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本日の話題は、古代史の謎を秘めた宇佐市安心院町佐田地区の霊山「米神山(475m)」です。
記紀神話の大国主は実在人物です。卑弥呼の死後の内戦に勝利し、奴国宮廷楽師の反乱で奴国王スサノヲが殺され奪われた倭国を取り戻した、スサノヲの子孫の高野御子のことです。山麓にある日本一立派なストーンサークル佐田京石で勝利を父祖に感謝し、この地を最初の都と定める祭祀を行ったと突き止めました(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。
米神山の中腹の「月の神谷」には太い石棒が何本も、人工的に同じ方向に揃って設置されているのが、超古代文明研究家の猿田彦氏の以下のYouTube動画を見て分かりました( ^)o(^ )
#1【古代ピラミッド】米神山 超古代文明!世界最古のピラミッドは日本にある!2万3千年前の巨石の謎 / Japanese ancient civilization
方角が南西だというので、直ぐにピンときました。約80km先は熊本県の菊池川沿岸の弥生後期の集落方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡があります。二世紀末の倭国大乱期にこの集落に山陰や畿内の兵士を呼び寄せて大国主の父日高彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)が曽祖父の奴国大王スサノヲの敵討ちのために前線基地を作り、倭国の領域の佐賀平野や筑紫平野などを襲撃した痕跡が見つかっていました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。同時に、この集落やその東側の菊池市うてな遺跡の環濠に銅鏃が出土していましたから、倭国軍に急襲された日高彦がこの付近で戦死したので卑弥呼が登場したと推理していました。
日高彦の墓は山鹿市鹿本町の津袋古墳群の中の一辺約25mの方墳「茶臼塚古墳」ではないかと推理していたのです。この古墳は四世紀後半から五世紀初頭の築造の津袋古墳群の中の、菊池川沿岸の遺跡群のある広大な鹿本平野を見渡せる高台にあったので、倭国大乱の英雄が葬られる最も相応しい場所なのです。その他の古墳は卑弥呼の一族の和爾氏のものと同じ円墳ですので、和邇氏の祖で卑弥呼の父赤坂比古が日高彦とともに活躍した場所でもあるので、戦死した赤坂比古の一族を弔うために赤坂比古の子孫が築造したのではないかと考えました(詳細「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)・(その2)」参照)。
茶臼塚古墳の墳頂には昔から松の木が一本植えられていて、この高台の公園の名称「一本松公園」になっていたのです。今は枯れてしまって残っていませんが、昔はその松の木が目印だったようです。その同じ場所に、大日如来の石祠が置かれています。大日如来は真言密教のご本尊で、両界曼荼羅の中央部の中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)の中心に位置し、四如来(宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来)と四菩薩(普賢菩薩、文殊菩薩、観自在菩薩、弥勒菩薩)がその周囲に配置されています。大国主の本地仏弥勒菩薩は大日如来の北東に位置しますので、米神山の方角に大国主が居ることを示していました。
これらのことから、米神山に実際に登って月の神谷の石棒のひとつの方位をコンパスで調べると、なんとGoogle Mapや国土地理院の地図で調べた月の神谷から茶臼塚古墳に引いた方位線とほぼ正確に一致したのです。米神山の月の神谷の名称から亡くなった父日高彦の霊をこの地に呼び込む祭祀を行ったと確信しました。
そして米神山の名前ですが、「米」は「おこめ」という意味だけではなく、記紀に見られる「目(め)・頭目」を指す言葉なので「米神」は「頭(かしら)の霊」つまり首長霊を意味する言葉だと考えられます。
従来の祖霊・穀霊信仰の祭祀が首長霊信仰という新たな形に変貌したのは、奴国宮廷楽師帥升(正しくは師升)よって殺されたスサノヲ大王の王子イタケルが二世紀中頃に初代出雲王として亡くなったときに、その王子八束命(出雲国風土記八束水臣津野命の略称)が西谷墳丘墓三号墳(大型四隅墳丘墓)を築造し、祖父スサノヲにゆかりの各地の首長層を出雲に集めて、王位継承の儀礼を行った故事を嚆矢と考えています(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)~(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。
日高彦は、西谷墳丘墓群の最大の九号墳に八束命を葬ったと考えています。そして八束命の孫の大国主高野御子に引き継がれ、三世紀中葉に始まる古墳時代が成立したと考えています。大国主は米神山の山頂にもストーンサークルを置き、山麓に日本一立派なストーンサークル佐田京石で祖霊・穀霊祭祀も行ったようです。米神山は自然の山ですが、弥生墳丘墓は墳頂で首長継承儀礼を行うために自然の地形を利用して人工的に造成した霊山ですし、古墳は平地に造成した霊山を模擬したものと考えることができますね(^_-)-☆
さらに驚くことがありました(^_-)-☆
茶臼塚古墳から米神山に引いた地図上の直線をさらに北東方向に伸ばすと、なんと丹後半島の西の豊岡市竹野町竹野にある父日高彦の王宮(現在、五社大明神、賀嶋城跡)にたどり着いたのです。
そしてここで大発見しました。ここが大国主の生誕地だったのです(^_-)-☆
< 石碑の裏側に「誕生之浦」と彫られています。 2024.6.7 撮影>
王宮のある小山を北側に下って猫埼半島との間の浜に「誕生之浦」の石碑が建っていました。地元の伝承では大国主に国譲りさせたタケミカズチ一行が上陸した場所ということで、その中のある神が産まれた場所だというものですが、その神は誰なのか?石碑は現代に作られたものですが、その理由が分かりませんので、大国主高野御子の生誕地を隠すための作り話だと分かりました。豊岡市から京丹後市にかけて藤原氏が、日本書紀の神話に合うような伝承を作らせたということが判明しています(詳細は「【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻( ^)o(^ )」参照)。
竹野には鷹野神社があり地元では「浜の天神さん」として親しまれていますが、主祭神はタケミカズチで相殿で天穂日命(アメノホヒ)・天満大自在天神・須佐之男命などを祀っています。アメノホヒは国譲り神話に登場する高天ヶ原より送られた神で、仕事を忘れ大国主と一緒に暮らすようになった神となっています。菅原道真の祖神ということで畏れられていますが、神の使いがスサノヲと同じ牛なのですから、スサノヲの子孫日高彦がその正体だと分かりました(^_-)-☆。
そして、大国主高野御子の名前は「日高彦の御子の隠語」だったのです。地名の竹野は高野から来たものだ分かります。藤原氏が強制的に地名まで変えさせたようです。同様に丹後半島にも竹野川の河口付近に竹野神社がありますが、地元では「たかの」と呼んでいます。この神社には斎宮神社が置かれており、天武天皇が壬申の乱の翌年に天照大神の斎王として大来皇女を送ったという記事が日本書紀にありますが、未だ伊勢神宮は創建されていませんので、この地が最初の斎宮だったと推理しています。つまり竹野神社の祭神の天照大神は高野御子だったのですよ(^_-)-☆。
熊本県山鹿市の茶臼塚古墳から大分県宇佐市の米神山を通過して豊岡市竹野町竹野の五社大明神まで約500kmもありますが、地図上で一直線上に並んでいるので、これを狗古智卑狗の霊ラインと呼んでいます。もう一つの例は、福岡県春日市奴国の丘の熊野神社から広島県庄原市葦嶽山(日本ピラミッド)を通過して豊岡市気比の一直線をスサノヲの霊ラインと呼んでいます(詳細は「熊野信仰の秘密?」参照)。古代人は現代人にない霊を感じる能力があったと考えています。この能力の正体の解明が目下の大きな課題です(^_-)-☆
それでようやく本題ですが、長くなったので「米神山で大国主に会ってきた!(@_@)!」をご参照ください。
ご興味がわけば、是非宇佐市安心院町三柱山台地の卑弥呼の邪馬台国と佐田地区の豊葦原瑞穂の国に行って米神山に登ってみてください。大国主の化身の黒ヘビに会えるかもしれませんよ(#^.^#)
最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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