高野悦子著『二十歳の原点』を読む。
高野さんと私はほぼ同じ世代だ。
この本がコミック化されたという記事を読み、これまで小説を読んでいなかったので
本屋に買いに行った。
まさかないだろうと思ってはいたが、文庫コーナーにありました。
昭和54年発行、平成29年版は54刷になっている。
高野さんは1967年に立命館大文学部史学科に入学し、
大学紛争がエスカレートする中で、自ら行動すべくバリケードに入る。
そして1969年の6月に鉄道自殺している。
私が大学に入学したのは1969年なので、大学紛争が一番激しい時を知らない。
それでも立看やアジビラ、マイクからのまくし立てるようながなり声は日常だった。
内ゲバからキャンパスで人が殺されたり、キャンパス内で投石騒ぎがあったり、
学部の入り口にバリケードが築かれて、他のセクトの人間が締め出されたりして、
今では考えられないようなことが起きていた。
私は常に部外者だったので詳しいことは知らないが、
少なくとも当時の学生は、自らが社会の盾になるといった気構えがあったようだ。
高野さんは、「独りであること」、「未熟であること」、
これが私の二十歳の原点であると書いている。
どうやって生きたらよいのか分からずに悶々としていた当時を思い出すと、
この言葉が一番共感するところだ。
「私はいつもまじめであり真剣である。そして純粋さも持っている」と
ご自分を書いているが、繊細な感覚や周りに流されまいとする一途(いちず)さ、
そしてたくさんの本を読み、ジャズを愛し、煙草を愛した高野さんが
追い詰められていった時間は、あまりにも短い。
心に残った箇所を引用させて頂きます。
①私は弱い
自分が何をやりたいのかさえわからない
それでも朗らかに人と話し笑う
しかし ふっと気づく
なぜ笑い 話をするのだと不安になる
その時 目に見えぬ世界が知らぬまに
私の体を動かしているのに気づく
それは地主の世界なのか
サラリーマンの世界なのか
マルクスの世界なのか
資本の世界なのか 何もわからない
自分の世界が私の知らぬまに存在している
なんだかわからぬものによって
私は動かされている
激しい感情に身をまかせもせず
生きる情熱も失せているまま
私は煙草(たばこ)をすう にがい煙草をすう
私はこの部屋の中で ここは私の世界だ
しかし一たびここを出ると 私は弱くなる
クラス討論の場で煙草をすわせない何ものかがある
煙草を買うのを恥ずかしめる何ものかが存在する
私は弱い
②自分の世界を作りあげようとすれば、すぐに政府という怪物にぶち当る。
それは笑顔のうちに非情さと残酷さをもち、いつのまにかしのびよる煙のような
怪物だ。ブルジョア新聞を読んで、あせりを感じるようでは、
そんな怪物に太刀打ちできない。
新聞、雑誌、本をよんで考えよう。人と話をしよう。これぐらいで自暴自棄になる
なんて甘すぎる。政府や独占資本は巨大な怪物であることを銘記せよ。
父と母の面前で煙草を吸って、両親と対決することができるだろうか。
かみそりで指先を切るよりも、自分のほおを思いきり叩(たた)くことよりも、
それは幾十倍の勇気がいることだろう。
③高石友也の「坊や大きくならないで」をステレオできく。
ベトナムであの歌をうたっている数多くの女達がいるということを、
一体どう考えたらよいのか。
「マイケルズ/坊や大きくならないで(1969) YOUTUBE」からお借りします。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=vh0vtSmhQEw&list=PLbSHtUHzaL6lMWJNqX6aPnsnCPomN23aq&index=79&t=0s
④人間は醜い。ずっと前、横田君がいっていた。"I have my mother very much"
翌晩、私は思った。"My mother is ugly, my father is ugry"
彼らは動物的な肉体関係をもっているのに、そんなものとは遠く離れた世界の中に
生きているふりをしている。その父と母から、性交によって生まれてきた私。
キリストのいう原罪。そして私自身も醜い。鈴木との肉体関係をのぞむし、
くさいくそもすれば、小便もする。メンスのときは血だらけになる。 ②につづく

高野さんと私はほぼ同じ世代だ。
この本がコミック化されたという記事を読み、これまで小説を読んでいなかったので
本屋に買いに行った。
まさかないだろうと思ってはいたが、文庫コーナーにありました。
昭和54年発行、平成29年版は54刷になっている。
高野さんは1967年に立命館大文学部史学科に入学し、
大学紛争がエスカレートする中で、自ら行動すべくバリケードに入る。
そして1969年の6月に鉄道自殺している。
私が大学に入学したのは1969年なので、大学紛争が一番激しい時を知らない。
それでも立看やアジビラ、マイクからのまくし立てるようながなり声は日常だった。
内ゲバからキャンパスで人が殺されたり、キャンパス内で投石騒ぎがあったり、
学部の入り口にバリケードが築かれて、他のセクトの人間が締め出されたりして、
今では考えられないようなことが起きていた。
私は常に部外者だったので詳しいことは知らないが、
少なくとも当時の学生は、自らが社会の盾になるといった気構えがあったようだ。
高野さんは、「独りであること」、「未熟であること」、
これが私の二十歳の原点であると書いている。
どうやって生きたらよいのか分からずに悶々としていた当時を思い出すと、
この言葉が一番共感するところだ。
「私はいつもまじめであり真剣である。そして純粋さも持っている」と
ご自分を書いているが、繊細な感覚や周りに流されまいとする一途(いちず)さ、
そしてたくさんの本を読み、ジャズを愛し、煙草を愛した高野さんが
追い詰められていった時間は、あまりにも短い。
心に残った箇所を引用させて頂きます。
①私は弱い
自分が何をやりたいのかさえわからない
それでも朗らかに人と話し笑う
しかし ふっと気づく
なぜ笑い 話をするのだと不安になる
その時 目に見えぬ世界が知らぬまに
私の体を動かしているのに気づく
それは地主の世界なのか
サラリーマンの世界なのか
マルクスの世界なのか
資本の世界なのか 何もわからない
自分の世界が私の知らぬまに存在している
なんだかわからぬものによって
私は動かされている
激しい感情に身をまかせもせず
生きる情熱も失せているまま
私は煙草(たばこ)をすう にがい煙草をすう
私はこの部屋の中で ここは私の世界だ
しかし一たびここを出ると 私は弱くなる
クラス討論の場で煙草をすわせない何ものかがある
煙草を買うのを恥ずかしめる何ものかが存在する
私は弱い
②自分の世界を作りあげようとすれば、すぐに政府という怪物にぶち当る。
それは笑顔のうちに非情さと残酷さをもち、いつのまにかしのびよる煙のような
怪物だ。ブルジョア新聞を読んで、あせりを感じるようでは、
そんな怪物に太刀打ちできない。
新聞、雑誌、本をよんで考えよう。人と話をしよう。これぐらいで自暴自棄になる
なんて甘すぎる。政府や独占資本は巨大な怪物であることを銘記せよ。
父と母の面前で煙草を吸って、両親と対決することができるだろうか。
かみそりで指先を切るよりも、自分のほおを思いきり叩(たた)くことよりも、
それは幾十倍の勇気がいることだろう。
③高石友也の「坊や大きくならないで」をステレオできく。
ベトナムであの歌をうたっている数多くの女達がいるということを、
一体どう考えたらよいのか。
「マイケルズ/坊や大きくならないで(1969) YOUTUBE」からお借りします。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=vh0vtSmhQEw&list=PLbSHtUHzaL6lMWJNqX6aPnsnCPomN23aq&index=79&t=0s
④人間は醜い。ずっと前、横田君がいっていた。"I have my mother very much"
翌晩、私は思った。"My mother is ugly, my father is ugry"
彼らは動物的な肉体関係をもっているのに、そんなものとは遠く離れた世界の中に
生きているふりをしている。その父と母から、性交によって生まれてきた私。
キリストのいう原罪。そして私自身も醜い。鈴木との肉体関係をのぞむし、
くさいくそもすれば、小便もする。メンスのときは血だらけになる。 ②につづく
