1月15日(土)夜半 ベランダから見た外は、少し吹雪らしくなった。
午前0時過ぎに帰宅した娘の足指は赤色。
ブーツ履かずにヒールで出かけた。
「帰り道、凍傷になるかと思った」
都心で暮らす娘は雪の危険は判らない。
自然災害に対応出来ない交通網。
自然災害に適応出来ない人々。
大地震が起きた時、都会暮らしの人々は
咄嗟の危機判断は出来ないだろう。
午前10時、雪融けのアーチ橋はシャーベット状。
漁港を渡って買い物。
強風と豪雪の道を歩くと、妙に興奮する。
雪山登山がしたくなった。
17歳から始めた山登り
絶頂期は大学体育会山岳部の4年間。
心身共に強靭だったな!
今ではお腹が西瓜のように真ん丸く、台湾では西瓜の社長と呼ばれている。
スクラップ帳に貼り付けたセピア色の写真をめくった。
47年前の雪山の思い出が開かれた。
冬富士、剣岳から槍ヶ岳縦走、穂高北尾根、白馬岳
蝶が岳、常念岳、霞沢岳、南アルプス北岳、
谷川岳氷壁、八幡平縦走
遠い記憶の断片を辿りながら、今の自分を考えた。
老齢の身では叶わぬ雪山登山。
三浦雄一郎さんのごとく、著名でお金持ちで、助っ人がいれば別だが?
山岳部長の教授をザイルで繋ぎ
剣岳の岩と雪ルートを登った思い出。
軍隊以上の規律とシゴキは嫌だったが
弥陀ヶ原ラッセル
雪と氷と強風の中、アイゼンとピッケルが堅氷に
突き刺さらない登攀は発狂しそうだった。
昭和42年12月30日 立山頂上。
尾瀬ヶ原 蝶ガ岳
積雪の北尾根では滑落もした。
白馬岳登頂ではブリザードで凍傷にもなった。
白馬岳ピーク直下
だが、下山して雪頂く峰峰を仰ぎ見ると
安堵と共に、又登りたくなった。
テント設営 八幡平縦走
大学卒業して社会人になった段階で
雪山登山は二度と登らないだろうと思った。
二度と北アルプス穂高に来ることは無いだろうと思った。
しかし、突然大学山岳部同期が北アルプス滑落の知らせを受け
穂高に登ったのだ。
奥又白谷の岩壁に岩と雪の間に遺体は挟まっていた。
富士山頂上を目指して
北尾根を登る
今でもハイキングはするが
冬山装備のピッケル、アイゼン、かんじきは
いつの間にか消え去っていた。
高齢者の無謀登山が報じられるが
若い頃の登山暦が少ないので
判断基準の体力、経験、天気、技術が
実体験としてない。
ガイドはベテランで体力もあるが
高齢者の体力度を推し量れない。
私がいた山岳部も創部して70年以上になるが
新人部員が入らず廃部となった。
遭難死8名
その内、冬山遭難死7名
同期で生き残りは私だけ。
泉下の客となった同期二人と登った丹沢へ
丹沢塔の岳
左昭和48年奥又滑落 右平成10年富山立山 旅立つ。
早春に丹沢残雪登山でもするか?