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魏志倭人伝を推理する(その2)

2025-01-09 18:21:47 | 古代史

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帯方郡滅亡物語

(帯方郡に使者を派遣した卑弥呼の死から帯方郡が滅亡するまでの約70年間の物語)
古代史ハルキー@YouTube

卑弥呼の死から帯方郡滅亡まで一気に解説されたので目が回ってしまいました(;^ω^)
ハルキー様に追いつくためにゆっくりと勉強させていただきます(#^.^#)
それで、陳寿は魏志倭人伝で卑弥呼の死後の話をかなり誤魔化しています。台与が朝貢した年は、どう考えても卑弥呼が死んだ年ではなくもっと後になると推理しています。ちょっと長くなったので、よろしければ拙ブログ「魏志倭人伝を推理する(その2)」にお付き合いください( ^)o(^ )

卑弥呼の死の直前、正始八年(247年)に帯方郡太守王頎(おうき)が着任し、卑弥呼が送ったとする使者たちが狗奴国との紛争を報告したので、王頎が郡使張政を倭国に派遣しました。すでに正始六年(245年)に難升米に渡すために郡に留め置かれた詔勅と魏の正規軍旗「黄憧」を持って、その年に倭国に到着したときには、すでに卑弥呼が亡くなっていたとあります。径百余歩の冢がすでに作られていたとありますから、土を盛っただけの直径約150mの円形墳墓です。

難升米は景初三年(239年)六月に帯方郡に魏への朝貢のために訪れ、そこで約半年間も滞在し、十二月に詔勅が出て太守劉夏の部下に護衛されて洛陽入りしました。皇帝に謁見すると、卑弥呼を絶賛する詔勅を賜ります。親魏倭王の金印紫綬と豪華な贈り物、そして使者の難升米や部下まで官位を賜ります。その詔勅の内容がほぼ全文魏志倭人伝に記載されているのですから、倭国を朝貢させた司馬懿を称揚するために陳寿が魏志倭人伝を残したと分かります。司馬懿はこの半年間で正式に少帝曹芳の太傅(後見役)となり、さらに人事や詔勅に口出しできる録尚書事に就いています。東夷の朝貢は「晋書」でも西晋宣帝とされた司馬懿の功績だったとしています。

それで話をもとに戻し、魏志倭人伝に、張政が到着して直ぐに、更めて男王が立ったけれども、国中が服せず、約千人が殺される内戦が勃発したとあります。これをどう推理するかです(#^.^#)

「黄憧」を賜っていた難升米は、すでに倭国の軍権を掌握していた実際上の倭国王だったと考えられます。つまり、卑弥呼の政治を補佐する男弟とされた人物であり、女王国(つまり邪馬台国)より北の国々を検察する刺史のような地位の一大率(だいそつ)です。伊都国に駐在し、洛陽や帯方郡の使者が来た時には女王への文書や贈り物を確認して間違いなく女王に届けるとありますから、伊都国に居たとされる男王のことだと分かります。

そして、倭国が乱れる前の七・八十年間は男王がいたとあるので、107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った奴国宮廷楽師の師升、詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」参照)の子孫だと分かります。難升米は師升の子孫で米は「頭目(かしら)」の意味があるので、師升の子孫の倭国王ですが、師升はスサノヲを追放したので、儺(「鬼やらい」の意味)に改姓され、儺升(師升)の後継者の倭国王という名前だったのです(当時、倭を委と書くなど、ニンベンを省略するのが流行だったようです。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

ですから、魏志倭人伝に記載された邪馬台国への行程記事などは難升米が司馬懿の部下の劉夏と談合し、司馬懿の功績を実際よりも大きなものに粉飾したと分かります。つまり、卑弥呼を郡から東南方向に万二千余里も離れた居城に千人の侍女とともに居たことにして、倭国を投馬国五万戸・邪馬台国七万戸などを合わせると約十五万戸もの東夷の大国に見せかけたのです(注1)。

つまり、卑弥呼は本当は倭国を統治する女王ではなく、太陽神の神託を告げる姫巫女だったのです。卑弥呼の居城を女王の都「邪馬台国(ヤマコクに住む女王の国の意味)」として誤魔化して、実際の卑弥呼の居城に基づいて難升米が行程記事の内容を漢字で書いて劉夏に教えたもので、司馬懿の裁可を得たものだと分かります。だから、どのようにでも解釈できる行程記事となっており、これをいくら正しく解釈しても、万人が納得できる邪馬台国の場所にはたどり着けないのです。それ故、邪馬台国の位置論争が江戸時代の新井白石から現代まで三百年間も続いたのです(詳細は「魏志倭人伝の真相「空白の150年」に何があったのか?(その2)」参照)。

このことを理解すれば、邪馬台国とした卑弥呼の居城は倭人伝のその他の記述から探す必要があるのです。そして卑弥呼の巨大円形墳墓の候補「三柱山古墳」を発見しましたが、詳細は「【謹賀新年】今年の始まりも邪馬台国!( ^)o(^ )」をご参照ください。

卑弥呼の死後の話に戻して推理を続けます。

倭国王難升米が改めて王に立っても国中が服さないなどということは考えられませんので、難升米はどこかに隠れ、倭国は王不在の状態だったので、誰か別の人間が王に立ったと見るのが妥当です。

丁度、狗奴国との紛争が激化したと考えられる時期ですので、狗奴国軍が倭国に到着したために、難升米が倭国を逃亡したのだと考えられます。従って、千人が殺される大規模な戦闘は狗奴国軍内部の紛争だったと考えられます。

もしも倭国遠征軍の大将が狗奴国王卑弥弓呼だったならば、直接軍を率いて倭国に到着した狗奴国王に不服な狗奴国側の人間が居るとは思えませんので、これも内戦になるはずはありません。ですから、遠征軍は狗奴国の有力者が大将として軍を率いてきたと推理できます。遠征軍が到着するという情報を得た倭国王難升米は恐れをなしたのか、遠征軍に対抗できないと判断して逃亡したということだと思います。従って遠征軍の大将は無傷で倭国を手に入れたので、狗奴国王を裏切って倭国王に立ったとすれば、遠征軍内部の不満な勢力との間に内戦が発生し、多数の死者が出たということです。

結局、この内戦の勝利者が13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立てたと分かります。

そこで張政が再び登場し、檄文を以って台与に告喩します。つまり、この勝利者が実際上の倭国王になったので、「魏が後ろ盾になるから狗奴国と対峙せよ。そして狗奴国を滅ぼせ」という内容の檄文だと分かります。

張政は、狗奴国軍が到着したときにも、捕らえられたのですが、遠征軍の大将に狗奴国を裏切って魏を後ろ盾にするよう必死に説得したので、それに従った大将が倭国王に立ったのだと推理できます。そして内戦が終わるとまた勝者に捕らえられたので、勝者を説得したのです。二度も危うく殺される状況をうまく切り抜けた、とても有能な人物だったようです。狗奴国を裏切って倭国王に立った人物を説得して魏の同盟国にした功績が後に評価されて下級役人から帯方郡太守にまで出世できたと考えられます(注2)。

さて、内戦が収まって、掖邪狗ら二十人が、男女の生口(奴隷)三十人と白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を献上するために再び朝貢したと読めます。青大句珠は大きな青色の勾玉のことです。倭人伝には年号が記されていないので、その年(247年)に朝貢したということですが、大きな戦乱があった直後ですからとても信じられません。

そして、掖邪狗(ややく)という人物は、すでに卑弥呼の死の四年前の正始四年(243年)に倭大夫伊聲耆(いせぎ)とその他八人の使者と共に魏に朝貢しています。正使伊聲耆は何らかの理由で皇帝に拝謁できず、正使に替わって掖邪狗ら八人全員に率善中郎将の官位と印綬が授けられています。この官位は倭国王難升米と同じものですから、魏から見ると同格だったようです。

先述のとおり倭国王難升米が正使を伊聲耆と書いたのですが、意味のある漢字をあてています。「伊」は聖職者を意味し、「聲」は声ですから、密室でトランス状態の巫女に憑依した太陽神の神託を聞いて、その内容を解釈して部下や民衆に伝える縄文系のムナカタ海人族のシャーマン王(族長)だと分かります。倭人語で「イセ」と呼んでいたと考えられます。「耆(ぎ)」は老人の意味ですので、体力が持たず、正使の役目を果たせずに途中で亡くなったのでしょう。伊聲耆は天理市和邇坐赤阪比古神社で祀られた人物と推理しました。現在の祭神は宗像三女神の市杵嶋姫命となっています。卑弥呼の正体は宇佐神宮の祭神比売大神とされた市杵嶋姫命です。伊聲耆は卑弥呼の父赤坂比古で、和邇氏の祖だと推理しています(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」参照)。

また、掖邪狗は副使を表す「脇役(わきやく)」と同時に「稚児(ややこ)」いう意味にも取れますので、父の伊聲耆が亡くなって跡を継いで部族長となった卑弥呼の弟赤坂比古のことだと推理しています(当時の王名は、首長霊信仰から普通、襲名となっています)。頼りない若造だったので難升米がバカにして付けた名前でしょう。難升米は、おおむね漢字を読み書きできない縄文系の人間などには卑字をあてているようです(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」「倭人語解明のヒントだ!(^_-)-☆」参照)。

そして台与のこれらの献上品によって倭国は珍しい宝石の島という評判が立ったと王勇「中国史のなかの日本像 」(農山漁村文化協会2000)にありますので、青の大きな勾玉はガラス製ではなく、珍しい糸魚川産の青ヒスイだったと考えられます。つまり、台与も近江・北陸・越を支配するムナカタ族の姫巫女だったので卑弥呼の宗女とされたと推理できます。


糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉

ですから、先ほどの内戦の勝利者は、遠征軍の大将ではなく、山陰から近江・北陸・越のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗だったのです。豊岡市久久比神社の祭神久久能智神(くくのちのかみ、久々遅彦)で、上棟式祭神とされる木の神です。スサノヲの王子で木霊イタケルの子孫で、出雲・丹波王の襲名でした(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)」参照)。そうすると、久々遅彦に殺された狗奴国軍の大将は狗奴国の有力者だったと分かりますね(^_-)-☆。

この史実は日本書紀の中で仲哀天皇の熊襲征伐の話とされています。

ヤマト(纏向遺跡)から遠征した仲哀天皇は下関市豊浦宮で、敦賀から出発した神功皇后と落ち合い、福岡市香椎宮で武内宿禰が奏でる琴によって皇后に憑依した住吉大神(スサノヲ)の神託を疑ったために、突然崩御したとあります。史実はスサノヲの子孫久々遅彦(五代の天皇に仕えた三百歳の武内宿禰、記紀神話の大国主)に討たれた尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫ですので卑弥弓呼大王崇神天皇と同族の有力者)を仲哀天皇としたのです。ニギハヤヒ大王の都の倉敷市上東遺跡から、その子孫が纏向遺跡に遷都し、列島各地に散っていた狗奴国(旧奴国)の勢力を呼び集めました。纏向遺跡の外来土器の約半数が東海の土器ですから、狗奴国軍の大将が尾張王だと推理しました。神功皇后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)ですので、そのモデルである台与は近江を根拠地とする息長氏の祖と分かります。卑弥呼の死の直前の状況は下図のとおりです。



卑弥呼の弟赤坂比古が、卑弥呼の死を知って、向かってくる狗奴国軍に対して戦意喪失したので、倭国王難升米は再起を図るために親魏倭王の金印を持って帯方郡に逃亡したと見られます。しかし、帯方郡に苦労してたどり着いても、すでに張政が台与を卑弥呼の後継者にしたことを帯方郡太守に届けた時点で、難升米は魏にとって最早用済みとなって暗殺されたはずです。

弟赤坂比古はかつての主筋の久々遅彦に味方して、乎止与命を鳥栖市まで追いかけて直接討ったと推理しています。九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳に乎止与命を葬ったと推理しています。

ですから、久々遅彦の配下になった掖邪狗(弟赤坂比古)が朝貢したと分かりますが、これだけの大混乱があった正始八年であると考えるのは無理があります。しかも、途中で張政を帯方郡に送り届けたとあります。しかし、大混乱の後に新政権が生まれたばかりで、まだ落ち着かない時期ですから、有能な張政を外交顧問として倭国に滞在させたはずですので、即帰還させるはずありません。先述のとおり、下級役人の張政が後に帯方郡太守にまで出世していると考えていますので、張政が帰還する時期はもっと後の倭国の情勢が沈静化した時期になるはずです。魏から西晋に帝位が禅譲された翌年の泰始二年(266年)であるとすれば、台与が一世一代の献上品を贈ったことともつじつまが合います(詳細は「 【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。

ということは、魏志倭人伝には実は、泰始二年(266年)の西晋の起居注にある倭女王の朝貢のことまで書かれていたのです(注3)。陳寿は司馬懿の功績を称揚するために、台与のこの朝貢を載せる必要があったから年号を隠したと推理できます。

この後の話は、要点だけ述べると、尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)による仇討ち(記紀の景行天皇の九州遠征、詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)とその後の日本建国の戦い(記紀の崇神天皇の四道将軍の遠征・ヤマトタケルの東国遠征、詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)の結果、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)が倭国を滅ぼして日本を統一しました。しかし、狗奴国の後ろ盾にしていた呉が280年に西晋に滅ぼされて、久々遅彦(記紀神話の大国主)と台与の子(応神天皇)を纏向遺跡に呼び寄せて、両親の祭祀王とすることにより、狗奴国を邪馬台国の後継国にしたので纏向遺跡をヤマト(邪馬台)と呼ぶことにしたと推理しました(詳細は「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」参照)。これがヤマト王権の成立になります。詳細は、「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。




(注1)当時、戦乱で人口が十分の一まで減って十万戸の洛陽から遠く離れた大国が魏の皇帝を慕って朝貢するのは皇帝の徳の大きさを表すものなのです。

それまでの魏では、蜀を挟み撃ちにする十万余戸の西域の大国、大月氏国(クシャン朝)の波調王(バースデーバ)を朝貢させた曹操の甥の曹真が一番の功労者でした。洛陽から首都カーピシ(現在のアフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十余里と知られていました。曹真は直ぐに病死したので、長男の曹爽(そうそう)が親の功績で大将軍の地位にあり、少帝を支える司馬懿の最大のライバルだったのです。公孫氏を滅ぼした司馬懿は、倭国を朝貢させて、曹真を上回る功績にしたいので、洛陽から帯方郡まで五千余里ですから、洛陽から万七千余里に倭国王の居城の邪馬台国を置く必要があったのです。本当の倭国王の都伊都国では近すぎるので邪馬台国は帯方郡から東南万二千余里の位置にある戦略上最も重要な同盟国としたかったのです。

(注2)しかし、もしも難升米が張政を伴って帯方郡に逃亡していたらその後の状況は随分と違ったはずです。しかし有能な難升米は張政を連れて行こうと考えたはずですが、張政が狗奴国軍から隠れたのでしょう。したがって難升米がたとえ帯方郡にたどり着けたとしても、魏にとってはすでに用済みなので、抹殺されたと考えられます。そして、その後の日本の古代史が悲劇となったのも、この人物には責任はないのですが、張政が居なければ恐らく内戦にはならなかったと考えられますので、日本にとってもとても残念な出来事でした(張政の詳細については「【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。

(注3)■わが国出土の「位至三公鏡」第412回 邪馬台国の会 活動記録より)

わが国から出土した「位至三公鏡」(「双頭竜鳳文鏡」をふくむ)35面の出土地などの一覧表は、先出の拙著『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』(勉誠出版)に示した。  
わが国から出土した「位至三公鏡」については、次のようなことがいえる。

<中略>

(7)倭国は、西晋王朝と、外交関係があった。『日本書紀』の「神功皇后紀」に引用されているところによれば、西晋の『起居注』(西晋の皇帝の言行などの記録)に、西暦266年に倭の女王が晋に使いをだしたことが記されている(この倭の女王は、卑弥呼のあとをついだ台与であろうといわれている)。『晋書』にも、この年、倭人が来て入貢したことが記されている。[『日本書紀』は、卑弥呼と台与の2人に、神功皇后1人をあてている。これは、比定(ひてい)の誤りとみられている]
倭の使いが、外交関係にあった西晋の国から鏡をもたらしたとすれば、その鏡の中には、「位至三公鏡」がふくまれていた可能性が大きい。
「位至三公鏡」などのこのような傾向からみれば、西暦300年近くまで、中国と外交関係をもった倭は、北部九州に存在していたようにみえる。

最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

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魏志倭人伝を推理する(その1)

2025-01-08 20:59:52 | 古代史

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魏から見た魏志東夷伝(毌丘倹と王頎の活躍)(景初2年~正始8年)(西暦238年~西暦247年)東夷の動乱
古代史ハルキー
@YouTube

@katumoku10
明けましておめでとうございます(^_-)-☆
今回もまた、とても勉強になる、いい解説をありがとうございます!

魏志倭人伝の解釈上、とても重要な時期ですね。倭大夫難升米が帯方郡に景初二年六月とあるのは前後の話から景初三年の誤写であり、以下のような経過で難升米が洛陽に行ったと考えるのが正しいと考えています。
まず、景初二年(238年)八月に司馬懿が公孫淵の軍を破った後に、公孫淵は命乞いしたのですが、家臣まで全員斬り殺して、さらに襄平に入城して15歳以上の男子七千余人の首を斬って、うず高く積み上げて京観を作ったとあります。

公孫氏滅亡の知らせを明帝が知った後に、あらかじめ明帝が密かに(策士の司馬懿に内緒で)準備していた軍船に兵を載せて楽浪郡と帯方郡を落として三韓を平定し、それぞれ鮮于嗣と劉昕を太守にしました。
明帝が景初三年(239年)一月に崩御すると、少帝の後見役を任された司馬懿が早速、帯方郡太守劉昕に替えて部下の劉夏を派遣しています。それまで公孫氏に朝貢していた倭国王は残虐な司馬懿に討たれることを怖れていたために、劉夏に促されて、景初三年(239年)六月に大夫難升米が帯方郡に行き、そこで約半年待機して、十二月に劉夏(の部下)が護衛して上洛しています。(2025.1.5 赤字追加)

その半年もの間に、正式に太傅(後見人)となった司馬懿は録尚書事に就き、詔勅や人事まで口出しできる立場になって朝廷の実権を握ります。

劉夏と難升米に談合させて、倭国を女王卑弥呼が統治し、その都邪馬台国を帯方郡から東南万二千余里もの遠い場所で、戦略上ライバルの呉を東から挟み撃ちする重要な位置にあるという設定にして、司馬懿自身の功績を曹魏第一等のものにしたと推理できます。これによってライバルの大将軍曹爽を抑えて魏の実権を完全に握り、司馬懿の孫の司馬炎が帝位を禅譲させ、西晋を建てたと分かります。

つまり、正始六年(245年)に魏の軍旗「黄憧」を直接渡された難升米が倭国の軍権を握る本当の倭国王だったと分かります。卑弥呼はこの談合で作られた架空の女王ということですが、卑弥呼は実在人物で、その宮室のあった場所を基に、デタラメな行程記事を難升米が創作したと考えられます(ちょっと込み入っていますが、107年に(後漢安帝に)朝貢した倭国王帥升の子孫の伊都国男王だと推理しています。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。(2025.1.5 赤字追加)

ですから邪馬台国への行程記事は、政治的に作られたものですので、これを根拠に位置を決めても、いかようにも解釈できますので、300年論争しても万人が納得する場所が決められなかったと分かります。
そこで、魏志倭人伝にある行程記事以外の邪馬台国の記述に基づいて推理すればいいと分かりました。詳しくは「【謹賀新年】今年の始まりも邪馬台国!( ^)o(^ )」に述べましたので、よろしければご参照ください。長々とお邪魔しました(#^.^#)

@takedaharuki
明けましておめでとうございます。

このあたりの東夷の出来事は、魏志倭人伝の記事とも絡む出来事だと予想しています。復元ストーリー素晴らしいです。時系列については私も全く同意見です。黄憧を名指しで渡される難升米については、確かに不思議なものを感じています。今日はなぜかブログの方にアクセスできず。近々、覗いてみます。

@katumoku10
 @takedaharuki  さん 早速、いいお返事を頂き感謝いたします。
この難升米という人物はとても勇気と知恵のある人物ですよ。孫栄建氏も彼が本当の倭国王であったと著作の中で推理しています。ただ、彼が帥升の一族であると気づくと当時の歴史がリアルによみがえってきます。まるで精巧な推理小説の世界のようです。ぜひ、拙ブログをご参照ください。

gooブログですが、正月2日未明にサイバー攻撃があったようで、苦労しました。もう修復されているものと思っていましたが、未だなのですね。某国のしわざのような気がしますが、はっきりしません。こりずにまた、覗いてみていただけると有難いです。今年も、精力的なご活躍を期待しています。いろいろとお教えください(#^.^#)

@user-ike-s
 @katumoku10  欄外から失礼します。とても面白く興味深い考察ですね。一方で、アマプラでやっている『三国志 司馬懿軍師連盟』のように、司馬懿は非力な読書家で、徳による人望で将軍に推されたとする説もあります。司馬懿が大虐殺をした人骨などの証拠はありません。ただ、下級文官だった司馬懿は、曹家の武官と争っていたようで、難升米などの倭の勢力となんらかの策謀をはかった可能性はあります。陳寿も司馬懿に惹かれて蜀から魏(西晋)へ身を寄せたわけですし、隠したことはあったと思います。

@katumoku10
 @user-ike-s  さん 長文を読んでいただき、どうもありがとうございます。アマプラでやっていたのですね。気づきませんでした。ただこのテレビドラマの原作は正史「三国志」から14・15世紀に作られた歴史小説「三国志演義」に基づき、脚色があるもののようですので、必ずしも史実ではない部分があることをご理解くださいね。でもエンターテイメントですので見てみたいですね。どうも有難うございました(#^.^#)

@user-ike-s
@katumoku10  本当にそうですね。妄想が際限なく広がってしまいます。古代妄想教です。

amazon primeに加入すると無料です。1本が45分のドラマが86本ですので、通しで見終わるまで1週間くらいかかる計算です。ものすごいので、とりあえず明帝の時代から見出したら他のことができなくなりましたので、現在途中で止めています。やはり、司馬懿が主人公ですので、狡猾さは見られず、とても思慮深いキャラクターに脚色されています。諸葛孔明の空城の計等々、娯楽的な要素が強く、なかなか楽しめる場面が多いですので、また余裕ができたら続きを見ようと思います。(^^;)

【関連記事】

発想の転換は「ちゃぶ台返し」ではないですヨ!(その1)(その2)

文献史学の先生に貴重なご意見を頂戴しましたが、従来の考え方では邪馬台国には到達できないことがよく分かりますよ(#^.^#)

最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

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【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)

2025-01-07 15:14:18 | 古代史

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#2021-08-14 17:07:04に記事にしましたが、少しだけ追加・改訂して公開します。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

前回、日本建国の謎を解くキーパーソン倭国王難升米(「なしょめ」)の一生を見ましたが(「【検証22】難升米という人物は?(その1)(その3)」参照)、今回は、帯方郡から使いとして難升米王に詔書と黄幢(魏の正規軍の軍旗)を届けに来た、難升米王の運命を決めた人物のひとりである張政について見て行きます。

というか、日本の歴史を悪い方向に変えたと言ってもいい人物でした(*´Д`)

張政は、塞の曹掾史という役職と「魏志倭人伝」にあります。「国境守備の属官」と藤堂らが解説していますから下級役人です(「倭国伝」講談社学術文庫2010、p.113)。しかし、帯方郡に新しい太守王頎(おうき)が着任し、その挨拶と狗奴国との戦況報告で来た倭国の使者たちに預けず、倭国に魏を代表する大使として張政を派遣して、重要な品々を届けさせたので、張政はかなり評価の高い人物だったようですが、本当に有能な人物でした(@_@)

張政は倭国王に「檄を作りて之を告喩せしむ」と「魏志倭人伝」にありますから、魏の皇帝が黄幢を与え、後ろ盾になっているから安心して狗奴国と戦えというお触れを出したということでしょう。

しかし、「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」とあり、すでに卑弥呼は亡くなっていました。そして、「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」とあるとおり男王が立ったのが皆不服で、殺し合いになり千人余りが亡くなったとあります。

ここで、この男王を難升米王と見る方がいるかもしれませんが、もしも狗奴国勢が倭国に押し寄せていなければ、すでに卑弥呼の政治を輔佐する男弟が王に立っても誰も不服に思うはずありません。狗奴国勢が到着して倭国勢と戦闘になって倭国が勝ったと考えるならば、戦闘に勝利した倭国王が称えられるはずで、「國中服さず」という表現は当たりません。ですから卑弥呼の後に立った男王は難升米王ではあり得ません。

次に来る「復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與」という説明から考えると、狗奴国勢はすでに難升米王の倭国を蹴散らして、狗奴国軍の大将が男王、つまり倭国王に立ったので、纏向の狗奴国王卑弥弓呼を裏切ったことにより、部下たちから不満が出て、内部で争いになったと考えるのが自然です。

そしてこの戦いに勝利して、死んだ卑弥呼の後の倭国女王に卑弥呼と同族の13歳の台与を立てて争いを収めたというのですから、これはこの内戦の勝者が狗奴国大王を裏切って魏を後ろ盾にしたと分かります。

そしてその女王が子供だということですから、実質的な王はこの戦いの勝者です。台与は卑弥呼と同族だというのです。すでに卑弥呼は玄界灘を支配するムナカタ海人族(和邇氏の祖)の姫巫女(宗像三女神の市杵島姫)と推理しています。なので、台与は日本海沿岸を支配するムナカタ海人族の姫巫女ということです。代々ムナカタ族に王とされていたスサノヲ大王直系の狗古智卑狗(久々遅彦)が内戦の勝者だったと分かります。「魏志倭人伝」で狗奴国の官として、卑弥弓呼王よりも先に登場する、狗奴国の有力者です(注1)。

これによって久々遅彦(狗古智卑狗)は卑弥呼の版図であった九州・四国・中国西部を加えて山陰から北陸まで支配する王になり、さらにその後も紀伊半島沿岸部や静岡県・長野県や関東各県など列島の大部分を支配することになったので(【検証19】日本建国のための戦いだ!」)、後世に大国主命と呼ばれて各地で祀られています。下の図は纏向の狗奴国が大国主の版図を武力で奪った証拠です。記紀では景行天皇・日本武尊(ヤマトタケル)や崇神紀の四道将軍の話に対応します。神代では大国主の国譲りという神話を創作して藤原氏の遠祖建御雷神(タケミカズチ)を活躍させました。(2021.8.20 青字追加)

(左クリックで拡大)

ということで、「政等以檄告喩壹與」ですから、張政は勝者の大国主久々遅彦に魏を後ろ盾にするように説得して、台与を女王と立てたと推理できます。もしも、久々遅彦が、狗奴国大王を裏切らなかったとしたら、倭国は魏と敵対することになったはずです。東夷の果ての倭国の、それと敵対する狗奴国との抗争に対してわざわざ魏が詔書と黄幢を持たせて使者を送ったその背景には、曹魏と敵対する孫呉が狗奴国の後ろ盾になっていた可能性も考えられます(注2)。

ですから、倭国が曹魏を裏切らないように工作した張政の功績は曹魏(実質上、司馬懿)が賞賛すべきものでしょう。その後「魏志倭人伝」では「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」と締めくくられています。掖邪狗(ややく)は、正始四年(243年)に魏に派遣され、生口や倭の錦などを献上して、難升米王と同格の率善中郎将と印綬を授けられた人物です。倭国王が大国主に代わっても要職に就いていますので、掖邪拘はムナカタの族長で和邇氏の祖の卑弥呼の弟赤坂比古と推理しています(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。

張政は掖邪拘らに帯方郡に送り届けてもらったとありますが、この記事に年号が書かれていないので、明確には分かりませんが、正始八年(247年)に次々起こった混乱が収まってからのはずです。その時の献上品から見ると、後漢の時代から倭国が贈ったもので最高の品々です。取り敢えず急いで朝貢するには豪華すぎます。大国主が狗奴国を裏切ると決断して魏を後ろ盾にしたばかりですから、ある程度落ち着くまで張政は帰国できないはずです。ですから、張政は帯方郡太守には使いを送って状況を報告し、倭国の状況は司馬懿の耳に入って、司馬懿としては張政を倭国に留めて、その活躍に期待したのだと考えられます。

さて、そこでその推理を裏付ける証拠が帯方郡址と考えられる黄海道鳳山郡文井面(北朝鮮沙里院)で見つかっています。図のような帯方郡太守張撫夷墓と銘が塼に記されたレンガ造りの立派な墓です。太歳戊申と年号が書かれており、288年ということになります。干支ですから60年ごとに戊申の年が来ますので、348年とも考えられますが、帯方郡は204年に公孫氏が設置してから313年で終わっています。墓の型式編年とも矛盾しないと報告されていますので288年で良いようです。(注3)

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黄海道安岳郡龍順面の安岳三号墳の墓誌に「護撫夷校尉」と書かれたものが見られ、撫夷は韓を含む東夷を担当する武官の職名とも考えられますが、東晋穆(ぼく)帝の永和十三年(357年)のものです(斎藤忠「古代朝鮮文化と日本」東京大学出版会. 1981、p.28)。

ですから撫夷が一般的な官職であると考えると帯方郡太守張撫夷は帯方郡太守と同じ意味合いの東夷を担当する者ということになりますから、撫夷とわざわざ記すには特別な理由があると思います。つまり、正始八年(247)に派遣された塞曹掾史張政が東夷の大国であった倭国で、上に述べた顕著な功績を揚げたことを記念して撫夷という字(あざな、成人して実名のほかにつける別名)を自ら名乗ったと考えるのが自然です。その後の東晋でも、東夷の統治で功績を揚げた張政の事績から撫夷校尉という官職名にしたものではないかと考えます。

さらに、塼で見られた張使君ですが、(注3)に紹介された字(あざな)とする説や西谷正先生の訳にある尊称とする説もありますが、国から詔書と黄幢を持って倭国に派遣された「大使」という意味が張政にピッタリです。

下級役人であった張政がその後も魏少帝(事実上は司馬懿)の命を受けて倭国に、一旦帯方郡に帰還した後も、官職は分かりませんが度々大使として派遣されて滞在したと考えられます。あるいは、そのまま倭国に大使として滞在して、大国主の倭国の対外政策を監督したとも考えられます。

265年に司馬懿の孫司馬炎が魏から帝位を禅譲されたので、その挨拶のために女王台与が翌266年朝貢した際に、掖邪拘に張政を帯方郡まで送らせたのかも知れません。というのも、献上したものが、前述どおり前例のない豪華なものなのです。青大句珠は青い大きな勾玉ですから、「隋書 倭伝」に記された『如意宝珠有り、その色青く、大きさは鶏卵の如く、夜はすなわち光り有り、云う、「魚眼精」也と』とある魚の眼精(まなこ)と呼ばれる珍しい宝石を思い起こさせます(注4)。台与のこの献上品によって倭国は珍しい宝石の島という評判が立ったと考えられます(王勇「中国史のなかの日本像 」農山漁村文化協会2000) 。

張撫夷に話を戻して、西晋武帝司馬炎の晩年ですが、288年頃に張使君の長年の功績が認められてようやく帯方郡太守に出世したので、河北省の漁陽郡の父母の遺骨を移し、自分もこの墓に入るために立派なレンガ造りの墓を造ったのではないかと考えられます。247年に倭国に最初に派遣されたときに三十歳くらいだとすれば四十年後ですから七十歳くらいです。もう少し若かったのかも知れませんが、かなり優れた人物ですよね。

【参考記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆

事実から推理して仮説をさらに事実で検証を繰り返す「アブダクション」という科学的な手法を説明しています。この手法のすごいところは当初考えもしなかった新たな発見が次々とできて、驚くほど詳細な仮説にすることができるのですよ(^_-)-☆


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




(注1)卑弥呼の死の直前の様子は下図のとおりと推理しました。


狗奴国軍が倭国に到着して、伊都国に居た倭国王は247年3月24日日没帯食(北九州は皆既日食)を見たために卑弥呼を暗殺したことから卑弥呼の弟赤坂比古が戦意を喪失し、倭国が分裂してしまいます(詳細は「卑弥呼の日食のはなし?!(@_@)」参照)。

倭国王は後日、曹魏を利用して巻き返す目的で、金印を持って半島に逃亡したと推理できます。

狗奴国軍の大将は尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)でした。纏向遺跡を王都とする狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)と同族の有力者です。纏向遺跡の外来土器の約半数が東海のものであることから推理しました。記紀では仲哀天皇としています。

そして無傷で倭国を手に入れた乎止与命が捕らえた張政の甘言に乗って倭国王に立とうとしたので、副将として参加した出雲・丹波王の久々遅彦が不満として、狗奴国軍の内戦が勃発したと推理しました。赤坂比古はかつての主筋だった久々遅彦を助けて、乎止与命を討ったと推理しています。乎止与命の墓が九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳と考えています。その横に直径約140ⅿの愛宕神社古墳が赤坂比古(日本書紀の日触使主)の墓と推理しています。

(注2)孫呉の紀年銘の鏡が二面あります。山梨県鳥居原古墳の赤烏元年(238)銘の画文帯神獣鏡と、兵庫県宝塚市安倉遺跡の赤烏七年(244)銘鏡です。狗奴国が孫呉を後ろ盾としていたので、曹魏の正規軍旗を倭国王に授けたと考えられます。

(注3)竹谷俊夫「張撫夷墓塼の観察所見」(「王権と武器と信仰」同成社2008,p.488)の(20)に以下のとおり記述されている。
町田章1979「帯方太守張撫夷墓」世界考古辞典(上)平凡社655頁
出土した銘文塼から「・・・墓主は中国河北省蜜雲県(漁陽)出身で、張撫夷(字は使君)といい、帯方太守であったことがわかる。戊申の歳は、西晋の大康9年(288)にあたり、墓の型式編年とも矛盾しない。この墓の存在は、同じ文井面にある唐土城を帯方郡治址とする有力な根拠になっている」と述べている。
有光教一 1959「帯方郡遺跡」『図解考古辞典』平凡社 609頁 


(注4)「隋書 倭伝」ではその前に阿蘇山が紹介されているので、阿蘇で採れる青ガラスの勾玉という解釈もありますが、台与は越(こし)を支配するムナカタ海人族ですので、糸魚川でしか取れない青ヒスイと考えるのが良いようです。


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庚申信仰の正体?(#^.^#)

2025-01-05 18:21:23 | 古代史

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【ゆっくり解説】道でよく見かける 庚申の謎

いい話題を有難うございます。

天台宗の僧が道教の影響を受けて始めたのが庚申信仰で、道祖神信仰と同じ神様を祀っているんですよ。

3世紀後半の日本建国の主役高野御子(狗奴国の官狗古智卑狗日高彦の御子の隠語、豊岡市久久比神社祭神久々遅彦は縄文海人ムナカタ族を束ねる王の襲名)が大国主という神様として祀られているのですよ。ヤマト勢に討たれた大国主・女王台与、そして、ヤマトのせいで暗殺された卑弥呼や大国主の祖神スサノヲの祟りが怖ろしいので、神仏習合して様々な名前で祀られています。

庚申塔や道祖神は厄除けです。七福神は怖ろしい神様の祟りを抑えたいために福の神のように持ち上げるために作った神様で、その正体は男神6人とも大国主の分身で、紅一点の弁財天が宗像女神市杵島姫「卑弥呼」なのですよ。台与は天女の羽衣の吉祥天として八福神が祀られている地方もありますよ(詳細は「本当は怖い七福神の謎(;一_一)」参照)。道祖神は大国主サルタヒコで、時々見られる男女の神様は大国主と台与のペアです。各地の神社でいろいろな名前の男女ペアの神様はたいていはこの二人を祀っています(詳細は「道祖神もやっぱり(^_-)-☆」参照)。

何故かと言うと藤原不比等が日本書紀で都合の悪い建国時代の史実を神話を創って誤魔化したから、大ぴらに大国主を祀れないのです。大国主の分身が日本書紀でサルタヒコとされましたので、申(さる)なのです(詳細は「「申」をなぜ「サル」と読むの?」参照)。

だから平安時代に密教が流行りましたが、真言宗は大国主の諱の高野御子を祀っていますし、天台宗では日吉(日枝)神社で大国主の分身大山咋神を祀って、猿を神の使いとしています(詳細は「大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)」参照)。

密教は、修験道の山岳修行で得た超能力によって大国主らが祟らないように鎮魂し祈祷するための当時の最先端理論だったのです。詳しくは「古代史のカギを握る神々の正体?」「庚申塚もそうだったの?」「天狗の正体もヤッパリ(^_-)-☆」「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!」などをご参照ください(#^.^#)

 

庚申信仰についてもう少し解説しますと、wiki「庚申信仰」によれば、『中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教神道修験道呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。』とあります。

三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫のことで、「60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。」とあります(wiki「三尸(さんし)」より)。

日本での起源は、天台宗の僧が遣唐使に伴い日本に持ち込んだ風習で、平安時代の貴族社会で、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す後に「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称された宴が始められ、庚申信仰は15世紀中頃から仏教と結びついて一般にも広まったようです。また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から「庚申(供養)塔」などが作られ、庚申堂では神の使いとして「三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)」をご神体とし、更には「三猿」を脇に置く青面金剛が本尊とされるようになります。

福岡市早良区の猿田彦神社では庚申(かのえさる)の日に庚申祭を行いますが、導きの神「猿田彦(サルタヒコ)」が災難を払うとされています。初庚申(はつこうしん)は年の最初の庚申の日をいい、今年2025年は2月20日(木)だそうです。

 

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其の國、本亦男子を以て王と爲(な)す!(^_-)-☆

2025-01-04 06:25:09 | 古代史

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【古事記一新】第二十七話・其の國、本亦男子を以て王と爲(な)す。
北行古事記一新ちゃんねる@YouTube

倭国王帥升のことだと思いますが、ご存じのとおり後漢書の原本が散逸していますので、原本を引いた文献から倭面土国王升が正しいようなのです。(2025.1.4 赤字訂正)

しかし、魏志倭人伝の記事から、倭国の中で王が居たのは伊都国男王だけですので、白鳥庫吉は面は回の俗字の囬の誤写と考えて、倭の囬土(ウィト)国王が正しいとしています。

師姓は「風俗通義」によれば周代以前から宮廷祭祀の楽師に与えた官位だそうですので、50年前に後漢光武帝から金印を賜った奴国の宮廷楽師だったと分かります。つまり、奴国の楽師師升らが反乱を起こして倭国を奪い、王都を伊都国に遷したということが分かります。

その物証は延光四年(125年)と記された黄銅製の室見川銘板です。内容が祭祀にこだわったものですので師升王が作らせた日本最古の金石文だと分かりました(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。

そして、師升らの反乱で殺された奴国王が「古事記」から分かりました。

宋史王年代紀18代王素戔嗚尊が高天原神話の乱暴者の神スサノヲでした。八百万の神々がスサノヲを捕らえて拷問し、財産を奪ったことが書かれていました。師升は奴国王に成りすますために金印を手に入れようとスサノヲを拷問したのですが、いち早くスサノヲの部下のアズミ族が持って逃げ、途中で志賀島に寄って土の中に埋めたのです。それが江戸時代の百姓によってたまたま掘り出されたということです。師升らは代わりに160名もの生口を献上して王に認められたわけです。

この史実は日本書紀の編纂者も分かっていたことが仲哀天皇四年に博多の奴国を儺縣としていることから判明しました(注)

スサノヲの史実は平安時代にも知られており、疫病神の元締めとされ祇園霊会や熊野信仰になっていることから分かります。

記紀が天皇の歴史書だという洗脳から覚めると古代史が分かってきますよ。

詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)」をご参照ください。どうもお邪魔しました(#^.^#) 

 

(注)於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)

」という漢字は『おにやらい。鬼(疫病神)を追いはらう儀式。「追儺(ツイナ)」』という意味です(漢字ペディアより)。平安時代には牛頭天王スサノヲは疫病神の元締めと見做されており、祇園御霊会が行われ、熊野信仰が流行しました(詳細は「熊野信仰の秘密?」参照)。

 

ご祭神:蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと) 例祭:一月十九日

素戔嗚尊が南海を旅された際、2人の兄弟の神様に宿を請います。巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福でありましたが宿を貸さず、蘇民将来は貧しいながらも粟で手厚くおもてなしされました。感激された素戔嗚尊は、後年疫病が流行しても「茅の輪」をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば災厄から免れると約束されました。疫病退散の御利益のある神様として信仰されております。八坂神社ホームページより)

【関連記事】

倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

帥升はきっと徐福が連れて来た楽師の子孫でしょう!スサノヲが何故疫病神とされるかは、この記事にありますよ(^_-)-☆(2025.14 赤字追加)

【驚愕!】記紀神話は江戸時代にできたの?(@_@)

古事記は祭祀関係の氏族が細々と伝えていたのです。国学者の本居宣長が発掘して絶賛しなければ、いまでも中世日本紀が語り継がれていたと思いますよ(^_-)-☆

伊都国の意味がヒントだった?(@_@)

魏志倭人伝に囬土(ウィト)国のことを伊都国と書いたので魏の帯方郡太守に教えた人物が判明しました(^_-)-☆

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