母方の祖父は土木技術者だった。最初は、旭川で旧国鉄に勤めて、トンネルなどを掘っ
ていたらしい。囚人をトロッコに乗せて、一日の作業が終わると、改札口でおにぎりを
渡すのだ、と言っていた。一人息子で、郷里に残した自分の母親を、北海道に呼び寄せる
のに、年寄りが一人で青函連絡船は不案内だろうと心配して、浅虫温泉のホームで待ち合
わせして、温泉で一泊してから、旭川に向かったらしい。当時は、民間の方が景気が良く
て給料も良く、先輩か恩師に誘われて、同じ土木でもダム工事に転職した。高知県のニ淀
川町と言うところの現場である。私の母の兄は、そこで生まれている。野口遵という人が
大陸で肥料が必要だから、その生産ためには電力が必要で、今の北朝鮮と中国の国境に流
れる川にダムを作ると言う事になって朝鮮半島に渡る、、。私の母は、生まれは内地だが
育ったのは京城、今のソウルである。京城第一高等女学校という女学校の出身である。
ダムの現場の近くの社宅は、昭和の初めだが、当時の最先端のオール電化のRC建築だった
らしい。同じ社宅には東条英機の息子さんもいて、娘さんは母の同級生だったとか。
そのダムが完成して半年もしないで日本は敗戦する。祖父も伯父も母も、引揚者である。
水豊ダムの定礎式
中央の上段、正面を向いて、両手を後で組んでいるのが 祖父のような気がするんですけど、、、。
その時、少なくとも朝鮮半島では日本という国が無くなってしまった訳で、母は、たとえ
短い期間とは言え、自分の国が無くなると言う事はどういう事かと話すのです、、、。
内地に戻っても日本は敗戦国、仕事は無い、自分の仕事が無いのはまだしも、日本中あち
こちに散らばっている半島時代の同僚から「佐藤さん、何とかならないか?」話が来る。
当時、マッカーサー司令部の方針で、日本もアメリカのように、役所の中で図面など引か
ずに、もっと役所をスリム化しなければいけない、その為には「コンサルタント会社」が
必要と言う事になり、祖父達は内幸町の焼けビルで会社を始める、、、。しかし、やはり
国内にダムの現場など当時は無い、、、戦後賠償でインドネシアやビルマにダムを作る事
になり、祖父達は南の国の仕事をする事になった。東京オリンピックの頃、竹下町の祖父
の家に遊びに行くと、今ならワシントン条約で国内輸入禁止であろう、亀の大きな甲羅や
象牙の牙や、いろいろな剥製が床の間に飾ってあったのは、そのせい、、、。
追記 ウィキペディア(Wikipedia)で、調べてみました。東條英機さんの長男・英隆さんは
鴨緑江発電職員とありました。鴨緑江は本文にある「今の北朝鮮と中国の国境に流れる
川にダムを作る」の川で、ダムの名前は「水豊ダム」です。東條英隆さんのお嬢さんが
由布子さんで、私の母の話に出てきたお嬢さんと思います。