生半可な知識で、原発や政治について書くのを止めようかと考えていたところ、
今朝(9月23日)の新聞の一面に、「慰謝料打ち切り再検討」の記事があった。
勝手に「避難指示解除準備区域」を決めて、そういうことなら原発事故前の年間被曝線量
1ミリシーベルトに戻してから解除して欲しい。
それが出来ないのなら、「避難解除後1年をめどに慰謝料打ち切り」などもっての外だと思う。
福島第一原子力発電所の事故が起きるまでは、一般の人が浴びても差し支えないとされる
1年間の被曝量の基準は、1ミリシーベルトであったはずだ。
だが避難指示解除準備区域は、放射線の年間積算線量が20ミリシーベルト以下となることが
確実あるいは確認された地域とある。
1ミリシーベルトであったものが、なぜ20ミリシーベルトにされて、
我慢しなければならないのか。
1ミリシーベルトなど夢のまた夢なのか。
ETV特集「原発事故 国家はどう補償したのか~チェルノブイリ法23年の軌跡~」を観て、
やはり年間積算線量が1ミリシーベルトを超える地域は、汚染地域であると確信した。
(後にも書きますが、ウクライナでは年間被曝線量を1ミリシーベルトと明記し、
それ以上の地域は被曝の対象とした)
そしてどこに住むかは住民が選択権を持ち、いずれの選択をしても、十分な補償が
得られるようにすべきだと思う。
決して豊かとは言えないウクライナが、そうして来たのだから。
ここからは番組の内容です。
2013年10月、ウクライナのキエフで、「チェルノブイリの経験をフクシマへ」という
ワークショップが開かれた。
元環境大臣ユーリ・シチェルバク(チェルノブイリ法に携わった人)の言葉
「私たちはチェルノブイリ事故に関する環境や住民保護の知識をたくさん持っています。
最も大事なことは、被災者をどう守っていくかということです。
私たちの経験を日本のみなさんは是非、活かして欲しいと思います」
番組の中では、議員やチェルノブイリ事故に携わった労働者、被曝した住民などが、
当時の状況や被曝の実態、補償の現実について、自分の言葉で語っている。
チェルノブイリ原発事故は1986年4月26日に旧ソビエト連邦で起きたが、現在はウクライナに
なっている。(1991年ソ連は共和国の脱退により崩壊し、共和国はこの時にすべての国が
独立国となった)現在、ウクライナ政府が被災者と認めているのは213万人。
被災者に対する補償は、ウクライナ政府が続けてきた。補償の根拠となっているのが、
事故の5年後に制定された「チェルノブイリ法」だ。
そこには「国が被災者の生活と健康を世代を超えて守り、被害の補償を続ける」と
規定されている。
元ウクライナ大統領の言葉
「チェルノブイリ原発事故は、完全に国家に責任があります。国民には何の罪もありません。
国民はなぐさめの言葉や同情だけでなく、法律により保護されるべきです」
事故当時、放射能情報は国民に知らされず、5日後にはメーデーを楽しみ、
たくさん被曝をした。
その後もソビエト政府は、放射能の汚染情報を隠し続けた。
ソビエト全土から80万人もの兵士、消防士、警察官が動員され、知識もなく、
不十分な防護服で原子炉の消火や瓦礫処理に当たったのだ。
やがてソビエト連邦の共和国の一つで、チェルノブイリ原発を抱えるウクライナから
批判の声が上がった。彼らはプラカードを持って抗議した。
「チェルノブイリ被害者の犠牲の上に国家の繁栄はない」
そしてゴルバチョフ書記長に窮状を訴える手紙を送った。
元原発作業員 ザハルチェクの手紙
ゴルバチョフ同志様
心からのお願いです。私は原発近くの町フリキャチからの避難民です。
身体を壊してもう2年間、働けません。
あなたの力で家族を助けてください。
私を不幸のまま見捨てないでください。
工場労働者 ルイリンの手紙
拝啓ゴルバチョフ様
機械工場の労働者です。
私の町には11万4千人が住んでいますが、まだ何の援助もありません。
汚染されていない食料を下さい。
政府は私たちの救援策を早く決めてください。
キエフの市民集会では、事故処理の作業員とウクライナの市民が一丸となって、
ソビエト政府に抗議するようになる。
ユーリ・シチェルバク(元環境大臣で、当時は「緑の運動」のリーダーだった)は、
真っ先に事故の情報公開を求めた。
ウクライナには事故処理に参加した40万人の作業員がいて、汚染地域に住む300万人の
被災者がいた。みんな大きな不安を抱え、傷つき、精神的にも肉体的にも追いつめられていた。
ウクライナ人全体の問題です。
3年後にソビエト連邦は、汚染の情報公開にふみ切る。
共産党機関紙「プラウダ」に、セシウム137の拡散を示す放射能汚染地図が公表される。
原発から110キロ離れたコロステン市、共産党委員会書記ウラジミール・マスカレンコの言葉
「市民は通りや職場、学校や公園に集まって、『政府は何も教えてくれない。私たちは人質だ。
もうすぐ皆死ぬんだ』と話していた」
そして彼は、ソビエト政府の保健大臣に電報を送る。
「町は悲惨な状況です。何の対策も取られていません」
するとソビエトからえらそうな人が来て、
「共産党員の君が何をパニックに陥っているのだ」と説教する。
それに対してマスカレンコは、
「では、あなたがモスクワからここに引っ越して来て、どうやって健康に暮らせるのか
見本をみせて下さい」と迫った。
コロステン市では、体の不調を訴える住民が相次いでいた。
4年後に建てられたコロステン検診センターでは、翌年に9人の甲状腺ガンが見つかる。
ウクライナだけでなくベラルーシでも、子どもたちから甲状腺ガンが次々と見つかる。
1990年、ウクライナ人民代表議員ウラジーミル・ヤツェンコは、ウクライナ政府に働きかけた。
そしてコロステンの住民は、ソビエト政府が何もしてくれないのなら地元のウクライナ政府が
何とかして欲しいと訴えた。
人々は、チェルノブイリ原発を閉鎖して欲しい。そして住民を最大限守って欲しい。
住民を移住させ、子どもたちの安全を確保して欲しい。
被害に対する補償金を払って欲しいと訴えた。
ウクライナ政府は、モスクワの指示を仰ぐことなく、独自に救済者の支援にのり出した。
ウクライナ最高会議トップ、レオニード・クラフチェク議長は、被災者のための法律を作る
決断をする。 2に続く
今朝(9月23日)の新聞の一面に、「慰謝料打ち切り再検討」の記事があった。
勝手に「避難指示解除準備区域」を決めて、そういうことなら原発事故前の年間被曝線量
1ミリシーベルトに戻してから解除して欲しい。
それが出来ないのなら、「避難解除後1年をめどに慰謝料打ち切り」などもっての外だと思う。
福島第一原子力発電所の事故が起きるまでは、一般の人が浴びても差し支えないとされる
1年間の被曝量の基準は、1ミリシーベルトであったはずだ。
だが避難指示解除準備区域は、放射線の年間積算線量が20ミリシーベルト以下となることが
確実あるいは確認された地域とある。
1ミリシーベルトであったものが、なぜ20ミリシーベルトにされて、
我慢しなければならないのか。
1ミリシーベルトなど夢のまた夢なのか。
ETV特集「原発事故 国家はどう補償したのか~チェルノブイリ法23年の軌跡~」を観て、
やはり年間積算線量が1ミリシーベルトを超える地域は、汚染地域であると確信した。
(後にも書きますが、ウクライナでは年間被曝線量を1ミリシーベルトと明記し、
それ以上の地域は被曝の対象とした)
そしてどこに住むかは住民が選択権を持ち、いずれの選択をしても、十分な補償が
得られるようにすべきだと思う。
決して豊かとは言えないウクライナが、そうして来たのだから。
ここからは番組の内容です。
2013年10月、ウクライナのキエフで、「チェルノブイリの経験をフクシマへ」という
ワークショップが開かれた。
元環境大臣ユーリ・シチェルバク(チェルノブイリ法に携わった人)の言葉
「私たちはチェルノブイリ事故に関する環境や住民保護の知識をたくさん持っています。
最も大事なことは、被災者をどう守っていくかということです。
私たちの経験を日本のみなさんは是非、活かして欲しいと思います」
番組の中では、議員やチェルノブイリ事故に携わった労働者、被曝した住民などが、
当時の状況や被曝の実態、補償の現実について、自分の言葉で語っている。
チェルノブイリ原発事故は1986年4月26日に旧ソビエト連邦で起きたが、現在はウクライナに
なっている。(1991年ソ連は共和国の脱退により崩壊し、共和国はこの時にすべての国が
独立国となった)現在、ウクライナ政府が被災者と認めているのは213万人。
被災者に対する補償は、ウクライナ政府が続けてきた。補償の根拠となっているのが、
事故の5年後に制定された「チェルノブイリ法」だ。
そこには「国が被災者の生活と健康を世代を超えて守り、被害の補償を続ける」と
規定されている。
元ウクライナ大統領の言葉
「チェルノブイリ原発事故は、完全に国家に責任があります。国民には何の罪もありません。
国民はなぐさめの言葉や同情だけでなく、法律により保護されるべきです」
事故当時、放射能情報は国民に知らされず、5日後にはメーデーを楽しみ、
たくさん被曝をした。
その後もソビエト政府は、放射能の汚染情報を隠し続けた。
ソビエト全土から80万人もの兵士、消防士、警察官が動員され、知識もなく、
不十分な防護服で原子炉の消火や瓦礫処理に当たったのだ。
やがてソビエト連邦の共和国の一つで、チェルノブイリ原発を抱えるウクライナから
批判の声が上がった。彼らはプラカードを持って抗議した。
「チェルノブイリ被害者の犠牲の上に国家の繁栄はない」
そしてゴルバチョフ書記長に窮状を訴える手紙を送った。
元原発作業員 ザハルチェクの手紙
ゴルバチョフ同志様
心からのお願いです。私は原発近くの町フリキャチからの避難民です。
身体を壊してもう2年間、働けません。
あなたの力で家族を助けてください。
私を不幸のまま見捨てないでください。
工場労働者 ルイリンの手紙
拝啓ゴルバチョフ様
機械工場の労働者です。
私の町には11万4千人が住んでいますが、まだ何の援助もありません。
汚染されていない食料を下さい。
政府は私たちの救援策を早く決めてください。
キエフの市民集会では、事故処理の作業員とウクライナの市民が一丸となって、
ソビエト政府に抗議するようになる。
ユーリ・シチェルバク(元環境大臣で、当時は「緑の運動」のリーダーだった)は、
真っ先に事故の情報公開を求めた。
ウクライナには事故処理に参加した40万人の作業員がいて、汚染地域に住む300万人の
被災者がいた。みんな大きな不安を抱え、傷つき、精神的にも肉体的にも追いつめられていた。
ウクライナ人全体の問題です。
3年後にソビエト連邦は、汚染の情報公開にふみ切る。
共産党機関紙「プラウダ」に、セシウム137の拡散を示す放射能汚染地図が公表される。
原発から110キロ離れたコロステン市、共産党委員会書記ウラジミール・マスカレンコの言葉
「市民は通りや職場、学校や公園に集まって、『政府は何も教えてくれない。私たちは人質だ。
もうすぐ皆死ぬんだ』と話していた」
そして彼は、ソビエト政府の保健大臣に電報を送る。
「町は悲惨な状況です。何の対策も取られていません」
するとソビエトからえらそうな人が来て、
「共産党員の君が何をパニックに陥っているのだ」と説教する。
それに対してマスカレンコは、
「では、あなたがモスクワからここに引っ越して来て、どうやって健康に暮らせるのか
見本をみせて下さい」と迫った。
コロステン市では、体の不調を訴える住民が相次いでいた。
4年後に建てられたコロステン検診センターでは、翌年に9人の甲状腺ガンが見つかる。
ウクライナだけでなくベラルーシでも、子どもたちから甲状腺ガンが次々と見つかる。
1990年、ウクライナ人民代表議員ウラジーミル・ヤツェンコは、ウクライナ政府に働きかけた。
そしてコロステンの住民は、ソビエト政府が何もしてくれないのなら地元のウクライナ政府が
何とかして欲しいと訴えた。
人々は、チェルノブイリ原発を閉鎖して欲しい。そして住民を最大限守って欲しい。
住民を移住させ、子どもたちの安全を確保して欲しい。
被害に対する補償金を払って欲しいと訴えた。
ウクライナ政府は、モスクワの指示を仰ぐことなく、独自に救済者の支援にのり出した。
ウクライナ最高会議トップ、レオニード・クラフチェク議長は、被災者のための法律を作る
決断をする。 2に続く