村上春樹著『猫を棄てる 父親について語るとき』を読む。
村上氏と父親との間には確執があったようで、亡くなる少し前までの
20年間は会うことがなかったようだ。
父親のことはいつかまとまったかたちで文章にしなくては、との思いから
この本ができた。
父親との確執を書くことは不本意とのことで、そのことには触れていない。
また父親や母親についての記述は、抑えた文章になっている。
ページ数が少ないこともあってか、風がさぁっと通り過ぎたような
印象を受けた。中村文則著『逃亡者』を読んだ直後のせいもあり、
血がさらさらと流れていったように感じた。
辺見庸氏の『1★9★3★7★』の中にも、父親の戦争体験が載っている。
彼の文章は、血が滞っているように感じる。
以前にブログで取り上げた文章とともに、二人の言葉を引用させて頂きます。
村上春樹氏
①子供の頃、一度彼に尋ねたことがあった。誰のためにお経を
唱えているのかと。彼は言った。
前の戦争で死んでいった人たちのためだと。そこで亡くなった
仲間の兵隊や、当時は敵であった中国人の人たちのためだと。
父はそれ以上の説明をしなかったし、僕はそれ以上の質問をしなかった。
おそらくそこには、僕にそれ以上の質問を続けさせない何かがーーー
場の空気のようなものがーーーあったのだと思う。しかし父自身はそれを
はばんでいたわけではなかったという気がする。もし尋ねていれば、
何かを説明してくれたのではあるまいか。でも僕は尋ねなかった。
おそらくむしろ僕自身の中に、そうすることを阻む何かがあったのだろう。
②いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、
言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。
ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。
言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを
ーーー現代の用語を借りればトラウマをーーー息子である僕が
部分的に継承したということになるのだろう。
人の心の繋がりというものはそういうものだし、
また歴史というのもそういうものなのだ。
その本質は〈引き継ぐ〉という行為、あるいは儀式の中にある。
その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、
人はそれを自らの一部として引き受けなければならない。
もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるのだろう?
父は戦場での体験についてほとんど語ることがなかった。
自らが手を下したことであれ、あるいはただ目撃したことであれ、
おそらく思い出したくもなく、話したくもなかったのだろう。
しかしこのことだけは、たとえ双方の心に傷となって残ったとしても、
何らかの形で、血を分けた息子である僕に言い残し、
伝えておかなければならないと感じていたのではないか。
もちろんこれは僕の推測に過ぎないが、そんな気がしてならない。
(引用ここまで)
辺見庸氏
①いつだったか、まだ子どものころ、酔った父がとつじょ言ったことが
ある。静かな告白ではない。
懺悔でもなかった。野蛮な怒気をふくんだ、かくしようもない、
かくす気もない言述である。
この記憶はまだ鮮やかだ。「朝鮮人はダメだ。あいつらは手で
ぶんなぐってもダメだ。スリッパ(軍隊で「上靴(じょうか)」と
よばれていた、いかにもおもそうな革製のスリッパ)で
殴らないとダメなんだ・・・」。
耳をうたがった。発狂したのかとおもった。
いまでもわからないのだ。ニッポンという”事象”に伏在する病が、
父をよくわからなかったように、よくわからない。
わたしは父の戦争経験を忖度し、非難を抑制してきた。
しかし、かれが激昂し、スリッパをふりあげてひとを打ちすえている
図にはとても堪えられなかった。いまも堪えがたい。
②「上靴バッチ」を朝鮮人にたいしてやった父と、それをやったことはない、
父の長男であるわたしのかんけいとはなんなのだろうか。
かんけいはないのか。やはり、ある、とおもう。
わたしが想起したくなくても想起するかぎりにおいて、
父の歴史とわたしの歴史は交叉せざるをえないのだ。
ひとが歴史を生きるとはどういうことなのだろうか。
歴史的時間を生きるとは。
それは、ニッポンジンでも朝鮮人でも、韓国人でも、自己の生身を
時間という苦痛にさらし、ひるがえって、時間という苦痛にさらされた
他者の痛みを想像することではないのか。
わたしの記憶と父の記憶は、傷んだ筏(いかだ)のように
繋留されたままである。
からだに時間の痛みとたわみを感じつつ、自他の「身体史」を
生きること――それが歴史を生きることなのか。
③父も、ほとんどの初年兵がそうであったように、
「皇軍」でんとうのシゴキをうけていた。
ビンタはしょっちゅう。左右の頬を殴打する「往復ビンタ」は日常茶飯事。
「革帯」(ベルト)をつかうシゴキもあった。二等兵二人を相対させて
たがいにビンタをはらせる「対抗ビンタ」もあたりまえ。……
すこしでも手をぬきでもしたら古参兵のリンチをうける。
兵士らはたがいにたがいをおとしめ、身体的な苦痛と屈辱感を
味わわせることによってシステマティックにかつ徹底的に
「個」と「私」をうばいつくし壊しつくした。
殴られる被害者は、じゅんぐりに殴る加害者になっていった。
きちんとそれを継承し踏襲した。そこに論理はなかった。
「ぼくという人間の基本的権利はいっさい消滅した」という
父の文をわたしはうたがわない。
「あの戦争はなんだったのだろう……」とひとりごち、昭和天皇に
問うてみたいという父の心情もわからぬではない。
だが、これはたかのぞみだろうか、かれの自己表白には、この国では
あまりにもいっぱん的な、だからこそいつまでもひきずる黒い穴のように
無神経な欠如があるとおもうのだ。それは、みずからを
「加害者」ではなく、「被害者」の群れのなかに、ほとんど
ためらいもなく立たせてしまう作用をはたす、意識の欠落である。
(引用ここまで)
※私のブログ『1★9★3★7★(イクミナ)』①~④
↓
https://blog.goo.ne.jp/keichan1192/e/8fa6ec4795f78412a95d743568d18710
村上氏と父親との間には確執があったようで、亡くなる少し前までの
20年間は会うことがなかったようだ。
父親のことはいつかまとまったかたちで文章にしなくては、との思いから
この本ができた。
父親との確執を書くことは不本意とのことで、そのことには触れていない。
また父親や母親についての記述は、抑えた文章になっている。
ページ数が少ないこともあってか、風がさぁっと通り過ぎたような
印象を受けた。中村文則著『逃亡者』を読んだ直後のせいもあり、
血がさらさらと流れていったように感じた。
辺見庸氏の『1★9★3★7★』の中にも、父親の戦争体験が載っている。
彼の文章は、血が滞っているように感じる。
以前にブログで取り上げた文章とともに、二人の言葉を引用させて頂きます。
村上春樹氏
①子供の頃、一度彼に尋ねたことがあった。誰のためにお経を
唱えているのかと。彼は言った。
前の戦争で死んでいった人たちのためだと。そこで亡くなった
仲間の兵隊や、当時は敵であった中国人の人たちのためだと。
父はそれ以上の説明をしなかったし、僕はそれ以上の質問をしなかった。
おそらくそこには、僕にそれ以上の質問を続けさせない何かがーーー
場の空気のようなものがーーーあったのだと思う。しかし父自身はそれを
はばんでいたわけではなかったという気がする。もし尋ねていれば、
何かを説明してくれたのではあるまいか。でも僕は尋ねなかった。
おそらくむしろ僕自身の中に、そうすることを阻む何かがあったのだろう。
②いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、
言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。
ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。
言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを
ーーー現代の用語を借りればトラウマをーーー息子である僕が
部分的に継承したということになるのだろう。
人の心の繋がりというものはそういうものだし、
また歴史というのもそういうものなのだ。
その本質は〈引き継ぐ〉という行為、あるいは儀式の中にある。
その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、
人はそれを自らの一部として引き受けなければならない。
もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるのだろう?
父は戦場での体験についてほとんど語ることがなかった。
自らが手を下したことであれ、あるいはただ目撃したことであれ、
おそらく思い出したくもなく、話したくもなかったのだろう。
しかしこのことだけは、たとえ双方の心に傷となって残ったとしても、
何らかの形で、血を分けた息子である僕に言い残し、
伝えておかなければならないと感じていたのではないか。
もちろんこれは僕の推測に過ぎないが、そんな気がしてならない。
(引用ここまで)
辺見庸氏
①いつだったか、まだ子どものころ、酔った父がとつじょ言ったことが
ある。静かな告白ではない。
懺悔でもなかった。野蛮な怒気をふくんだ、かくしようもない、
かくす気もない言述である。
この記憶はまだ鮮やかだ。「朝鮮人はダメだ。あいつらは手で
ぶんなぐってもダメだ。スリッパ(軍隊で「上靴(じょうか)」と
よばれていた、いかにもおもそうな革製のスリッパ)で
殴らないとダメなんだ・・・」。
耳をうたがった。発狂したのかとおもった。
いまでもわからないのだ。ニッポンという”事象”に伏在する病が、
父をよくわからなかったように、よくわからない。
わたしは父の戦争経験を忖度し、非難を抑制してきた。
しかし、かれが激昂し、スリッパをふりあげてひとを打ちすえている
図にはとても堪えられなかった。いまも堪えがたい。
②「上靴バッチ」を朝鮮人にたいしてやった父と、それをやったことはない、
父の長男であるわたしのかんけいとはなんなのだろうか。
かんけいはないのか。やはり、ある、とおもう。
わたしが想起したくなくても想起するかぎりにおいて、
父の歴史とわたしの歴史は交叉せざるをえないのだ。
ひとが歴史を生きるとはどういうことなのだろうか。
歴史的時間を生きるとは。
それは、ニッポンジンでも朝鮮人でも、韓国人でも、自己の生身を
時間という苦痛にさらし、ひるがえって、時間という苦痛にさらされた
他者の痛みを想像することではないのか。
わたしの記憶と父の記憶は、傷んだ筏(いかだ)のように
繋留されたままである。
からだに時間の痛みとたわみを感じつつ、自他の「身体史」を
生きること――それが歴史を生きることなのか。
③父も、ほとんどの初年兵がそうであったように、
「皇軍」でんとうのシゴキをうけていた。
ビンタはしょっちゅう。左右の頬を殴打する「往復ビンタ」は日常茶飯事。
「革帯」(ベルト)をつかうシゴキもあった。二等兵二人を相対させて
たがいにビンタをはらせる「対抗ビンタ」もあたりまえ。……
すこしでも手をぬきでもしたら古参兵のリンチをうける。
兵士らはたがいにたがいをおとしめ、身体的な苦痛と屈辱感を
味わわせることによってシステマティックにかつ徹底的に
「個」と「私」をうばいつくし壊しつくした。
殴られる被害者は、じゅんぐりに殴る加害者になっていった。
きちんとそれを継承し踏襲した。そこに論理はなかった。
「ぼくという人間の基本的権利はいっさい消滅した」という
父の文をわたしはうたがわない。
「あの戦争はなんだったのだろう……」とひとりごち、昭和天皇に
問うてみたいという父の心情もわからぬではない。
だが、これはたかのぞみだろうか、かれの自己表白には、この国では
あまりにもいっぱん的な、だからこそいつまでもひきずる黒い穴のように
無神経な欠如があるとおもうのだ。それは、みずからを
「加害者」ではなく、「被害者」の群れのなかに、ほとんど
ためらいもなく立たせてしまう作用をはたす、意識の欠落である。
(引用ここまで)
※私のブログ『1★9★3★7★(イクミナ)』①~④
↓
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