北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

民主主義

2014-10-07 11:41:59 | 日記
11歳の時から、民主主義は嫌いである。だが、20歳になると、投票権が得られる。では、

民主主義が嫌いだから、いつも棄権するかと言うと、そうではない。私は今まで一度も

国政選挙では棄権したことは無い。支持する政党や個人など、もちろん無い。ではどうす

るか、昔の中選挙区制度であろうが、現行の小選挙区制度であろうが、必ず「次点狙い」

つまり「落ちる人」に投票するのである。私が投票する候補者は気の毒である。かなりの

確率で落選するのである。一度、ある町の町議会選挙で、30人立候補して2人しか落選し

ない選挙で、次点の共産党候補を的中させてしまった。東京にいた時、当時はまだ自民党

と公明党とは、今とは違ったので、自民党の議員を落選させたくて、公明党に投票した。

だいたい、今の民主主義と言うものは、なるべく少ない得票率、つまり支持者で、政権を

取れるなら、その方が望ましく効率が良いのである。自分達の支持者ではない、その他

大勢の、圧倒的に数の多い人達の利益利権を、数の少ない自分達の支持者に分配したほう

が、政権党の政治家にとっても、その数の少ない支持者にとっても都合が良いのである。

(簡単な算数である、、、。)戦争をするとか、戦争をしないとかでなければ、大政翼賛会

など、都合が良くもなんとも無いのである。圧倒的に民主的なシステムによって、その国

民のほとんど全てによって支持された政権は、政治家の悪夢である。今の自民党の政治家

の皆さんはプロだから、そのあたりは熟知されているのである。


追記

出来れば、選挙は、中選挙区制度であろうが小選挙区制度であろうが、二段階選挙にして

ほしい。一回目で定員プラス1にして、二回目に落選者以外を選ぶ。私は日曜ごとに二回

続けて投票に行くのは何の苦もない。投票それ自体は物理的には非常に簡単な事である。

我が家から、いつもの投票所の小学校までは片道五分もかからず、記入と合わせても三十

分もかからない。民主主義が素晴らしいのであれば、それぐらいは何のことはない。(そ

のかわり、政権党が政権を維持し続けるのは相当な常識と努力が必要で大変なはず。)


追記の追記

だいたい私には、この世に何かしらの素晴らしい「何とか主義」があるとは思えない。

宗教の鬼子である「お金」も、確かになければ不便きわまりない代物だが、プラザ合意

以降、変動相場制を見ていると、世界が変な意味で狭くなっただけのような気さえする。
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囲碁名人戦

2014-10-06 17:01:48 | 日記
現在、井山名人と挑戦者河野臨九段の囲碁名人戦が真っ最中、内藤女史も大活躍。(朝日

は別に社会面や政治面だけではない。でも僕は15年以上前から、とってもいないし、読ん

でもいない。ゴメンナサイ、、、。)三局終わって、河野九段が一つリード。(七局全部

見せて!心情的に応援している、秀行先生のお弟子さんの高尾山じゃなくて高尾さんも

頑張って!)前に「いつの間にか半目勝ちをしてしまう名人」と書きましたが、ここに、

「あえて難しい手を打たなくても、平易なわかりやすい手で」と書き加えても良かった。

打てないのではない、打たないのだ。最近の若い棋士の碁は、序盤も布石も吹っ飛ばして

いきなり最初から難解な戦いに突入して、そのまま終局まで雪崩れ込むという碁が多い。

昔の、チクリン時代の大竹九段や林海峰九段の頃のような、四隅の定石から辺に移って、

ややしばらくあってから、いよいよ石と石がぶつかります、(それも辺が多かった、、、)

なんて事はない。(だが当時でも藤沢秀行さんだけは、異星人のように、現在に通じるよ

うな碁を打っていた、、。)

プロなら、ある局面で、どんな難しい手でも読める。(ほっといても、読めてしまう。)

ただ、実際の、ある局面で、そんな難しい手を、わざわざ選択して打つかどうかは、別の

問題なのだ。囲碁は難しさを競う競技ではない。(難しいのと、難解なのとは、違う。)

定山渓の第三局でも、解説の武宮正樹九段は、あえて難しい手を選択し続ける両対局者

に、困惑しているように思えた、、。(実は、若い頃、武宮先生の入門書で囲碁の勉強を

始めました、、、。「宇宙流」好きでした、、、。まるで建築みたい、、、。)

最近の若い人の建築の設計は、わざわざ難しい設計に持ち込もうとしているだけなので

は?と思えるものも少なくない。 (それにしては大事なところは「ポッカリ」抜けていた

りして、、、。囲碁なら簡単に負けてしまいます。投了です。)

設計って、難しさを競うためにあるのではないのでは? 渡辺一夫さんは、「狂気につい

て」と言うエッセイの中で、人間の愚かしさについてふれている。後世の人から見たら、

「何で、こんなことを?」としか思えないようなことを、ヨーロッパのお姫様たちは繰り

返していた、、、、。(山本学冶先生は、東大で渡辺一夫さんの講義を聞いていた様な気

がする、、、。入学試験で「ガルガンチュア物語」出たもの。)



  
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無題

2014-10-06 13:01:59 | 日記
1989年。時代は昭和から平成に変わる、、、。私の母は、本当は大正15年生まれなのに、

昭和生まれだといって、すましてる、、、。(昭和元年って何日あるの?、、、。3月生

まれなのに、、、。昭和64年も、以下同様。) 平成元年2月24日、その車列は、八王子、

高尾山の麓に向かっている。日産プリンスロイヤルの寝台車。設計者のひとりである、

千野甫さんは、自宅近くの八王子の街道で、その車列を見守る、、。自分の設計した車。

それも、おそらく最後の「御奉公」、、、。(今はトヨタに変わってしまった、、、。)

わかるなー、こういうときの設計者の気持ち。建築の設計者も、かくありたいもので

す、、、。車も建物も、ものを設計する人の気持ちは同じです、、、。



少し長くなりますが、ある文章の最初の部分を引用します、、、。



建築家として、もっとも、うれしいときは、建築ができ、そこへ人が入って、そこでいい

生活がおこなわれているのを見ることである。

日暮れどき、一軒の家の前を通ったとき、家の中に明るい灯がついて、一家の楽しそうな

生活が感ぜられるとしたら、それが建築家にとっては、もっともうれしいときなのではあ

るまいか。家をつくることによって、そこに新しい人生、新しい充実した生活がいとなま

れるということ、商店ならば新しい繁栄が期待される、そういったものを、建築の上に

芸術的に反映させるのが、私は設計の仕事だと思う。つまり計算では出てこないような

人間の生活とか、そこに住む人の心理というものを、寸法によってあらわすのが、設計

というものであって、設計が、単なる製図ではないというのは、このことである。


何度読んでも、うるうるっときてしまって、涙が出そうになる。最後までは長い文章なの

ですが、若い設計の方達には、是非、読んで欲しい、、、。吉村先生の、「建築と設計」

という文章です。(本当は長い副題が付くのですが、ここでは割愛します。)平易な文章

なのに、大事な事がちゃんと書かれいて、相手に伝わり易い文章、、、。吉村先生の設計

と同じだ、、、。同じ明治生まれの、林達夫さんや渡辺一夫さんの文章と似ている、、。

敗戦前も敗戦後も、何も変わらなかった人の、だからこそ書ける、文章、、、。どんな

理不尽があっても、設計にも、依頼主にも、ご自分にも誠実だった、吉村先生、、、、。

あっ、ダメだ、やっぱり涙が出そうになってきてしまった、、、、、。

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帝国ホテル

2014-10-05 17:51:24 | 日記
帝国ホテルと言えば、旧帝国ホテル。もしも、今、日比谷公園の前に残っていたら、間違

いなく、「世界遺産」。こんなものを壊すなんて、R事件のOさんじゃなても、「蛮行」そ

のもの、、、。もしも残っていたら、日本国は、国と学会と建設業界の総力をもってして

(学会って建築学会ね、一応、、)その地下免震耐震改修工事を行っていたでしょう、、。

(あー、もったいない、、。東京という街の「心の珠玉(たま)」が、失くなってしまって

いるままなのです、、、。)

ご当地、函館市は、各界に様々な人材を輩出しておりますが、早稲田大学名誉教授、明石

信道さんも、そのお一人。その大著『旧帝国ホテルの実証的研究』は、建築本なのに、本

の中で散歩が出来ると言う、稀な書。(小説なら、いざ知らず、、、。)ある時、例の

ごとく歩いておりましたら、「はっ!」と気が付いてしまいました。このホテル、玄関か

ら入って、今は明治村に残っている入り口ホールの、さらに奥に行くと(明治村は残念な

がら、そこで行き止まり、、、)、長大なバンケットホール?があり、その両側には列柱が

並ぶコリドー?(つまり廊下)があるのですが、そこをさらに奥まで進むと、脇に、目立た

ない、人が行き違うのが大変なくらいの、狭い階段があるのです。この階段を上がると、

それまでの進行方向(東西)とは直交する方向(南北)で、この建物の巾いっぱい長さの、

2階のプロムナード(談話室というか、さらにその奥の孔雀の間の待機スペースとでも言

いますか、、、)に、いきなり出ます。(ここの天井は圧巻で、この建物の肝でしょうか?)

さらに、そこから上を見上げると、不思議な半球状の飾りのある3階の(確か、この3階

に上がる、途中踊り場で直角に折れる、やはり狭い階段も、ちらっと見えたような、、)

、巨大な踊り場といいますか、明り取りもかねたようなフロアーがあるのです。(ここか

ら孔雀の間が見下ろせた?、プロムナードは、もちろん見下ろせます、、。)

何に気が付いたかと言うと「この空間構成は吉村先生の軽井沢の山荘と、同じじゃないか!」

と思ってしまったのです、、、。片方は当時の巨大ホテル、吉村先生の山荘は、ご存知の

通り、7m20cm正方形の小さな木造の建物です。でも、同じなんです、、、。吉村先生の

山荘は、1階のRC部分の階段から、


     




2階に上がって振り返ると、急に視界がひらけます。


     


(ここに、子供のような喜びがあります、、、。)そして、さらに、梯子のような急角度の

さらに狭い階段を上ると、(またしても振り返ります。)


     
     

3階の小屋裏部屋から、4m80cm×4m80cmの居間が見下ろせるようになっているのです。

(ここにも、子供のような喜びがあります、、、。)



     




吉村先生は7m20cm×7m20cmの中で、それを無理なく自然に実現してしまっているのです、、、。

囲碁で言えば、手筋、形とも良く、大局観に優れ、その読みは深くて、人間的にもバランスが良く、

いつの間にか半目勝ちをしてしまう名人、とでも言いましょうか、、、。

私が「終生、尊敬申し上げる」って意味、少しはお判り頂けるでしょうか、、、?



この項、実は手元にホテルの平面図もなにもなくて書いております、、、。勘違い等あり

ましたら、訂正するかも知れません。





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朝鮮人脈

2014-10-05 14:14:58 | 日記
と言っても、そんな言葉はない。私が勝手にそう呼んでいるだけである。私の母は、西暦

2000年代の今でも、思い出の「朝鮮人脈」の中で生きているのだ、、、。美枝子ちゃんが

どうしたとか、宝塚の何とかちゃんはどうだったとか、母の話は、そのほとんどが、朝鮮

時代、それも自分にはまったく判からない、「しもきせん」と言う、自分には、その漢字

さえ判らない、おそらく今の北朝鮮の山の中のどこかの、まるで架空の街?での出来事と

、その人達の引揚げ後の内地での、あーでもない、こーでもないの話に終始するのだ。

登場人物のほとんどは「おばさん」で、その人達の息子さんや娘さんの動向に、母は猛烈

に詳しい、、、。最大の関心事は、息子さんの場合は学歴で、娘さんの場合は結婚相手で

ある。いい年をして結婚をしていないと大変だ、「どうしたのかしらねぇー」って、大き

なお世話だ。こっちは、そんな人達に会ったことも見たことも無いんだってば、、、。

それでも母は延々と喋り続ける、、、これは、もはや、もう、「生き甲斐」そのもの、

これなくしては生きていけない、生きている意味そのもの、なのだ。どうだの、こうだの

言っても、どうしようもない、、、。その母の女学校の同窓会は、たしか「白楊会」とか

言ったのだが、何年か前に開くこと自体やめてしまった。(毎年、帝国ホテルとかで、や

っていて、某有名照明デザイナーの女性も参加していたらしい、、、。)しかし、もう、

これ以上開催しても、会員があまりにも高齢化し過ぎて、毎年開催するには忍びない、と

言うことらしかった、、、。(具体的には、お察し下さい、、、。)それでも母は諦めない

、、、、。毎年、小さなグループで、どこかで小会合を開いていた。(新宿の中村屋とか

、、、こういう需要があるんですね新宿の中村屋さんには、、、)たが、さしもの母も、

ここ何年かはパッタリそれさえもなくなってしまった。長男の十何回かに及ぶ見合い話を

その「朝鮮人脈」で乗り切った母が、である、、、。(私は三男なので被害なし、、、。)

人生って、こういうものなのですね、、、、。



この項、建築には一切関係ありません。お察し下さい、、、。




追記 「しもきせん」の漢字は「下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)」でした。

    今の朝鮮民主主義人民共和国の日本海側の海岸の街、「興南」から山の中に

    入った所らしいのですが、Google Map では見つかりません、、。長津線と言う

    線路の近くで、大きなダムがあるはずなのですが、、、。





追記の追記  見つけました!!

   
       


       赤い印で하기천역(下岐川駅)とあるところ。左上は赴戦江ダム(부전강댐)




       久保田豊『私の履歴書 経済人9』日本経済新聞社・1980年 より


       私が赴戦高原に足を踏み入れたのは大正十四年の夏であった。(中略)測量、調査は

       約六ヵ月で終わり、いよいよ設計にとりかかった。赴戦江は長津江、虚川江とともに

       鴨緑江の支流で、赴戦高原を北西に流れて鴨緑江に注いでいる川だ。森田さん(註・

       森田一雄)と私の案は、この流れをある地点に集め、そこから逆に、水源の方にトン

       ネルを掘って落差の急な東海岸―日本海に落とそうするものである。いわば流域変更

       であり、人間の力で水の流れを逆にしようというのだから大きなそして愉快な計画で

       ある。



赴戦江ダム(부전강댐)

       




       この写真の発電所の右下が「下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)」の街?

       





     私の母方の祖父が亡くなった時に、久保田豊さんが代田橋の祖父の家に来て下さいました。

     祖父の墓は豪徳寺にあります、、、。




追記その3   下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)の町

        左上が発電所。右下が母の通った小学校?(当時は国民学校?)


        




興南のコンビナート









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