北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

祖父つづき

2014-10-05 11:55:27 | 日記
祖父は、旅館や料理屋さんで、「あの女中の先生は、、」と言って、なんでもかんでも、

「先生」をつける、、、。「あの運転手の先生は、、、」、だれでもかれでも「先生」に

されてしまう、、、どうやら、「コンサルタント業」は「先生」をつけて、相手と話をす

ると具合が良いと、戦後のどさくさの中で勝手に身についたようだ。自分は話せないが、

祖父は明治生まれだが英語を話した。(戦後教育の自分としては情けない、必要がなかっ

たと言えばそれまでだが、、、)戦後のコンサルタント業で必要にせまられたのだろう、

不思議な、東北なまりの英語だった。最後はアフリカのガーナまで行っていた、、、。

鈴木宗男氏の「ムネオハウス」が、テレビで報道された時、祖父の会社の名前が出てきて

しまい、「あらっ、こんなところで出ちゃって、、、」と、母は笑っていた、、、。

最初の一級建築士の試験に落ちた時、(二度目には受かったが、、、)祖父に怒られた。

当時、祖父の会社は一級建築士の人数だけなら、某N建設計よりも多かったのである。

祖父の出生地は宮城県角田市の花島というところ。近くの高蔵寺という寺に「佐藤家

住宅」という古民家が移築されている。東北の民家なのに、何故か数奇屋建築のように

洗練されている。国道6号線を走ると、相馬のあたりから果樹園を抜けて、見に行く。

(間違い、、、。見に行っていた、、、です。)


写真は、その旧佐藤家住宅です。


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祖父

2014-10-05 10:29:40 | 日記
母方の祖父は土木技術者だった。最初は、旭川で旧国鉄に勤めて、トンネルなどを掘っ

ていたらしい。囚人をトロッコに乗せて、一日の作業が終わると、改札口でおにぎりを

渡すのだ、と言っていた。一人息子で、郷里に残した自分の母親を、北海道に呼び寄せる

のに、年寄りが一人で青函連絡船は不案内だろうと心配して、浅虫温泉のホームで待ち合

わせして、温泉で一泊してから、旭川に向かったらしい。当時は、民間の方が景気が良く

て給料も良く、先輩か恩師に誘われて、同じ土木でもダム工事に転職した。高知県のニ淀

川町と言うところの現場である。私の母の兄は、そこで生まれている。野口遵という人が

大陸で肥料が必要だから、その生産ためには電力が必要で、今の北朝鮮と中国の国境に流

れる川にダムを作ると言う事になって朝鮮半島に渡る、、。私の母は、生まれは内地だが

育ったのは京城、今のソウルである。京城第一高等女学校という女学校の出身である。

ダムの現場の近くの社宅は、昭和の初めだが、当時の最先端のオール電化のRC建築だった

らしい。同じ社宅には東条英機の息子さんもいて、娘さんは母の同級生だったとか。

そのダムが完成して半年もしないで日本は敗戦する。祖父も伯父も母も、引揚者である。



水豊ダムの定礎式 

  中央の上段、正面を向いて、両手を後で組んでいるのが 祖父のような気がするんですけど、、、。 


  


        

その時、少なくとも朝鮮半島では日本という国が無くなってしまった訳で、母は、たとえ

短い期間とは言え、自分の国が無くなると言う事はどういう事かと話すのです、、、。

内地に戻っても日本は敗戦国、仕事は無い、自分の仕事が無いのはまだしも、日本中あち

こちに散らばっている半島時代の同僚から「佐藤さん、何とかならないか?」話が来る。

当時、マッカーサー司令部の方針で、日本もアメリカのように、役所の中で図面など引か

ずに、もっと役所をスリム化しなければいけない、その為には「コンサルタント会社」が

必要と言う事になり、祖父達は内幸町の焼けビルで会社を始める、、、。しかし、やはり

国内にダムの現場など当時は無い、、、戦後賠償でインドネシアやビルマにダムを作る事

になり、祖父達は南の国の仕事をする事になった。東京オリンピックの頃、竹下町の祖父

の家に遊びに行くと、今ならワシントン条約で国内輸入禁止であろう、亀の大きな甲羅や

象牙の牙や、いろいろな剥製が床の間に飾ってあったのは、そのせい、、、。






追記  ウィキペディア(Wikipedia)で、調べてみました。東條英機さんの長男・英隆さんは

    鴨緑江発電職員とありました。鴨緑江は本文にある「今の北朝鮮と中国の国境に流れる

    川にダムを作る」の川で、ダムの名前は「水豊ダム」です。東條英隆さんのお嬢さんが

    由布子さんで、私の母の話に出てきたお嬢さんと思います。







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たった一度の就職活動

2014-10-04 18:01:12 | 日記

地下鉄銀座線に「稲荷町」と言う駅があって、歩いて1分の同潤会東上野アパートの4階

に住んでいました。向いは、落語家の林家正蔵(彦六)さんの住んでいる長屋。彦六師匠の家は







両側が駐車場になってしまっても残っているようですが、同潤会東上野アパートの方は、

最近取り壊されてしまったらしい、、、。



寿湯(マンションの影で見えない。僕も良く行きました。)の文字のあたりに同潤会東上野アパートは

ありました。








                     落語はろー】情報交換の部屋さんのブログより



林家正蔵(彦六)さんの住んでいた長屋。

                                    「寝言は寝て言うも~ん」さんブログより




その向かいが同潤会東上野アパートでした。

                                    「寝言は寝て言うも~ん」さんブログより


4階の寿湯さん側(北側)のトイレ台所共用もちろん風呂なし6帖一間(月22000円)に住んで

いました。

                       

下町は、あちこち徘徊しました。玉の井、洲崎、鳩の街、向島、、。洲崎は、永代通りから橋を

渡って、すぐ左側、むつ市出身の、川島雄三監督の映画「洲崎パラダイス赤信号」の町が、当時

はそのまま残っていました。と言っても、昭和33年じゃないから、建物がそのまま残っていただ

け、、、丸い柱には、お風呂場のタイルが何故か必ず張ってありました、、、。





カエル好きのページ https://minkara.carview.co.jp/userid/2537399/blog/39963824/さん より




浅草に行くと、六区(ロック)から、すきやきの「今半」のあるアーケードを、言問通りに

抜けて、すぐ右の、じいさんがやっていた「煮込み屋」でハイボールあけると、必ず、

千束(つまり吉原)をお散歩。今はどうか知りませんが、当時は、通りに面して「声掛け

おばさん(もしくは、おばあさん)」(我々、つまり僕と友達のI君は、そう呼んでいた、、。)

が、小窓と言っても、3尺×6尺くらいの窓から、「お兄さん、どう、好い娘いるわよー」と、

声を掛けてくれるのが嬉しくて、、、何度も何度も行きました、、。「すいませーん。」

冷やかしてもらうのが、楽しかったのです、、、。(あくまでも「お散歩」です、念の為。)



鳩の街は偶然見つけました。名前も、それまで知りませんでした。当時、すでに商店街に

生まれ変わっていて、それらしき建物が一本裏の路地に、あちこち残っているくらいでし

た。その商店街の中ほどに建築設計事務所がありました。

「卒業したら、こういう所で働きたいなー」

学校の教務部に行って成績証明書と、出席しなかった卒業式で受け取っていない卒業証書

をもらって、その事務所に行き、

「すいませーん、こちらで所員は募集してませんか?」

出てきた奥さんが

「あいにく、うちでは今は募集していませんがー、、、」

人生で、たった一度の就職活動でした、、、。



その設計事務所は、この図の「こぐま」さんの辺りにあったと思います、、、。



下町のおもてなし https://www.nippon.com/ja/views/b01103/ より

 

 

「こぐま」さんの5軒くらい先、保育園の入り口の手前に、今でも設計事務所があります、、、。

 

 

 


タイルの壁





往時の鳩の町







追記   洲崎の入口のアーケード



     

     

      ポタリング犬@のポタ山イチさんのブログ

      http://potadog01.blogspot.jp/2013/04/blog-post.html

      江戸川ポタリングガイド より




      アーケードの右下の奥の建物は当時まだ建っていたような、、、。




追記の追記  

       




       4階の寿湯側の22000円/月6帖間(右側のたたみの部屋。たしかに畳表の下はコルク

       っぽかったです。)の、ずっと上野駅寄りの部屋が、僕が2年間住んでいた部屋でした。     


       



もうひとつ  

       




2′45″あたりから、建て変わった後の14階建てのマンション


       





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出し逃げ

2014-10-04 13:40:42 | 日記
高校受験の時、工業高校の建築科を受けるか、普通科の高校を受けるか、迷った。(こ

の、普通科の「普通」って何なんでしょうね? なにが「普通」なのか、さっぱり判らな

い、、、。)ところが、去年、亡くなった大学の同級生の幸田章君は、田町にある、東京

工業大学付属工業高校の建築科。しかも国立、全国どこからでも受験できるし、授業料も

安そう、、、。そうか、こんな手もあったのか、さすがは幸田君、中学生にして目の付

け所が違う、、、。(幸田章君については、また、あらためていつかどこかで、、、僕の

知る限り、本当に設計の神様に愛でられた、とんでもない才能の、、、幸田君でした、、

、、、。いくらなんでも早すぎる、、、、。建築家は、これからなのに、、、、。ちなみ

に、世田谷美術館も皇居の新吹上御所も幸田君の担当、、、その大宮の自宅は、ここ

何年かの日本で建った住宅の中では、まごうことなき、最高傑作、、、。)




  大宮の幸田君の自邸です。



  



  



  



  

      



大学の建築科に入って(「建築学科」でなくて、ただの「建築科」)、「これからは、遊

びでやってた図面書きが勉強だ!(中学、高校、家で三角定規で住宅のプラン作って、

模型も作って遊んでいた、、、。)嬉しい、嬉しい、、、。」と、思っていたらば、大

間違い、、、。大学には、「教授」「助教授(今は准教授)」と言う肩書きのついた、

「偉い人」達が、いっぱい居る、、、、「偉い人」は子供の頃から、天敵のように嫌い

なの、、、、。(吉村先生だけは別です。今でも、終生、尊敬申し上げています。)

困った。近づきたくもないし、話もしたくない、、、。特に、講評会と言うのがあって、

自分の描いた図面のコンセプトとやらも含めて、お歴々の前で説明して、その「講評」と

やらを「うけたまわらなければ」いけない、、、。(今考えれば、後々、依頼主や建て主

さんとの、「やりとり」の予行演習みたいな訓練でもあって、先生方の「親心」なんだろ

うけど、、、、奥村先生のような、すばらしい先生もおられたのに、馬鹿ですねー、、)

そこで、とった行動が「出し逃げ」。そーっと、学校に入っていって、そーっと課題を

置いてくるだけ、、、。山本学冶さんに「お前はどうして出てこないんだ?」と言われよ

うが、同級生の横内君が「あれっ?この模型だれの?」と言おうが、影にこそこそ隠れて

知らん顔、、、。おかげさまで、「S美会」と言う同窓会の見学会(吉村先生の軽井沢の

山荘や、雪谷の清家先生のご自宅や、二の宮の吉田五十八先生のご自宅、、、)のとき、

前野先生に挨拶しても、「お前、誰だ?わかんねぇ」と言われる始末、、、。自業自得と

は言え、こんな学生、いやでしょうねー、、、、、。(もちろん、こっそり、卒業しまし

た、、、。就職の相談も何もしない、、、。大学院なんて行きません、、、。ただ、、

卒業しただけ、、、、。)





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子供の頃に、、、

2014-10-04 12:34:01 | 日記
将来は絶対に偉い人にはなりたくないと思ってしまった、、、。(どうして、そうなった

かは、忘れた、、、。)特に、「社長」とか「ネクタイ」締めた人は、もうダメ、絶対

にイヤ、、。(国会で、アントニオ猪木の「変な赤い布」はダメで、「普通のネクタイ」

が問題にならないのは、理解できない、、、。「ネクタイ」の方が、よっぽど問題だ。

ついでに言うと、内閣の組閣の時の雛壇で、クラブのママみたいな格好するのも、やめて

欲しい、、、。)ところが、子供の頃から、設計が好きで、長じて、それを商売にすると

なったら、これが具合が悪い、、、。設計は好きだけど、偉くはなりたくない人間が、

アーキテクト(architect)?  archi- と言う接頭辞?には「統合する」とか、「三角形

の頂点」みたいな意味があるのかも知れないが、山のてっぺんは嫌いなの、下から見上げ

ていたいの、、、山なら「裾」が好きなの、、、。とにかく、人の上には、立ちたくない

の、、、。「あれしろ」「これしろ」なんて言いたくない、(言われたくもない、、、)

「違うから、やり直せ!」なんて、もっての他、、、。これじゃ、商売にならない、、。

因果な人生です、、、。


小学校5年の時、学級委員に選ばれてしまった、、、。職員室に「やりたくない」と言い

に行った。先生達は、「変な子供だ」せせら笑って相手にしてくれない。教室に戻って

同級生のバットを借りて、自分の机と椅子(当時はオール木製)を、バラバラに解体して、

ついでにコークスストーブの盥の水をぶちまけて、「もう、こんな学校には来ない」と

言って帰ってきた、、、。(親は、学校に呼ばれた、、、。) 11歳にして、すでに「民主

主義」は、大嫌いだった、、、。


J・G・フレーザーの『金枝篇』を読んで、「なんだ、こんなの当たり前じゃないか!」と

思った。王様なんて、都合よくこき使われて、最後は殺されちゃうに決まってる、、、。


僕は、ただ、設計が好きなだけなんです。




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