

邪馬台国への行程記事は陳寿が宮廷書庫から、司馬懿の書かせた魏使梯儁の報告書にあったものをそのまま引用したのです。行程記事がインチキだから江戸時代から三百年経っても、万人が認める邪馬台国の場所が確定しないのですよ。

これは「陰謀論」とは違う「陰謀説」なのですよ。「陰謀論」は陰謀の証拠がないのに陰謀だと騒ぎ、混乱させる話ですが、魏志倭人伝には司馬懿の都合で真実が書かれていない証拠が渡邉先生が指摘するようにいくつもあるのですから「陰謀説」というのが正しいのですよ!。

景初三年(239年)六月に本当の倭国王難升米が帯方郡に出かけて、司馬懿の部下の太守劉夏と談合して、司馬懿の裁可を得て、邪馬台国への行程記事が作られた証拠が出てきました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。だから梯儁は、伊都国で難升米に面会して、すでに決まった行程記事を報告書に載せて朝廷に提出したと分かります。陳寿は当然、どこに邪馬台国があるのかは知りませんが、デタラメな行程記事を読んで、想像した位置に読者を誘導するように補足したようです。孫栄建「決定版 邪馬台国の全解決」(ロッコウブックス2018年)に陳寿の筆法の解説が詳しくあります。

だから結論ですが、行程記事は一旦横において、その他の邪馬台国に関する記事から候補を探すことができます。そして五世紀の倭の五王時代に完成した范曄「後漢書」の「自女王国東度海千余里 至狗奴国」が正しいことが考古学の成果から分かりました。詳しくは「【謹賀新年】今年の始まりも邪馬台国!( ^)o(^ )」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

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邪馬台国がどこか分かったので、行程記事のトリックも推理できました(詳細は投馬国へ水行してみませんか?参照)

【関連記事】

「陰謀」 と 「陰謀論」 オメガねこ2025年01月10日

良くわからないですが、ひろゆき氏は「陰謀」に関して、
推測に過ぎない陰謀を真実だと確信し、しかも社会や他者にそれを強要する者を「陰謀論者」とし、そして彼らが確信するその説を「陰謀論」と鍵括弧をつけ記すことで、意味を限定して使いたいと思います。
 科学的に実証された事案でも、それは「(確率的な)推測」に過ぎません。そして「陰謀論」を定義するのに、未定義の「陰謀」を持ち出して説明しています。これは、俗にいう「進次郎構文」ですωω
(続きをご参照ください)(;^ω^)

【後記】

古代史界隈に「古代妄想」というちょっと過激に聞こえるギャグを入れましたが、妄想を逆手に取って開き直る方も居たり、ご不快に感じる方が居るかと思いますので、ここでちょっと言い訳です(;^ω^)

事実に基づく想像は、科学的な探求において推論・推理という正しい方法です。

しかし人間は空想する生き物なんです。空想は事実に基づかない想像のことです。普通は、本人も空想かも知れないと自覚していますが、空想に凝り固まって反証を受け付けない信念になると妄想という精神医学上の症状ということですネ(*´Д`)

古代史探求に嵌っている多くの方は、事実に基づかない「空想」を仮説にしたままで、数多くの事実で仮説を検証しようとしないようです。都合の悪い反証も無視するようですので「古代妄想」ということなのです。

以前に、ある著名な古代史研究家のブログで、その点を指摘しても、「検証は後世に行われるハズだ」と自信満々だったので驚きました(#^.^#)

歴史あるいは歴史学という学問は人文科学の範疇ですので、科学の手法に従う必要があります。

なぜならば、科学の手法による結果は偏見のない多くの方が納得行くものですので、定説として認められやすいからなのです。その仮説は「科学的な信念」になり(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」参照)、教科書にも載るような定説になります。これが科学的な探求の目標です。

しかし、定説となっても、それを導く過程で何らかの見落としやミスを犯していたかもしれないのです。ですから、定説となったその仮説も、常に新たな事実によって検証を受け続ける宿命なのです。定説が覆されることがあるのは、科学の世界では常識ですから。人間は神様ではないという証です。大国主のように死んでから神様になる人間は居ますが(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

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邪馬台国畿内説に固執?古代妄想ですよ!(#^.^#)

2025-01-11 21:39:32 | 古代史

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#毎回同じような話題で恐縮ですが、YouTubeでDNA解析の権威の方が邪馬台国は纏向遺跡だと断言されていたので、ガッカリしました。まだまだ畿内説が有力だと思われている方が多いようなので、見つけたら何度でも反論しなければいけないと思ってやっています。でも、これも別の意味の古代妄想なのかも知れませんね(;^ω^)

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寺沢薫著 「卑弥呼とヤマト王権」を読む① 

プロローグ【邪馬台国2025-1】日本史オンライン講座@YouTube

興味ある話題を有難うございます。ヤマトは邪馬台国から命名されたのは確実ですが、纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた三世紀半ばまで倭国の一部ではなかった決定的な証拠が在ります。

それは出土土器の中の約15%もある外来土器の中に九州の土器が皆無と言っていいほど出土していないから分かります。

 

魏志倭人伝を読めば、洛陽や帯方郡が文書や品物を卑弥呼に送る際に、倭国の玄関口である伊都国の一大率が確認して、間違いなく卑弥呼に届けるとあるのですから、北部九州の倭国の人間が纏向遺跡にはやって来ていないということです。三世紀前半の纏向遺跡から楽浪系の遺物もほとんど出土していないのです。

そしてさらに重要なことは、纏向遺跡の前方後円墳で行われた重要な祭祀に各地の首長層が集まっているにもかかわらず、北部九州の倭国の人々が参加していないのですから、纏向遺跡の勢力は倭国と敵対する勢力、つまり狗奴国の本拠地だったと推理できます。

ですから、狗奴国が倭国を滅ぼして、何らかの事情で狗奴国が邪馬台国を僭称したと推理できます。

魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事は如何様にも解釈できるので、江戸時代から三百年経った現在でも万人が納得する場所を決められないのです。行程記事は政治的に作られたデタラメなものだったからです(詳細は「魏志倭人伝の真相」参照)。ですから行程記事を一度横において、それ以外の文章から探せば候補が見つかります。

例えば、金印とか銅鏡、絹織物等は見つけた人間が容易に持ち運べるものですから、決定的な証拠にはなりにくいので、例えば地理的条件などで候補を絞ることができます。魏志倭人伝には「女王国の東度海千余里に倭種の国が有る」とあるので、纏向遺跡は西側を除き、簡単に海には出られませんから、この条件にあてはまりません。九州説ならば、周防灘に面した豊前地方などが該当します。

そして五世紀に完成した范曄「後漢書」には、倭の五王の使者からの情報により、倭種の国を狗奴国と書き換えていますので、狗奴国の王都(纏向遺跡)から約450km西の瀬戸内海を行くと宇佐神宮にたどり着きます。さらに駅間川を遡り山間部の宇佐市安心院町に入ると弥生後期の集落宮ノ原遺跡があります。

宇佐神宮の比売大神は宗像三女神という伝承があり、三女神社が日本書紀で宗像三女神の降臨地になっています。三女神社の西側にV字溝がありその中から銅鏃が出土していますので城柵を設けて兵士が厳重に護っていたと分かります。

さらに、決定的な証拠が見つかりました。

三女神社の西側約500mに卑弥呼の「径百余歩の冢」つまり直径約150mの土を盛っただけの円形墳墓「三柱山古墳」があります。墓の西側の原野は「血野(現在、知野)」という地名ですので、奴婢百余人が惨殺されて殉葬された場所と推理できます。その他にも卑弥呼に関係する遺構や伝承がいくつもあります(詳細は「【ついに発見?】卑弥呼は宇佐神宮に眠っているのか?(^_-)-☆」参照)。

ということで、卑弥呼の墓の有力な候補が見つかりましたので、他にも候補があれば、魏志倭人伝の記述からどこが最有力なのか決定できますね

箸墓古墳は三世紀末から四世紀に、時間をかけて造成した三段築・四段築の立派な古墓ですから、247年の卑弥呼の死の前後の状況を考えると該当しません。

日本書紀は大物主大神(大国主)の妻ヤマトトトビモモソヒメの墓としており、卑弥呼は独身ですので箸墓は卑弥呼のものではありません。

このように寺沢薫氏は考古学の権威ですが、残念ながら魏志倭人伝を全く無視していることが分かります。

纏向遺跡は狗奴国の王都であって、ヤマト王権が成立した日本の古代史で最も重要な遺跡のひとつであることは間違いないのですので、邪馬台国ではなかったという事実を素直に受け入れて欲しいものです。

現在のところ、邪馬台国は卑弥呼の居城のある宇佐市安心院町宮ノ原遺跡を中心として、宇佐神宮周辺の大規模な集落群(吉野ケ里遺跡とほぼ同じ約60ha)を合わせたものだと考えられます。よろしければ、「刮目天の古代史」をご参照ください。お邪魔しました。

【関連記事】

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!

二世紀末の倭国大乱から三世紀の日本建国の戦いの痕跡を考古学成果(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)と民俗学などの成果に加えて、卑弥呼の巨大円墳が見つかっていますので、可能性が高いと思います(^_-)-☆

日本の古代史が謎な理由?(@_@)?

記紀神話は江戸時代に創られた新しいものなのですよ(詳細は「日本神話は八世紀の創作ですよ!」参照)。権力者は権力を維持するためにウソをつく生き物なのです。民主主義国家は権力者にウソをつかせない仕組みがないと理不尽な全体主義国家に変えられて、国民は地獄の目に遭いますよ(*´Д`)

 

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【ついに発見?】卑弥呼は宇佐神宮に眠っているのか?(^_-)-☆

2025-01-10 22:08:41 | 古代史

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【遂に発見?】卑弥呼の墓の場所が判明!?「宇佐神宮」の真実とは?【驚愕】
歴女は古代史を語りたい@YouTube

とてもいい動画をありがとうございます。かなりの方が宇佐神宮に卑弥呼が隠されていると思っているようですが、正解ですよ。ただし、残念ながら、決定的な証拠が見つけられないようですね(*´Д`)

その理由は、多くの方が学校で習っている現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」に卑弥呼と書かれていないために分からないからなのです。多くの日本人は記紀神話が江戸時代にできたと聞いたら驚くと思いますが、それって事実ですよ(詳細は日本神話は八世紀の創作ですよ!(;´Д`)参照)。

魏志倭人伝も行程記事があいまいですので、万人が納得できる場所が見つからないのです。でも政治的な理由で行程記事が書かれていると分かれば、それ以外の邪馬台国の記述から見つけられますよ(詳細は「【謹賀新年】今年の始まりも邪馬台国!( ^)o(^ )」参照)。

つまり、記紀や倭人伝の嘘で誤魔化されているのですが、その噓から真相を掘り起こす「アブダクション」という科学的な方法があるのですよ。よろしければ、つづきは「刮目天の古代史」をご参照ください。お邪魔しました(^_-)-☆

宇佐神宮の比売大神=卑弥呼は、そのまま記紀に登場していないのですが、宗像三女神として登場しています。でも、記紀で三女神はアマテラス女神とスサノヲの誓約(うけい)で生まれたことになっています。これはデタラメですね。比売大神はひとりですから、三女神は卑弥呼を隠すために二人を追加したのです。でも、三女神の中で一人だけ目立つ神様が居ます。それは市杵島姫です。厳島神社の主神ですし、神仏習合して弁財天として祀られています。七福神の紅一点です(詳細は「本当は怖い七福神の謎(;一_一)」参照)。

そうなんですよ。宇佐神宮の比売大神は市杵島姫命で、この方が卑弥呼様だったのですよ(^_-)-☆

その決定的な証拠は、宇佐神宮の奥座敷宇佐市安心院町三柱山台地の弥生後期の宮ノ原遺跡で見つかっていますよ(#^.^#)

ここに三女神社がありますが、日本書紀にある宗像三女神の降臨伝承の地「葦原中国の宇佐嶋」です。この台地は西側と東側に宇佐市内を流れる駅館川の支流恵良川と深見川が流れており、丁度島のような感じです。

三女神社は深見川の河岸の崖の上に建っています。その一の鳥居の神額に「二女神社」とあり、地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいます。これは「三は妙だよ。女は少ない!」という謎かけだったのです(本ブログのバナー参照)。

三女神社の本殿の西側にV字溝がありその中から銅鏃(青銅製の矢じり)が見つかっています。魏志倭人伝にある城柵を設けて兵士によって厳重に警護されていたと分かります。

そしてさらに西側約500mのところに決定的な証拠を見つけました。卑弥呼の墓「径百余歩の冢」つまり直径約150mのただ土を盛り上げただけの円形墳墓「三柱山古墳」です。そしてその西側の原野だった場所の地名が「血野(現在、知野)」だったのです。奴婢百余名が惨殺された場所で、多分野ざらしで殉葬されたと考えられます。

卑弥呼の石棺は残念ながら家族旅行村建設時に発見され、残念なことに南側の裾に石材が集められて第8石棺群とされています。裾には旅行村のコテージが4・5棟建てられておます。墳頂部あたりは雑草や灌木が深く生い茂っており、残念ながら行けませんでしたが、付近に石棺の蓋のような厚い石板が二つくらい立ててありました。

そしてこの墓の南側約400m下の河原に「三柱山古墳」の遥拝所(同名の三女神社)があり、三女神の石塔が墓に正対して建てられていますが、直接「三柱山古墳」を目視できないように、道路の横に土が積み上げられています。そこに横穴がいくつかあり、ひとつの横穴の入り口に馬頭観音像が置かれていました。「ヒカケ横穴群」とよばれ、アマテラスの岩戸隠れ「日欠け=日食」を連想する地名なのです(詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」・「卑弥呼の日食のはなし?!」参照)。

卑弥呼はやはり日食が原因で暗殺されたと推理しています。遥拝所の東側は、現在すっぽんの養殖がおこなわれていますが、温泉が湧き出ていたようです。毎晩、卑弥呼は河原の露天風呂「卑弥呼の湯」につかり、コラーゲンたっぷりのすっぽん料理や山海の珍味に舌鼓を打ちながら濁り酒を嗜んでいたようです。濁り酒の泡をすくう土器が遺跡から発見されています。

入浴中の卑弥呼が裸で引きずり出されて、遥拝所付近で殺されたと推理しています。当時、「卑弥呼の湯」付近に「乳不動」という石仏群があり、お乳の出ない母親が撫でたら出るようになったという言い伝えがあります。謎の「人聞(にんもん)菩薩」が石仏を作ったという伝承がありますが、この僧は架空の人物で、宇佐神宮の創建に関わった法蓮上人のことだとされています。

法蓮上人は宇佐神宮創建時の神宮寺弥勒禅院の初代別当で、国東半島の六郷満山を創建した方と言われています。当時の権力者藤原不比等に八幡大神と比売大神を祀るように進言した人物だと考えられます(詳細は「卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)」参照)。

そして八幡大神の正体も分かりました。応神天皇は宇佐神宮創建後に祭神とされています。応神天皇の母は神功皇后とされていますが、卑弥呼の死後の千人が死ぬ内戦で勝利した人物が、丁度倭国に派遣されていた魏使張政の進言で13歳の台与を市杵島姫卑弥呼の宗女として外交上女王に立てたのです。つまり台与も市杵島姫と同様にムナカタ海人族の姫巫女です。神功皇后気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)のモデルで、息長氏の祖息長宿禰王(おきながすくねのみこ)の娘です。この人物が吉野ヶ里の謎の石棺の被葬者だと推理しています。極端に小柄な海人族のシャーマン王で、大国主神話のスクナヒコナだったのです。石棺の蓋には天の川や星座が記されているので、夜間航海を指揮する人物なのです(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?(@_@)?」参照)。

はい、内戦の勝者こそ、記紀で武内宿禰とされた人物で、山陰から近江・越のムナカタ海人族を束ねる王です。魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗のことで、豊岡市久久比神社の祭神久々遅彦です。木の神ですから全国の上棟式の祭神とされていますので、木霊イタケル(スサノヲの王子)の子孫の大国主だと分かります(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)」参照)。

日本書紀はこの史実を、仲哀天皇の熊襲征伐の話を創って誤魔化しました。神功皇后に憑依した住吉大震の神託を信じなかった仲哀天皇が突然崩御する話です。下の図は卑弥呼の死の直前の状況です。

 

卑弥呼の死後の内戦で大国主久々遅彦に討たれた狗奴国の有力者の尾張王乎止与命(おとよのみこと)と推理しています。父の仇討ちで建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)が九州に遠征し、苦難の末に大国主らを討って、その後、列島各地の大国主の傘下を武力で抑え、日本を統一したのです(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」・「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。



話を卑弥呼の墓の遥拝所に戻すと、正面左手に摂社があり、八束神社と金毘羅宮なのです。祭神が出雲国風土記の国引き神話の神八束水臣津野命(略称、八束命)と大物主(つまり大国主)なのです。市杵嶋姫は八束命の孫で大国主とはいとこだと推理しています。卑弥呼の父は天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神赤坂比古(和邇氏の祖)で八束命の姫を娶って卑弥呼が生まれたと推理しています。現在の祭神は市杵島姫命となっていますので分かりました(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」参照)。


 

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