刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

巳年に因み大国主の住む米神山の話です!

2025-01-02 17:20:02 | 古代史

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本日の話題は、古代史の謎を秘めた宇佐市安心院町佐田地区の霊山「米神山(475m)」です。

記紀神話の大国主は実在人物です。卑弥呼の死後の内戦に勝利し、奴国宮廷楽師の反乱で奴国王スサノヲが殺され奪われた倭国を取り戻した、スサノヲの子孫の高野御子のことです。山麓にある日本一立派なストーンサークル佐田京石で勝利を父祖に感謝し、この地を最初の都と定める祭祀を行ったと突き止めました(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。

米神山の中腹の「月の神谷」には太い石棒が何本も、人工的に同じ方向に揃って設置されているのが、超古代文明研究家の猿田彦氏の以下のYouTube動画を見て分かりました( ^)o(^ )

#1【古代ピラミッド】米神山 超古代文明!世界最古のピラミッドは日本にある!2万3千年前の巨石の謎 / Japanese ancient civilization

 


<米神山案内図はGoogleMap「佐田京石」より>

方角が南西だというので、直ぐにピンときました。約80km先は熊本県の菊池川沿岸の弥生後期の集落方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡があります。二世紀末の倭国大乱期にこの集落に山陰や畿内の兵士を呼び寄せて大国主の父日高彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)が曽祖父の奴国大王スサノヲの敵討ちのために前線基地を作り、倭国の領域の佐賀平野や筑紫平野などを襲撃した痕跡が見つかっていました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。同時に、この集落やその東側の菊池市うてな遺跡の環濠に銅鏃が出土していましたから、倭国軍に急襲された日高彦がこの付近で戦死したので卑弥呼が登場したと推理していました。

日高彦の墓は山鹿市鹿本町の津袋古墳群の中の一辺約25mの方墳「茶臼塚古墳」ではないかと推理していたのです。この古墳は四世紀後半から五世紀初頭の築造の津袋古墳群の中の、菊池川沿岸の遺跡群のある広大な鹿本平野を見渡せる高台にあったので、倭国大乱の英雄が葬られる最も相応しい場所なのです。その他の古墳は卑弥呼の一族の和爾氏のものと同じ円墳ですので、和邇氏の祖で卑弥呼の父赤坂比古が日高彦とともに活躍した場所でもあるので、戦死した赤坂比古の一族を弔うために赤坂比古の子孫が築造したのではないかと考えました(詳細「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」参照)。

茶臼塚古墳の墳頂には昔から松の木が一本植えられていて、この高台の公園の名称「一本松公園」になっていたのです。今は枯れてしまって残っていませんが、昔はその松の木が目印だったようです。その同じ場所に、大日如来の石祠が置かれています。大日如来は真言密教のご本尊で、両界曼荼羅の中央部の中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)の中心に位置し、四如来(宝幢如来開敷華王如来無量寿如来天鼓雷音如来)と四菩薩(普賢菩薩文殊菩薩観自在菩薩弥勒菩薩)がその周囲に配置されています。大国主の本地仏弥勒菩薩は大日如来の北東に位置しますので、米神山の方角に大国主が居ることを示していました。


これらのことから、米神山に実際に登って月の神谷の石棒のひとつの方位をコンパスで調べると、なんとGoogle Mapや国土地理院の地図で調べた月の神谷から茶臼塚古墳に引いた方位線とほぼ正確に一致したのです。米神山の月の神谷の名称から亡くなった父日高彦の霊をこの地に呼び込む祭祀を行ったと確信しました。

そして米神山の名前ですが、「米」は「おこめ」という意味だけではなく、記紀に見られる「目(め)・頭目」を指す言葉なので「米神」は「頭(かしら)の霊」つまり首長霊を意味する言葉だと考えられます。

従来の祖霊・穀霊信仰の祭祀が首長霊信仰という新たな形に変貌したのは、奴国宮廷楽師帥升(正しくは師升)よって殺されたスサノヲ大王の王子イタケルが二世紀中頃に初代出雲王として亡くなったときに、その王子八束命(出雲国風土記八束水臣津野命の略称)が西谷墳丘墓三号墳(大型四隅墳丘墓)を築造し、祖父スサノヲにゆかりの各地の首長層を出雲に集めて、王位継承の儀礼を行った故事を嚆矢と考えています(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。

日高彦は、西谷墳丘墓群の最大の九号墳に八束命を葬ったと考えています。そして八束命の孫の大国主高野御子に引き継がれ、三世紀中葉に始まる古墳時代が成立したと考えています。大国主は米神山の山頂にもストーンサークルを置き、山麓に日本一立派なストーンサークル佐田京石で祖霊・穀霊祭祀も行ったようです。米神山は自然の山ですが、弥生墳丘墓は墳頂で首長継承儀礼を行うために自然の地形を利用して人工的に造成した霊山ですし、古墳は平地に造成した霊山を模擬したものと考えることができますね(^_-)-☆

さらに驚くことがありました(^_-)-☆

茶臼塚古墳から米神山に引いた地図上の直線をさらに北東方向に伸ばすと、なんと丹後半島の西の豊岡市竹野町竹野にある父日高彦の王宮(現在、五社大明神、賀嶋城跡)にたどり着いたのです。

そしてここで大発見しました。ここが大国主の生誕地だったのです(^_-)-☆

              < 石碑の裏側に「誕生之浦」と彫られています。 2024.6.7 撮影>

王宮のある小山を北側に下って猫埼半島との間の浜に「誕生之浦」の石碑が建っていました。地元の伝承では大国主に国譲りさせたタケミカズチ一行が上陸した場所ということで、その中のある神が産まれた場所だというものですが、その神は誰なのか?石碑は現代に作られたものですが、その理由が分かりませんので、大国主高野御子の生誕地を隠すための作り話だと分かりました。豊岡市から京丹後市にかけて藤原氏が、日本書紀の神話に合うような伝承を作らせたということが判明しています(詳細は「【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻( ^)o(^ )」参照)。

竹野には鷹野神社があり地元では「浜の天神さん」として親しまれていますが、主祭神はタケミカズチで相殿で天穂日命(アメノホヒ)・天満大自在天神・須佐之男命などを祀っています。アメノホヒは国譲り神話に登場する高天ヶ原より送られた神で、仕事を忘れ大国主と一緒に暮らすようになった神となっています。菅原道真の祖神ということで畏れられていますが、神の使いがスサノヲと同じ牛なのですから、スサノヲの子孫日高彦がその正体だと分かりました(^_-)-☆。

そして、大国主高野御子の名前は「日高彦の御子の隠語」だったのです。地名の竹野は高野から来たものだ分かります。藤原氏が強制的に地名まで変えさせたようです。同様に丹後半島にも竹野川の河口付近に竹野神社がありますが、地元では「たかの」と呼んでいます。この神社には斎宮神社が置かれており、天武天皇が壬申の乱の翌年に天照大神の斎王として大来皇女を送ったという記事が日本書紀にありますが、未だ伊勢神宮は創建されていませんので、この地が最初の斎宮だったと推理しています。つまり竹野神社の祭神の天照大神は高野御子だったのですよ(^_-)-☆。

熊本県山鹿市の茶臼塚古墳から大分県宇佐市の米神山を通過して豊岡市竹野町竹野の五社大明神まで約500kmもありますが、地図上で一直線上に並んでいるので、これを狗古智卑狗の霊ラインと呼んでいます。もう一つの例は、福岡県春日市奴国の丘の熊野神社から広島県庄原市葦嶽山(日本ピラミッド)を通過して豊岡市気比の一直線をスサノヲの霊ラインと呼んでいます(詳細は「熊野信仰の秘密?」参照)。古代人は現代人にない霊を感じる能力があったと考えています。この能力の正体の解明が目下の大きな課題です(^_-)-☆


(左クリックでMyMapに移動しますのでご確認ください)

それでようやく本題ですが、長くなったので「米神山で大国主に会ってきた!(@_@)!」をご参照ください。

ご興味がわけば、是非宇佐市安心院町三柱山台地の卑弥呼の邪馬台国と佐田地区の豊葦原瑞穂の国に行って米神山に登ってみてください。大国主の化身の黒ヘビに会えるかもしれませんよ(#^.^#)


佐田地区探訪マップ(大国主ゆかりの神社・史跡が見られます)

最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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【謹賀新年】今年の始まりも邪馬台国!( ^)o(^ )

2025-01-01 00:00:05 | 古代史

明けましておめでとうございます。

 

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一応、最も有力な候補地が見つかり、卑弥呼についていろいろと推理してきました。邪馬台国問題はきっと今年も話題になることでしょう。

昨年の暮れには、いつも参考にさせていただいている河村哲夫先生の以下のいい動画を見つけ、例によって不躾な長いコメントをしましたが、広い心でハートマークを付けていただきました。心から御礼申し上げます。

後でコメントを少し修正して掲載しましたが、よろしければ、お付き合いください(#^.^#)

第37回邪馬台国をゆく⑥朝倉・杷木1/2 ~女性千人と共に暮らす卑弥呼の居場所

河村哲夫の日本古代史チャンネル@YouTube

いい解説を有難うございます。とても勉強になります。
いくつか候補が出てきましたので、ご説明のとおり、どれが最も可能性が高いかは魏志倭人伝にある邪馬台国の条件との一致を見ていけば分かりますね。

ただその条件として挙げた項目で、例えば、金印、鏡や絹織物などは見つけた人が容易に持ち運べるものですから決定的な証拠にはなりにくいので、全て同等にして採点しても正しい答えは得られないかもしれませんね。

つまり、邪馬台国の条件には優先順位があるはずです。

最も優先度が高いのは卑弥呼の墓で「径百余歩の冢」、つまり直径約150mの日本最大規模の円形墳墓です。しかも卑弥呼の死の前後の記事から、急造りのもので(注1)、その横に奴婢百余人が殉葬された場所とその近傍の集落に卑弥呼の宮室があったと考えられますから、墓を中心に、少し離れた場所に比較的大きな集落があったと考えるのは多くの方が納得いただけるかと思います。

当時の最大規模の集落で最大の交易センター比恵・那珂遺跡群や春日市須玖岡本遺跡に王宮や青銅器の官営工場が奴国にありましたので(最盛期で約60haの吉野ヶ里遺跡の4倍)、それを含めて奴国二万余戸とありますので、邪馬台国が七万余戸と記載されたり、侍女千人というのは、倭国を大国に見せかけるための潤色と考えられます。

大体シナ人の千という数字は沢山の数を表現するものですから、そのまま受け取れません。

殉葬したのは奴婢百余人だけですから侍女は奴婢と考えて、その程度の数と見ていいと思います。そして、卑弥呼を警護する兵士も居ましたので、同数かせいぜいその倍とみても卑弥呼の居城はせいぜい百戸でしょう。その近くに吉野ヶ里遺跡程度の大集落があって長官が居たと考えていいと思います。

日本最大規模の纏向遺跡(約300ha)は城柵で囲われた環濠などの防御施設と呼べるものは見つかっていませんので、九州の人々を除く各地の首長層がやってきて祭祀に特化した集落です。周りに水田跡も見つかっていませんからそれ程多くの戸数はなかったようです。

また、箸墓を卑弥呼の墓と見ていますが、立派な段築工法の大規模前方後円墳ですので(墳丘長約280m、鷹さ30m)、完成には多くの労力と時間が必要です(注2)。畿内の古墳はたいてい、郭の中に棺があるので、倭人伝に記述される倭国の人々の墓「棺あって郭なし」ではありませんから、畿内説を主張する方は倭人伝を都合のよいように解釈して、都合の悪い部分は説明抜きで無視するようです(;^ω^)

墓に加えてもう一つ、邪馬台国の決め手となる地理的条件がありますよ。

女王国の東渡海千余里で倭種の国があるという記述です。

方角は戸数や里程などと同様に政治的に書かれた可能性が高いので、北と見ることもできます(詳細は「魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆」参照)。しかし、5世紀に完成された范曄「後漢書」では倭種の国を狗奴国としており、この時代には1里約450mと考えられますから、女王国と狗奴国は東西に約450km離れた位置関係でその間は海だと分かります。

もしも九州説が正しいとすれば、この条件に合う場所は狗奴国が纏向遺跡で、邪馬台国が周防灘に面した宇佐ということを意味しています。日本列島でそのような条件を満たす場所はこれ以外にはないようです。(^_-)-☆


そして卑弥呼の墓ですが、宇佐神宮の本殿下の亀山という伝承があり、三柱の御祭神の中で一番真ん中の二之御殿に比売大神が祀られていますが、記紀神話の宗像三女神とされています。

宇佐市内を流れる駅館川を山間部にさかのぼった宇佐市安心院町下毛の三柱山台地に三女神社があります。日本書紀に三女神の降臨地「葦原の中つ国の宇佐嶋」とあります。

地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいます。一の鳥居の神額に「二女神社」と書かれていますから「三は妙だ!女は少ない」という意味の謎かけででした。

つまり神社の本殿は卑弥呼が宮室としていたということです。

そして神社の西500mに卑弥呼の墓と思われる「三柱山古墳」を発見しました。その他にも卑弥呼を示唆する伝承や遺物などが周辺に多数見られますので、今のところ最も有力な候補だと思います。

なぜこの地に卑弥呼が居たのかなど、考古学や民俗学などの成果から日本建国の過程を推理していますので詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」・「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」をご参照ください。長々とお邪魔しました(;^ω^)

この他にも宇佐神宮をはじめとして全国で4万社以上ある八幡神社でも祀られていますし、厳島神社や市杵島姫が神仏習合した弁財天としても祀られていますから、至る所で卑弥呼が祀られていたのですよ。アマテラス女神とスサノヲの誓約で生まれたとする記紀神話を信じたら卑弥呼は絶対に見つかりませんよ(;^ω^)

【関連記事】

なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?( ゚Д゚)

C.S.パースが人々の信念の固着方法を分析していますが、ほとんど科学的でないのが現状のようです!

一昨日見た以下の動画がとても勉強になりました。

他人の固着した信念を変えるには、反証の事実だけをいくら示しても、反証が間違いだという証拠を懸命に探すようで、見つからなければ反証を無視する脳の働きが人間に自然に起こり、手順を間違えると正しいことも理解され難いということのようです(;^ω^)

一昨日も、Unknown氏からブログ記事「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」を嘲笑する「笑える!」というコメントを頂きましたが、こちらの慌てる反応を期待したのだと思い、つい微笑んでしまいました(^_-)-☆

Unknown氏の信念を変えるには、まず、共通の問題設定が必要で、それに対して共感されたら、反証を受け入れることができるようになるそうです。正しいと思い込んでいる畿内説の方にいきなり反証を示してもダメなのですよね!(^_-)-☆

 

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)







(注1)魏志倭人伝では正始ハ年(247年)に卑弥呼は新任の帯方郡太守に使者を送り、郡使張政が倭国に到着したときには卑弥呼はすでに死んでいて、「径百余歩の冢」が作られていたとありますので、ただ土を積み上げただけの急造りの墓と分かります。

(注2)wiki「箸墓古墳」によれば、箸墓は立派な前方後円墳で、その築造について『日本書紀』には、

「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」

と記されています。

箸墓の後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44-46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)が載ったものと指摘する研究者(近藤義郎等)もある。前方部は側面の段築は明瞭ではないが、前面には4段の段築があるとされる。ちなみに五段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで四段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳大和古墳群)、行燈山古墳柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳馬見古墳群)等が考えられ他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れない。

とありますから、箸墓が卑弥呼の墓でないことは明らかなのです。

応神天皇が3世紀末に即位して、伊都国で狗奴国勢に討たれて、平原王墓に葬られた母台与(記紀の神功皇后)の鎮魂のために4世紀初頭に完成し、改葬したと推理しています。日本書紀は箸墓の被葬者を三輪山の大物主神の妻倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめ)としています。大物主は大国主(別名トビ=ヘビ)のことです。台与は13歳で外交上女王にされ、大国主の妃とされて、最後は狗奴国ヤマト勢に討たれたので、ヤマトと大国主を恨んで、「ヤマトとトビと、何度も何度も唱える気の毒なお姫様」という意味の、恐らく日本書紀かそれ以前に創作された台与の名前だったのですよ(^_-)-☆



最後まで読んでいただき、心より感謝します。

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