中村文則著『自由思考』を読む。
中村さんのエッセイは読んだことがないと思ったら、作家生活17年目で初めての
エッセイ集だという。
エッセイが溜まりにたまって、本来なら2冊にすべきところを1冊に纏めたという。
その方が値段的にお得なので、というからその発想に驚く。
作家と読者は信頼関係で成り立っている。
上手く書こうとか、賞を取ろうとか、人を出し抜こうとか、ベストセラーに
食い込みたいとか、そんな邪念は読者にすぐに見破られる。
私は中村さんの切れ長の目と、自分に誠実なところが好きだ。
「この人の書くことだったら信じられる。たとえ騙されてもかまわない」、と
思わせるものがある。
それにしても今のご時世、「本当のこと」を書くには勇気が要ることだろう。
いつからこんな世の中になってしまったのだろう。
文筆業の方にとって、まさに苦難の時代だ。
数年前にはあんなに憤ったことも、おぼろげな記憶になっているものもある。
人間は忘れっぽい。この本はそんな記憶を呼び覚ましてくれる。
また、これまで社会情勢に無関心だった人には、今の日本で起きていることが、
テレビでは報道されない大切なことが、分かりやすく書かれている。
この本を通して、視野が拡がること間違いなしだ。
それに読んでいて笑ってしまうことが多々ある。とにかく面白い。
付箋を付けていったら、付箋だらけになってしまった。
一部を引用させて頂きます。
私が共感するのは次のような文章だ。
たとえば、「それは恐らく、僕が残念ながら日向(ひなた)よりは日陰を生きて
きたからかもしれない。」とか、「しかし一番問題なのは、このエッセイを
〆切(しめきり)の一週間前に、ちゃんとこうやって書いていることである。
真面目というか、小心者なのだと思う」とか・・・・・・。
「私もそうなんよ」とうれしくなった。
①祖父母の家の近くのバス停には、大きな柳の木があった。・・・・・・
それは巨大な生き物のようにゆらゆらと動き、僕はいつも、バスを降りるのが恐かった。
あの細長い触手のような枝葉に自分が絡め取られるような、
そのまま縛り殺されるような、そんな印象をいつも抱いた。
しかし、祖父母の家に行くのは、僕にとって大きな喜びだった。
これを通り過ぎれば、祖父母の家に行ける。そう思って通り過ぎようとし、
目をつむればいいのだけれど、なぜかわざわざいつも、、その柳の木を見上げた。
色々と考え込み、他人に迷惑をかけ、混乱することの多い子供だった。
自分の中にある酷(ひど)く気味の悪いもの、不吉なものを目で直接見なければな
らないような、本当に、嫌になるほど大きな木だった。
(このような感性の鋭い文章が特に好きだ)
②日本のちょっといいホテルに泊まると、大抵便座は温かい。まるで
お釈迦様(おしゃかさま)の手の平に、そっとお尻を載せているような気分になる。
③米フィラデルフィアで数日に亘って行われたノアール(暗黒)小説のイベントに
参加した時「なぜあなたの作品は暗いのだ」と聞かれた。
「僕はそんな明るい人間じゃないから・・・・・・」としどろもどろに答えると、
「大丈夫。ここに来てる人はみんなそうだよ!」と明るく言われ会場に温かな
笑いが起こった。国や文化が違っても、同じ人間。
暗さとは、人の柔らかな部分を感じ取る優しさにも繋がるのではないだろうか。
そんなことを思いながら、帰国の途に就いた。
④そもそも、内面にどんな問題も抱えていない人間などいないし、
自分は真っ当で何の問題も抱えていない、と思っている人ほどなかなか問題で、
人の弱さに敏感でない傾向がある、と僕は勝手に思っている。
⑤友人が第二次大戦の日本を美化する発言をし、僕が、当時の軍と財閥の
癒着(ゆちゃく)、その利権がアメリカの利権とぶつかった結果の戦争であり、
戦争の裏には必ず利権がある、みたいに言い、議論になった。その最後、
彼は僕を心底嫌そうに見ながら、「お前は人権の臭いがする」と言ったのだった。
「人権の臭いがする」。言葉として奇妙だが、それより、人権が大事なのは当然と
思っていた僕は驚くことになる。問うと彼は「俺は国がやることに反対したりしない。
だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの
人権をなぜ国が守らなければならない?」と言ったのだ。
当時の僕は、こんな人もいるのだなと、思った程度だった。その言葉の恐ろしさを
はっきり自覚したのはもっと後のことになる。 ②につづく
中村さんのエッセイは読んだことがないと思ったら、作家生活17年目で初めての
エッセイ集だという。
エッセイが溜まりにたまって、本来なら2冊にすべきところを1冊に纏めたという。
その方が値段的にお得なので、というからその発想に驚く。
作家と読者は信頼関係で成り立っている。
上手く書こうとか、賞を取ろうとか、人を出し抜こうとか、ベストセラーに
食い込みたいとか、そんな邪念は読者にすぐに見破られる。
私は中村さんの切れ長の目と、自分に誠実なところが好きだ。
「この人の書くことだったら信じられる。たとえ騙されてもかまわない」、と
思わせるものがある。
それにしても今のご時世、「本当のこと」を書くには勇気が要ることだろう。
いつからこんな世の中になってしまったのだろう。
文筆業の方にとって、まさに苦難の時代だ。
数年前にはあんなに憤ったことも、おぼろげな記憶になっているものもある。
人間は忘れっぽい。この本はそんな記憶を呼び覚ましてくれる。
また、これまで社会情勢に無関心だった人には、今の日本で起きていることが、
テレビでは報道されない大切なことが、分かりやすく書かれている。
この本を通して、視野が拡がること間違いなしだ。
それに読んでいて笑ってしまうことが多々ある。とにかく面白い。
付箋を付けていったら、付箋だらけになってしまった。
一部を引用させて頂きます。
私が共感するのは次のような文章だ。
たとえば、「それは恐らく、僕が残念ながら日向(ひなた)よりは日陰を生きて
きたからかもしれない。」とか、「しかし一番問題なのは、このエッセイを
〆切(しめきり)の一週間前に、ちゃんとこうやって書いていることである。
真面目というか、小心者なのだと思う」とか・・・・・・。
「私もそうなんよ」とうれしくなった。
①祖父母の家の近くのバス停には、大きな柳の木があった。・・・・・・
それは巨大な生き物のようにゆらゆらと動き、僕はいつも、バスを降りるのが恐かった。
あの細長い触手のような枝葉に自分が絡め取られるような、
そのまま縛り殺されるような、そんな印象をいつも抱いた。
しかし、祖父母の家に行くのは、僕にとって大きな喜びだった。
これを通り過ぎれば、祖父母の家に行ける。そう思って通り過ぎようとし、
目をつむればいいのだけれど、なぜかわざわざいつも、、その柳の木を見上げた。
色々と考え込み、他人に迷惑をかけ、混乱することの多い子供だった。
自分の中にある酷(ひど)く気味の悪いもの、不吉なものを目で直接見なければな
らないような、本当に、嫌になるほど大きな木だった。
(このような感性の鋭い文章が特に好きだ)
②日本のちょっといいホテルに泊まると、大抵便座は温かい。まるで
お釈迦様(おしゃかさま)の手の平に、そっとお尻を載せているような気分になる。
③米フィラデルフィアで数日に亘って行われたノアール(暗黒)小説のイベントに
参加した時「なぜあなたの作品は暗いのだ」と聞かれた。
「僕はそんな明るい人間じゃないから・・・・・・」としどろもどろに答えると、
「大丈夫。ここに来てる人はみんなそうだよ!」と明るく言われ会場に温かな
笑いが起こった。国や文化が違っても、同じ人間。
暗さとは、人の柔らかな部分を感じ取る優しさにも繋がるのではないだろうか。
そんなことを思いながら、帰国の途に就いた。
④そもそも、内面にどんな問題も抱えていない人間などいないし、
自分は真っ当で何の問題も抱えていない、と思っている人ほどなかなか問題で、
人の弱さに敏感でない傾向がある、と僕は勝手に思っている。
⑤友人が第二次大戦の日本を美化する発言をし、僕が、当時の軍と財閥の
癒着(ゆちゃく)、その利権がアメリカの利権とぶつかった結果の戦争であり、
戦争の裏には必ず利権がある、みたいに言い、議論になった。その最後、
彼は僕を心底嫌そうに見ながら、「お前は人権の臭いがする」と言ったのだった。
「人権の臭いがする」。言葉として奇妙だが、それより、人権が大事なのは当然と
思っていた僕は驚くことになる。問うと彼は「俺は国がやることに反対したりしない。
だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの
人権をなぜ国が守らなければならない?」と言ったのだ。
当時の僕は、こんな人もいるのだなと、思った程度だった。その言葉の恐ろしさを
はっきり自覚したのはもっと後のことになる。 ②につづく