馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

台北 3日目 帰国。

2014-08-10 22:11:18 | 日記

8月5日(火) 昨夜はホテルで飲んだ。

シャワーを浴びただけで、日本時間午前2時に眠る。

7時半、起床してバブルジェットバスにゆったり浸かる。

8時半 朝食 ハンバーガーだった。

昨日 市場で買ったライチを食べる。

日本では新鮮で香り高いライチは食べられない。

台湾南部まで行けば枝ごと露天で売っていて

食べ出したら止まらない。

10時 KENNYがやって来た。

友人の息子を連れて出かけた。

戻ると、ライチゼリーの袋を大量に持ち帰った。

私達へのお土産だ。

車に荷物を入れて出発。

夕方16時45分発で帰国だ。

 

何処を走っているか分からないが

KENNYが昼飯を食べようと言った。

 

古い家並みをニョロニョロ走る

電信柱に「五工」の地名。

名前の通り工場地帯で、あらゆる金属加工工場が密集している。

KENNYは車から顔を出し

通路に丸首シャツと短パン、足下はゴム草履の腹が出た禿げ爺さんに

台湾語で話しかけている。

KENNYに聞くと、下町台湾語で上品ではないそうだ。

崩れ落ちそうな建物の入り口に車を停めた。

隣のコンクリートの建物に入った。

 餐庁処だ。

店内は広いが飾りつけはなく

丸テーブルが幾つも並んでいる。

KENNYが言う。

「ここは 人気店なので、早目に入店しないと食べられない」

工場地帯だが、海外の担当者がビジネスランチをする。

一般的労働者は店のテイクアウトとして山積みの弁当が積まれ

配達される。

欧米人も入ってきた。

 

けして上品とは言えない食堂で英語が飛び交う。

台湾料理が直ぐに運ばれる。

厨房に向かって店主らしき爺さんが

剛快 剛快 !(ガンクワイ)

早くしろ 早くしろ と怒鳴っている。

ビジネスランチはスピードが一番だ。

運ばれてきた料理は凄い。

 

これぞ!台湾料理だ。

今まで名店と呼ばれる店で食べたが

その味とも違う。

日本の台湾グルメ番組は論外だが

どれも美味しい。

汁無し麺は絶品だ。

スープは何度も飲める鶏スープ

クドクも淡白でもない素晴らしい。

台湾ビールは水ぽっいのだが

気にいらなかったが

亜熱帯気候では水分多目でないと

酔いが早くなるのだと納得した。

テーブルに出された台湾クラシックビールは

日本風の味合いだ。

 

さすが、KENNYはグローバルビジネスマン。

接待のポイントを摑んでいる。

 

私もサラリーマン時代 旅行関係の仕事をしていた。

観光ルート、価格により観光客を連れて行く店を

差別していた。

 

ずっと、以前、大手通信会社の方々が台湾旅行をするので

アドバイスした。

私が勧める旅行会社は高いので、自分達が見つけた旅行会社の価格が

安いので選んだ。

 

私が乗る飛行機と同じだった。

台湾到着後、私はKENNYと取引先で商談中だった。

携帯電話にそのグループの一人から電話が入った。

故宮博物館前で一人が食当たりで動けなくなった。

緊急事態である。

昼飯の食事が暑い店内テーブルに事前置かれての食中毒だ。

車で故宮博物館に向かったが渋滞で動けない。

暫くすると、病院に運ばれたとの連絡。

私達は車を駐車場に入れ、タクシーで病院に向かった。

 

食中毒の男性は廊下に寝かされ青ざめ唸っていた。

KENNYの対応は素早い。

看護婦を呼び、直ぐに小銭を摑ませ

ベッドに運んだ。

診察室に入り、担当医師にもお札を渡した。

直ぐに治療を始めて夕方には回復した。

 

台湾グルメ旅行のテレビ番組に惑われてはいけない。

知ったかぶりも良くない。

夏の台湾団体旅行での食事は注意しなければならない。

結局、私とKENNYは仕事が出来ず

通信会社のツアーもダメになった。

それからは 旅行の相談は受けない。

旨い料理を食べながら、食中毒事件を思い出していた。

 

食事後、台北101へ出かけた。

2004年まで高層ビルとして世界一509mだった。

新しいビジネス街で、世界貿易センターもあり

来台の度に、必ず訪れた。

建設されて間もない頃、建造物として最上階でのトイレで

記念放尿した。

 

周囲を一回りして松山空港に向かった。

14時 KENNYとお別れだ。

 

本当にいつも世話になる。

感謝 太多!

 

友人の息子は8月25日

留学のために松山空港に降り立つ。

KENNYが迎える。

 

親日の台湾を好きになって欲しい。

逞しい青年として日本に帰国して欲しい。

 

上昇する飛行機の窓から

かけがえのない友人が活きる

台北の街並みが見えなくなるまで覗き込んだ。

 

台北から帰国

 

台北番外編に続く。

 

 


台北2日目の夜。

2014-08-10 15:54:36 | 日記

8月4日(月)18時

中正記念堂駅からタクシーに乗り林森北路へ。

日本の新宿歓楽街に似ている。

戦前は日本人住宅街だった場所で、京都の街並みと同じ。

六条通、五条通の地名がある。

通りにはクラブ、小料理屋が日本語ネオン看板で連なる。

台北に来るたびに飲んだクラブはまだあった。

常宿も新しく建て替えていた。

日本料理の店に入った。

店名は変わったが店内は以前と同じ。

上がり框の仕切られた座敷。

掘り炬燵テーブルに案内される。

店員も日本女性で丁寧、優雅な接客はほっとして和む。

歩き続けて体は水分抜けて干物状態。

日本の生ビールで乾杯!

 

いやあ~ ホップが乾いた砂地に滲みこむように体が泡立つ。

日本と同じ居酒屋の肴が並ぶ。

日本酒も良いな!

 

仕切られた隣から煙草の臭いがする。

隙間から覘くと煙草を吸っている。

店内での喫煙は法的罰則もあり禁煙なのだが?

従業員に尋ねた。

「はい!吸えますよ」

隣の日本人ビジネスマン達の灰皿を見た。

「成る程ね、上に政策あれば下に対策ありか」

灰皿の代わりにステンレスのビールコップがテーブルに置かれ

水が入っていた。

店側は禁煙遵守しているが

お客様が勝手にビールグラスを灰皿代わりにして喫煙している。

 

私と友人は飲兵衛―である。

友人は煙草を吸うが私は原則吸わない。

しかし、対談相手が喫煙する時は、卑しくも貰い煙草するのだ。

KENNYは酒、煙草はやらない。

 

ここでKENNYの履歴を語らなければならない。

彼は台湾人つまり本省人である。

 

5年制の貿易専門学校で学び、1年程勤めてから

オーストラリアで1年間英語を学んだ。

徴兵制の台湾で2年間、軍隊勤務した。

その兵役中に日本語を覚えようと、夜間は兵舎で勉強した。

除隊後、日本に渡り、御茶ノ水にある日本語学校で1年間学ぶ。

それから、九州大分の大学短期学部英語学科を卒業。

台湾に戻り、私が取引している台湾社長の筆記具メーカーに勤める。

KENNYが入社前は女性社員が担当であった。

その後、退社してスペインの布地レース会社に勤務。

ヨーロッパ、アジアを一人でセールス。

日本留学時代の先輩が社長をしている

二部上場、金属プレス型枠メーカーに海外担当として就職。

販売先は ノキア、IBM等コンピューターメーカーの型枠製造

現在は、海外担当 取締役営業部長である。

 

日本料理屋でのKENNYの振る舞いを見て

感無量である。

私と知り合った頃は20代後半。

働く社会での経験は少ないので

仕事の暗黙ルールを教えた。

商談で食事、接待は殆ど未経験。

台湾での飲み屋も私が案内して教えた。

酒の飲めない彼は苦労したが

誠実な人柄で信頼を得た。

 

今、日本料理屋での対応は、洗練され風格がある。

頼もしい。

KENNYが入社前は女性が担当だったので

夜は一人で林森北路の怪しげなネオンを彷徨い

日本小料理屋で日本人駐在員が一人寂しく1日遅れの産経新聞を読みながら

キンピラゴボウを肴にアサヒビールを飲む。

店内は孤独のグルメなのだ。

私も同じようにした。

食事を終えると、クラブに入り妖艶な台湾小姐と

日本語で会話した。

 

 

KENNYが独身の頃

私の息子を連れて夜中まで遊び

未成年が入店禁じられているディスコで遊んだ。

KENNYは兄と姉。下に妹がいる。

私の息子を弟のよう面倒をみた。

息子が留学して2年目 ストレスと疲れで盲腸になった。

手術、入院に際しては、息子のベッド床下に寝て看病した。

彼の助けあったからこそ、今まで商売ができたのだ。

彼も大恩人なのだ。

 

台湾人は中国人が大嫌いのブログに彼と台湾取引社長の気持ちを書いた。

21時半、眠らない暑い林森北路ネオン街を歩き

台北駅から地下鉄に乗車。

動物園駅下車、タクシーでラブホテルに22時半着。

KENNYは自分の車で帰宅。

友人と私は日本酒で飲み直し。

 

アイホーンの歩数計を見た。

歩行数 24.905歩

距離 17.932m

歩行時間 3時間40分

 

炎暑の亜熱帯を歩きました。

 

足底筋膜症の痛みを忘れていた。

俺!60代後半なのに体力あるな?

 

馬鹿も一心!で頑張っている。

 

台北3日目に続く