馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

お袋と息子の絆。

2012-12-29 23:02:16 | 日記

 

12月27日(木)

17時、大学病院へお袋の様子を見に出かけた。

遺漏なので食べることできず。

点滴のみ。

口が回らないかすれ声で、トイレに行きたいとせがむ。

ベッドの鉄棒を叩く。

 

額の湿布を換えてあげる。

お袋を見詰めて、又泪が零れた。

そんな私をじっと見詰めるお袋。

19時半 弟がやってきた。

来年早々に他の介護専門病院へ入れると言った。

既に八ヶ月経過、同じ病院に、居させるわけにはいかないのだ。

20時 義妹の副院長がやってきた。

お袋は、手を横に振り、「帰れ」のしぐさをした。

病院を出て、246号線沿いの中華店に入り

ビールと焼きソバを食べた。

 

246号線の緩い坂道を渋谷駅に向かって歩いた。

手袋を忘れたのでコートに両手を突っ込み

冷気を避けようと前かがみ歩く

煌びやかなネオン街が見えてきた。

若い男女の人群れは輝いている。

いつかは忍び寄る愛憎など今は微塵もないのだ。

 

子供を父や母に結びつけていた絆は決して切れることはないけれども、それはゆるむのである。
byローレンス


クリスマスランチ!

2012-12-29 21:43:55 | 日記

12月25日(火)クリスマスランチ

パンと七面鳥のハム、ベーコン

野菜に挟み食べた。

  

七面鳥の肉はあっさりしていた。

 

ミニトマトスープもでた。

  

第三のビールを飲みながら

ささやかなクリスマスランチは素敵だ。

ランチ後、デザイナー女性が巳年の年賀状デザインをしてた。


ホンビノス貝。

2012-12-29 21:33:51 | 日記

12月24日(月)

昨夜 居酒屋あんこうで地元の自治会長にあった。

昼間 餅つき会があった。

地元漁師が世話になったとホンビノス貝を差し入れた。

http://www.youtube.com/watch?v=Zj5gC16bIv8

私にもおすそ分けしてくれた。

昼 酒蒸しして食べた。

 

海外ではクラムチャウダーに使われる。

アサリより一回り大きく、肉は少し硬い。

妻は食べないので、一人ビールを飲みつつ食べた。

食べ過ぎで痛風発作が心配だ。

今夜 通夜に行くのでロキソニンを飲んだ。


通夜の席。

2012-12-29 17:46:12 | 日記

12月24日(月)

前夜20時 携帯電話に実兄から知らせがあった。

実兄が私の携帯に架けてくるのは初めてだ。

内容に戸惑った。

 

16時頃、船橋駅から総武線乗車。

飯田橋下車、有楽町線に乗り換え市川橋駅で下りる。

A2出入り口から外に出ると高架下だった。

交番で大泉寺の場所を尋ねた。

近かった。

ローソンの角を左折して坂を少し上がると

瓦葺の大きな山門があった。

脇の入り口から中に入った。

灯篭の薄明かりに浮かぶ本堂。

受付で記帳。

上り廊下に実兄が立っていた。

 

控え室に入った。

黒服姿の老人達が長テーブルで正座していた。

 

実兄が私を老人達に紹介した。

老人の一人が「なかなか貫禄があり、社長風だな」と言った。

実兄は苦笑しながら「実は!そうなんですよ」

私も次男ですと挨拶。

まもなく弟もやってきた。

 

通夜が始まった。

浄土宗の寺なのだ。

中年の弁慶のような体躯の坊さんが木魚を叩き出した。

襖が開き、弁慶坊さんにそっくりで父らしき老僧が現れた。

 

読経が始まり、親族側と参列者側が祭壇と老僧を挟んで

向き合った。

 

親族側も参列側も列席は10人に満たない。

焼香が終わり、別室の畳部屋で通夜の会食が始まった。

 

親族で顔が分かるのは、兄嫁とその嫁さんの兄と嫁さんの姉の旦那だけ。

兄嫁のお兄さんに挨拶した。

私を忘れていたようだ。

20年以上前、実兄が3月の八ヶ岳で遭難した。

新宿駅南口で午前7時半、現役大学山岳部員と待ち合わせ

パンツ一つになって、部員が持ってきた衣類、登山靴を借り、冬山装備の支度した。

特急あずさ2号に乗って茅野まで行った。

同行したのが、兄嫁とその兄で中学の数学教師だった。

兄嫁の兄は

「ああ!そんなことありましたね」と思い出したようだ。

 

実兄の義母98歳

23日 午前4時、老衰による静かな大往生。

 

98歳の女性の死に参列すべき関係者は既に旅立ってしまった。

20名程の参列者は血の繋がりある者、多少の血縁関係者

又は血縁なくとも身内と称する者の集まりだ。

 

何処かですれ違っても認識しない、飲み屋で隣会っても分からないだろう。

98歳でこの世を去った葬儀という儀式。

 

実兄が会食の席で隣に座り、話しかけた。

「お前は次男だから、どうしても来てもらいたかった」

私は酒を飲み、頷きもせず下を向いていた。

「お袋が何と言うと、こちらの葬儀だ、口出しさせない」

「お袋は病院で寝たきりだ、心配するな」

 

必死に説明する。

 

私は、親族関係のあらゆる行事に参加したことはなかった。

拒んだ訳ではなかった。

無視されたので、祝い事、親族葬儀、実兄の転居

孫の出産等あらゆる身内儀式を知らなかったのだ。

 

10年以上前11月に私の妻の父(義父)が亡くなった。

翌年3月20日彼岸の日

私は長女である妻の夫として、寺で供養をすることになった。

 

お袋から突然「3月20日に喜寿の祝いをするから来い」と連絡してきた。

 

当然無理なので日程をずらしてくれるように言ったが

無視、強行された。

 

その後、おふくろは「次男は我がままで来ない」と親族に嘆いた。

その言葉に泣いた。

私は幼い頃からの差別待遇も耐えてきた。

 

50代半ばで母親に絶縁状を送った。

 

息子が実母に、「親子の縁を切りたい」

反対は有り得ても、子供がすることは殆ど無いだろう。

 

その書面を見た実兄から電話が入った。

 

「お袋を許してあげてくれ、お袋の行為は致命的だ」

懇願された。

 

私は電話に聞き入り頷くことも無かった。

 

男3人兄弟、仲は良いのだ。

 

60歳過ぎだが未だ現役で仕事している。

実兄は日本の予備校界では68歳で二番目の年長講師として有名だ。

白髪だが、人気商売なので黒く染めている。

 

弟も絶縁材料会社を経営しているが苦闘中

3人兄弟、それぞれの事情があって働かねばならない。

 

実兄、弟は、私がお袋から、疎んじられているのは理解していた。

 

私がまだ幼い頃、お袋が「3人も男の子がいて大変なの、上と下がいれば十分、真ん中は要らないわ」近所のオバサンに立ち話しているのを聞いた。

 

お袋は軽い気持ちで言ったのだろうが

幼い私にも、その言葉は分かった。

トラウマになって現在も苦しみ続けるのだ。

 

当時は貧しかったので男3人を育てるのは容易ではなかった。

どうしても、手が回らず次男に目を向ける余裕はなかった。

 

私は高校、大学奨学金を貰いながら卒業した。

 

実兄、実弟は私に気遣い遠慮がちだ。

 

20時、通夜の席を辞して、駅前の中華居酒屋で弟と飲み直した。

 

弟の嫁さんは大学病院の副院長兼看護部長、日本手術看護学会理事長の要職で激務

子供はいない。

横浜の実家でお袋の面倒をみていた。

 

弟にお袋介護の負担をさせているのに私も負い目があった。

お袋に愛憎半ばしても、私を生んだのは間違いない。

 

居酒屋で「お袋には違いないから、余命迫るのでなるべく見舞いに行くよ」

私が冷酒を弟に注ぎながら言った。

「うん!そうしてくれるか」

弟は言った。

 

飯田橋で弟と別れた。

 

船橋駅を下り、突き刺さるような寒さを歩く。

震えが止まらない。

通夜で出かけようとして喪服をだしたら、腹回りが膨張したので

ズボンのベルトを締められないのだ。

致し方なく、夏の喪服着用となった。

帽子、マスク、マフラー、コートを着けたが

海沿いの夜道は、北アルプス白馬岳で凍傷になった右手、右耳が痛む。

 

水門を吹き抜ける風に船溜まりの漁船同士が揺らぎ

擦れあい唸っていた。

大学病院の副院長である義妹の言った言葉

「お母さんは年内まで、もつかどうかと、いうところ」

まもなく今年も終わる。

 

一日一日、目の前に現れては消えていく「今日の出来事」に、思いを乗せて向き合ってきた。

今年の手帳の断片には、その日そのときの想いが滲んでいる。

手帳の日付記入欄もわずかだ。

日々に生まれて、去っていった幾つかの風景が幻燈写真のように思い出されてくる。

 

「すべては生まれ、消えていく」。                               

 

よろこびも悲しみも・・・・。まさに森羅万象、諸行無常である。

 

昨日は今日に移動し、明日は今日に連続していくと思うのは、

錯覚なのではないかと云った人がいる。

過ぎ去ったものは、二度と取り返すことはできない。

「日々に新たに」という言葉があるが、生きていく

 

ということは、その一瞬一瞬を新しく生きていることに他ならない。

恩讐を棄てなければ明日も苦しみだけだ。

まだ、まだ、修業足りず、安らぎがないのだ。

                         合掌!